「少しだけ待っていて」(1)

学生寮を出た後、中庭を回ってから学校へと向かう。
慣れ親しんだ教室を巡り、お世話になった保健室や生徒会室を覗いた後、食堂に立ち寄る。
学園生活で一番長い時間を過ごした弓道場では、暫くの間、掃除に専念した。
最後の思い出の場所、屋上庭園にやってきた頃には、夕暮れが終わりを告げ、
気の早い星達が瞬き始めていた。
 「夜久先輩!!こんな処に居たんですね」
ベンチに座って空を見上げていた夜久月子は、名前を呼ばれて視線を下ろす。
ここまでずっと走ってきた様子の、息を弾ませた木ノ瀬梓が、少し青い顔で立ち尽くしている。
 「あれ、梓君。どうしたの?」
 「どうしたのって、それは僕の台詞です。先輩のケータイ、ずっと鳴らしてたんですよ。
 なのに、全然出てくれなくて。何かあったのかと思って、寮にも行ってみたけど、
 中に人が居る様子もないし。あちこち探したけど、先輩は何処にもいなくて」
 「あっ、そっか。携帯電話、持ってくるの忘れてた」
 「……っ」
無邪気な笑顔を向ける月子に、梓は力の抜ける思いで、その場にしゃがみ込んでしまった。
ガックリと項垂れている梓に、少しだけ申し訳ない気持ちになった月子は、
今日一日、星月学園内を見て回っていた事を告げる。
 「三年間過ごした場所だからね。最後に、どうしても見ておきたかったの。
 色んなことを思い出しながら、あちこち巡ってたんだよ」
 「最後って、もしかして」
月子の言葉に驚いて、梓は顔を上げる。静かに微笑む月子と、目が合った。
 「うん。退寮する日が決まったの。卒業式が終わって、一週間も経つんだもん。
 そろそろちゃんと決めなきゃね。さすがに、ここから大学へ通うわけにもいかないし」
先週、星月学園の卒業式が行われた。
全寮制の星月学園では、卒業後の進路に合わせて、卒業式から半月の間なら、
退寮日を自由に設定することができた。
月子も、4月から大学へ通うことが決まっている。
 「そうですか。夜久先輩も、とうとうこの学園を出て行くんだ。実家へ帰るんですよね?」
ベンチに座る月子の横に移動すると、梓は少し淋しそうな笑顔を作って、そう尋ねた。
 「ううん。実家へは帰らないよ。大学の傍に、良い部屋を見付けたの。
 だから、春からはまた一人暮らし」
 「えーっ!!」
予想外の月子の答えに、梓は驚いて大声を上げた。
 「夜久先輩が一人暮らし!!出来るんですか?」
 「その言い方はないんじゃないかな。今までだって、一人暮らしみたいなものでしょ。
 三年もやってるんだから、何も問題ないです」
梓の反応に、拗ねたように頬を膨らませると、プイッとそっぽを向く。
そんな月子の反応に、梓は小さな笑い声を漏らした。
 「そんな可愛い態度をとってると、このままキスしちゃいますよ」
月子の耳元に唇を近付けてそう囁くと、膨らんだ頬を人差し指で突付く。
その瞬間、月子が真っ赤になって俯いてしまったので、少しやり過ぎたと反省し、
話題を戻すことにした。
 「すみません、先輩。ただ、僕は少し心配なんです。
 夜久先輩は、しっかりしてるように見えて、抜けてる処があるから」
 「そう……かな?」
先程までの揶揄うような口調が消え、真剣な声で言う梓に、月子は首を傾げて聞き返す。
 「先輩は、この学園での生活を一人暮らしみたいだ、って言うけれど。
 でも、違いますよ。肉親のような家族がいないっていうだけで、保護者はちゃんと居る。
 食事は食堂へ行けば良いし、体調が悪ければすぐに保健医が診てくれる。
 寮生活で困ったことがあれば、寮監さんに言えば、大抵の事はしてもらえるじゃないですか。
 でも、本当の一人暮らしだったら、すべて自分でやらなきゃいけないんですよ」
 「それは判ってるよ」
 「全然判っていません。先輩は僕の気持ちを、全然。
 夜久先輩が、体調が悪くて動けなくなってる時。困ったことがあって助けを求めてる時。
 僕が傍に居られない事が、すごく嫌なんです。
 でも、先輩が卒業してしまったら、どうしてもそれは仕方がない。
 それなら、先輩が辛い思いをする時間は、短い方が良い。
 僕じゃなくても、夜久先輩を助けてくれる人が、傍に居てくれた方が」
梓にしては珍しく、悔しそうな表情を浮かべている。
真剣な眼差しを向ける梓に、月子は素直に頭を下げると、
一人暮らしを決めた理由を口にした。
 「梓君に相談もしないで、勝手に決めちゃってごめんね。
 学校の傍にずっと居たでしょ。電車で通ったりするの、少し心配になっちゃったんだ。
 そうしたら、たまたま良い部屋が見付かってね。そのまま決めちゃったの」
申し訳なさそうな顔で謝る月子を見て、梓は軽く息を吐き出すと、諦めたように肩を竦めた。
その顔には、いつもの生意気そうな笑顔が戻っている。
 「夜久先輩には叶わないな。まぁ、どうせそんな事だろうとは思ってましたけど。
 僕の方こそ、すみません。せっかくの先輩の門出なのに。
 でも、これだけは約束してくださいね。何かあったら、必ず僕に連絡すること。
 遠くに居ても、必ず駆けつけますから」
月子の顔の前で人差し指を振ると、念を押すように、そう強調する。
その仕草を見て、月子も安心したように、漸く笑顔をが浮かべた。
 「うん、判った。約束する。でも、大丈夫だよ。下の階には錫也が居るから。
 それに、宮地君も近くで一人暮らしする、って言ってたし。
 そうそう、宮地君の家の傍には、ケーキ屋さんがあるんだって。
 なんか、宮地君って感じだよね」
そう言って、可笑しそうにクスクスと笑う。
 「えっ?」
月子の反応とは逆に、梓は目を丸くして驚くと、その場に固まってしまった。
 
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