「ある日の生徒会室」(1)

暗闇から引き戻される瞬間、寒気を感じて、小さなクシャミが出る。
 「クシュッ」
 「……月子さん。目が覚めたのですか?」
聞き覚えのある優しい声に起こされ、名前を呼ばれた夜久月子は、大きな瞳を開けた。
目の前に転がるシャーペンの大きさと、頬の下に敷かれたノートの存在に気付いた途端、
大慌てて身体を起こす。その拍子に、肩に掛けられた制服の上着が、滑り落ちていった。
 「あれ? 私、いつの間に眠っちゃったんだろう」
照れ隠しのように目を擦りながら、無意識の内に上着を肩に掛け直していた。
包まれていた時の温もりがまだ残っていて、再び眠気を誘ってくる。
 「疲れているのではないですか? 部活も忙しいのでしょう?
 今年こそはインターハイに優勝するって、宮地くんが張り切っていましたよ。
 副部長になったことで、更に気合が入り過ぎているようにもみえますが、
 彼に合わせて練習をしていたら、貴女の身体が持たないのではないですか?」
 「ううん、大丈夫だよ。今年は私も、優勝を狙ってるの。その為に頑張ってるのは、
 宮地くんと一緒だし。それに、この間入部した一年生が、すごく上手くてね。
 私も負けてられないな……って、クシュン」
目の前の席で心配そうな顔を向けている青空颯斗に、笑顔を浮かべて元気な処を
アピールしていたつもりが、途中で盛大にクシャミをしてしまった。
 「おい、俺の制服に鼻水付けんなよ」
横から呆れた声が聞こえてくる。声の主は、生徒会長の不知火一樹。
白いワイシャツ姿のまま、生徒会長席に座っている。
 「これ、一樹会長のだったんですね。すみません!!」
自分の制服にしては大きくて、すっぽりと包まれていると思った。
制服に一樹の香りが残っている気がして、急に恥ずかしくなってくる。
赤くなっていく顔をどうすることもできないまま、制服を一樹へ返しに行く。
 「クシュ」
身体を包んでいた温もりが消えた所為か、またクシャミが出てしまった。
心なしか寒気も感じる。もしかしたら風邪を引いてしまったのかもしれない。
そんな考えが脳裏を過ぎった時、一樹の小さな吐息が聞こえた。
 「風邪の引き始めだな。今日はもう良いから、オマエは帰れ。
 途中で星月先生の処に寄って、薬も貰って行けよ」
 「そんな、ダメですよ。私なら大丈夫です。それに、まだ仕事が残って……」
転寝をして風邪を引くなんて、一樹に呆れられてしまったのだろうか。
不安な気持ちを打ち消したくて、慌てて首を横に振る。
 「心配するな。オマエの仕事は俺が片付けておいた。
 残ってる仕事はもうないんだから、ここに居る必要はないだろう」
 「でも……」
チラリと机の上に視線を送ると、先ほどまで枕にしていたノートが、
真っ白いページのまま開かれている。
今日の仕事が手付かずのまま残されているのは、明らかだった。
 「そんなヨダレまみれなノートなんて使えるか。俺が終わったと言ってるんだから信じろ。
 というわけで、今日は全員解散だ。颯斗も翼も、もう帰って良いぞ。
 俺は戸締りをしてから帰るから、オマエ達は先に行ってくれ」
月子の視線に気付いた一樹が、パンっと大きく手を叩くと、話を強制的に締め括る。
一樹の強引な言い方に、月子は戸惑いを隠せないまま、立ち尽くしていた。
 「判りました。では、今日はこれで終わりにしましょう。……翼くん、もう帰りますよ」
そんな二人のやり取りを見守っていた颯斗が、広げていた書類を手早く片付けると、
生徒会室の奥にいる天羽翼へ声を掛けに行く。
 「ぬ? もう帰るのか? 今日は随分と早いんだな」
帰り支度をして出てきた翼が、月子を見付けた途端、笑顔で近寄ってきた。
 「あっ、月子。もう目が覚めたんだ。気持ち良さそうな顔で眠っていたぞ」
 「う、うん」
 「ぬ? どうかしたのか?」
曖昧な表情で微笑む月子の様子から、生徒会室に漂う微妙な空気を感じ取った翼は、
首を傾げて周囲を見回した。月子、颯斗の順に視線を送り、最後は助けを求めるように
一樹の顔の前で止める。
 「調度良い、翼。コイツを寮まで送ってやってくれ。
 途中で保健室へ寄るのも忘れずにな」
 「……良いけど。月子、何処か具合が悪いのか?」
 「ううん、何ともないよ。転寝してたから、クシャミが出ただけ」
月子が意地っ張りだということに気付いていた翼は、
早々に仕事を切り上げることになった理由を理解した。
心配そうな顔で覗きこんでいる翼を安心させようと、
顔色が悪い状態で無理に笑顔を作ってみせる月子に、
これは早く帰した方が良いことを悟る。
 「一回だけじゃないでしょう。風邪は引き始めが肝心だと言いますからね。
 大事をとっておくに越したことはありません。この後には体育祭が控えていますし、
 生徒会としても忙しくなるのですから。ここで無理をして長引かせるのは得策とは
 言えないと思いますよ」
 「そう……だよね。じゃあ、お言葉に甘えて、今日は早めに帰って休もうかな」
既に月子の鞄を持って帰ろうとしている翼や、颯斗からの言葉の後押しもあり、
ここは諦めて帰ることに決めた。
今日は早めに休んで、明日にその分を取り返そう。
 「おー、そうしろ、そうしろ。ゆっくり休めよ。みんなもお疲れ」
 「お先に失礼します。って、あれ? 颯斗くんは帰らないの?」
先に行く翼を追って生徒会室を出ようとした月子は、
まだ机の前に立っている颯斗に気付いて振り返った。
 「今日は少し早いので、この後は音楽室へ行こうと思います。
 方向が違いますし、お二人は先に行ってください。お疲れさまでした」
そう言って頭を下げる颯斗に見送られ、翼に手を引かれるようにして
月子は生徒会室を出て行った。
 「月子のことは任せておいて。ぬいぬもそらそらも、またなー」
翼の声が遠ざかっていくと、いつもは賑やかな生徒会室が、
途端に静かな空間へと変わっていく。
 
HOME  ◆  NEXT