「ご褒美」(1)

念願だったインターハイ出場を果たし、優勝という結果で幕を閉じた弓道部も、
残りの夏休みだけは活動時間を少しだけ減らし、毎日道場に通うこともなくなっていた。
そんなある日の午後、夜久月子は図書館へ向かって歩いていた。
途中、中庭を走る生徒の姿が目に留まる。
 「あっ、梓くんだ。こんな暑い日に、ランニング?」
タンクトップに短パンという軽装で、黙々と走る木ノ瀬梓の姿を見付けると、
月子は大きく手を振って呼び止めた。
 「梓くーん!!」
 「夜久先輩!! 何してるんですか、こんな処で」
名前を呼ばれた梓は、月子に気付くと、慌てて駆け寄ってきた。
額にうっすらと汗が滲んでいて、息も少し上がっている。
 「梓くんこそ、こんな暑い中、ずっと走ってたの?」
 「宇宙科の課題なんですよ。毎日のロードワーク。
 いつもは、もっと涼しい朝方とかにやるんですけどね。
 今日はちょっと寝坊しちゃって……」
首に巻いたタオルで汗を拭いながら、それでも元気に微笑んでいた。
宇宙へ飛び立つ時の加速度や、無重力空間に慣れるための訓練の一環として、
宇宙科では日々の体力造りが日課として組み込まれている。
夏休みでも手を抜くことがない梓に、月子は尊敬の眼差しを向けた。
 「宇宙科の課題って、大変そうだね」
 「慣れればどうってことないですよ。寧ろ、やらないと気持ち悪いって言うか。
 それより、夜久先輩はどうしたんですか? 制服ってことは、これから学校へ?」
夏休みも残り少なくなってきているので、補講はすべて終わっていた。
今頃学校へ、何をしに行くのだろう?
月子の姿を見て、梓は不思議そうに尋ねる。
 「課題に必要な資料を借りに、図書館へ行く処なの」
 「あれ? 残っていた宇宙工学の宿題は、僕と一緒にやりませんでしたっけ?」
インターハイ出場に向けてのミーティングの後、
部長の金久保誉や副部長の宮地龍之介と一緒に、食堂でお昼を食べたことがある。
その時に出た宿題の話題で、月子は苦手な宇宙工学の宿題だけが残っていると打ち明けた。
後輩ではあるけれど、宇宙科に所属している梓にとっては、宇宙工学は専門分野。
手伝いますよ、と快く言ってくれた梓に甘えて、月子は宿題を教えてもらっていた。
 「あの時はありがとうね。梓くんに教えてもらえて、助かっちゃった。
 でも、資料が必要なのは、天体観測になの。これは宇宙科のロードワークと一緒で、
 天文科の日々の課題だから、事前にやっておくって訳にはいかないものなんだ」
 「あぁ、天体観測はそうですよね。星の位置は毎日変わりますから、日々の課題って
 言うのも判ります。もしかして、毎晩、夜遅いんですか?」
天体観測が日課なら、毎晩遅くまで星を眺めていることになる。
学科の違いを興味深そうに聞いていた梓は、天体観測の時間について、
頭に浮かんだ疑問を口にした。
 「ううん、さすがに毎晩はやらないよ。週に一回とか、多くても二回くらい。
 本当は毎晩でも、私は嬉しいんだけどね。そうすると、部活にも支障が出ちゃうから」
梓の疑問に首を振りながら答えると、少し残念そうな表情を浮かべた。
天体観測が楽しくて仕方ない様子が、梓にも伝わってくる。
天文科の課題。部活の弓道。それ以外にも生徒会や保健委員の仕事を熟している月子に、
梓は憧れや羨望に近い気持ちを抱かずにはいられなかった。
何かに執着すると言うことは、それ以外の何かを捨てること。
ずっとそう信じて、執着することを恐れてきた。
捨ててしまった何かの中に、選んだ何かよりも大切なものがあるかも知れない。
弓道を選ぶことによって、捨ててしまうことになる大切なものを見落としてしまうかも知れない。
その想いが弓道にも影響を及ぼし、矢が的に当たらなくなってしまった。
弓道の申し子。何をやっても天才的に熟すと持て囃されてきた梓にとって、
それはとても苦しく、耐え難い時間だった。
そんな悩みを抱え、もがき苦しんでいる梓に、
 『執着するものは一つだけ、って誰が決めたの? 私は、全部に執着してるよ』
何でもないことのように、月子はそう語った。
それを聞いた梓は、自分で自分を縛っていたことに、漸く気付く。
そして、誰かに対して、生まれて初めて負けを認めた。
いつか月子に追いつき、そして追い抜きたい。
追い抜いた先で、月子のすべてを受け止められるくらいの、大人の男になる。
それが今の梓の目標や目的であり、行動の指針でもあった。
 
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