子どもに安心を
古山明男
安心という地盤を
子供の教育について、一律に「このようにしたら」という事柄はあまりない。ほとんどのことは時により場合により相手によりである。
しかし、これならどんな場合でも言えるというものがある。それは「子供に安心してもらう道を考えましょう」である。これを目安にしていれば、無気力な場合、落ちつきがない場合、能力を伸ばしたい場合、その他もろもろのことに対処する地盤ができる。地盤なしにはなにもできない。また、地盤ができただけで自然解決することがたくさんある。
安心のあるとき、ないとき
安心している子供にはこのような特徴がある。
・好奇心が旺盛で、いろいろ試してみようとする。
・考えが柔軟である。
・失敗してもくじけない。
・他人と協調できる
・同調しすぎない。一人にもなれる。
・周囲の状況が見えている。
・天真爛漫である。
・大人と正面から話ができる。
いっぽう、安心のない子供はこのような特徴がある。
・探求や冒険ができない。
・特定の考えに固執する。
・失敗を怖れる。失敗するとめげる。
・自分のことばかり考えている。
・同調しすぎる。一人になれない。
・攻撃的、または防御的である。
・間違いを指摘されるのに耐えられない。
・大人の話をすぐにそらしてしまう。
子どもの持ついろいろな力を引き出したいなら、まず安心をもたらすことである。そのあとなら、すべてはたやすい。
生活面でも学業面でも教育上の問題といえるもののほとんどは、安心できない子供のやみくもな自己防衛の行動である。その行動だけをとりあげて矯正しようとしていても、なかなかうまくいくものではない。1つの問題を解決すると、もう2つ問題が吹き出してくる。
安心があることが秩序
貧しくて盗みや強盗が多発する国があったとする。取り締まりが必要なのはもちろんだ。しかし、軍隊警察の強化だけを考える政府は無能な政府である。刑務所にあふれるまで犯罪者を捕まえても、犯罪は起こり続ける。
有能な政府は国を豊かにすることを考える。衣食足りて礼節を知っていることが、最も優れた犯罪防止策である。
それと同じことである。子供を安心させることを視野に入れずに、「あれがまずい」「これが足りない」「どうやってこれをやらせるか」とばかり考えていれば、次から次へと問題が絶えない。
社会での生活において秩序がある状態とは、政府の命令が行き届くことではない。人々が安心して日々の生活を営めることである。教育において秩序があるとは、子供が安心していることである。
安心をもたらす二つの力
子供を安心をもたらす力に二つある。一つは、無条件に包容する力である。「おまえがなんであろうと何をしようと、おまえはわたしの大事な子供」という感情である。愛情と言ってもいい。この力が働くと、子供の中にもともとあるものが動き出す。愛情は、われわれが使うことのできるたった一つの魔法である。
もう一つは世の横暴と非道から子どもを守る法や道徳の力である。正義と言ってもよい。それは、大人がまず守り、子どもにも守らせるものである。
「人間の尊厳を守る正義が、おまえをこの世のさまざまな横暴な力から守るだろう。私は守る。おまえも守り、また他者にその正義を適用しなければいけない」
この二つの力を日常の中で実践すること。みなで工夫し、それを子育てと教育の文化にまですること。たいへんな仕事であるが、それに努力すれば、教育上の諸成果はたやすく転がり込んでくる。
安心という地盤を
現行の主流の教育は、そして古来からの教育は、手段を選ばず子どもに何かをたたき込むことである。これが安心もなく、納得もない人々の大群を作り出した。そのため社会はいつも混乱している。教育は脅してでも辱めてでも子どもにさせるべき事柄の箇条書きになっている。そうではない。子どもには学ぶ本能がある。子どもは、いろんなことを知りたいし、出来るようになりたいし、大人と摩擦を起こすことを望んでもいない。
子どもからは、引き出せばよい。鍵は、安心である。
子どもの善性を信頼する子育て文化、教育文化ができればと思っている。多くの人のご協力を得たい。
頭脳ではなく安心の問題
安心のある子、安心のない子の類型は、そっくり頭の良い子、頭の悪い子の類型と一致する。つまり、安心の問題が頭の善し悪しの問題と取り違えられている。
賞罰、脅し、競争は破壊的である。それらは、安心できない子供をたくさん生み出す。すると、大人はいっそう脅しをかける。はてしない悪循環がある。
教育問題となっているものの多くは、安心の問題に由来する。現在のふつうの教育哲学は、それを頭の問題にしてしまっている。頭の問題なら生まれつきだ。だから、子供に対して嘆きいきどおることしかできなくなってしまう。それで子供はいっそう安心できない。
われわれは、この悪循環を断ち切ることができる。
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