「アイタイ」(1)

春から夏へと移り変わる少し手前、梅雨の時期。
朝から降りしきる雨のため、今日のロードワークは中止。
その代わり、弓道場内で入念なストレッチが行われていた。
 「夜久先輩。後で、射形を見せてくださいね」
星月学園弓道部の紅一点、夜久月子が壁際でストレッチをしていると、
入部したばかりの一年生部員、木ノ瀬梓が声を掛けてくる。
いつもなら、休憩時間以外の私語は控えなければいけない。
けれど今日は、鬼の副部長、宮地龍之介がまだ来ていないせいか、
部員達の間にも緊張感が薄らいでいた。
 「木ノ瀬は、ホント、夜久の射形が好きだよなぁ」
 「はい。夜久先輩の射形は、とても綺麗ですからね。
 何度見ても、見飽きないです」
二年生部員の犬飼隆文が、少し呆れた口調で会話に参加する。
 「そ、そんな事ないよ。梓君だって、すごく上手いじゃない」
 「……上手い、ですか」
照れたように慌てて口にした言葉に、梓の顔が一瞬曇ったような気がした。
 「梓君?」
 「なんですか? 夜久先輩」
心配そうに顔を覗き込むと、梓の顔には、いつもの自信に満ちた微笑が浮かんでいる。
気のせいだったのかな。
そう思って、『ううん、何でもない』と首を横に振った。
 「そろそろ練習、始めようか」
 「そうですね。僕はまず、見取り稽古からにしようかな。
 夜久先輩の横に、ずっといさせてください」
一通りのストレッチを終えた月子は、的前に移動するために立ち上がる。
 「それは無理だろー、木ノ瀬。んな事したら、夜久の彼氏に怒られるぞー」
傍に居た梓も、月子に習って立ち上がると、大胆な発言をする
それを聞いた犬飼が、ニヤニヤと笑いながら、茶々を入れた。
 「えっ!! 夜久先輩、彼氏居るんですか?
 もしかして、いつも一緒に居る幼馴染のどちらかですか?」
 「ちょっと、犬飼君。余計な事、言わないで。ほら、練習始めるよ」
月子の言葉には耳を貸す気配すらなく、梓は更に情報を引き出そうと、犬飼に詰め寄っている。
 「いや、あの二人じゃないよ。そういや、最近見かけないな。
 なんて言ったっけ。えらく顔の綺麗な、赤い髪の……」
興味津々な顔の梓を前に、犬飼は月子の彼氏の顔を思い出そうと、懸命に記憶を辿っている。
朧気に思い出してはいるようだが、学科の違う犬飼には、それ以上の情報はないらしい。
仕方ないので、月子が正解を答えることにする。
 「……土萌羊君」
 「そうそう、土萌だ。春ぐらいから四人で居る処、よく見掛けてたけど、
 最近また三人だよな。何、もう別れちゃったの?」
 「ち、違うよ!! 羊君は今、アメリカに居るの。
 ちゃんと自分の夢を追い駆けて、頑張ってるんだから」 
 「行き成り惚気ですか、夜久先輩」
 「うっ、そんなつもりじゃ……」
月子の言葉に、梓も犬飼も苦笑を浮かべている。
土萌羊。子供の頃、祖母の家へ遊びに行った時に知り合った、三人目の幼馴染。
月子にもう一度逢いたい。そのためだけに、星月学園に転校してきた。
月子を思う気持ちを真っ直ぐに伝えてくる羊に、
いつしか月子自身も同じ想いを持っていることに気が付いた。
やっと二人の想いが通じ合えたその時、『両親と一緒に天文の研究をする』という羊の夢が
叶えられることになる。
悩んだ末に、夢を叶えることを決めた羊は、両親と共にアメリカへ渡り、
今も天文の研究に励んでいた。
離れ離れになった二人は、頻繁にメールや電話を交わすことで、その距離を縮めている。
 「結構、強気な奴だったよな、土萌って。夜久にラブレター渡した三年生。
 再起不能になるまで落ち込ませたって、神話科でも有名な話だ」
 「えっ、嘘、何で?」
 「そりゃ、食堂であれだけ堂々と呼び出してたら、誰でも興味は持つだろう。
 その後のやり取りまで、影でこっそり見てたって奴もいる。
 そいつ曰く、彼氏である土萌が怒って、三年生に脅しを掛けてたって……」
 「全然違うよ!! 三年生の先輩とは、普通に話をして判ってもらったんだから。
 だいたい、その頃はまだ、付き合ってもいないかったんだよ」
三年生から手紙をもらったのは、二年生になってすぐのこと。
受け入れる気持ちがないのなら、きちんと断らないと相手にも悪い。
そう幼馴染の東月錫也に言われ、三年生に返事を伝えに行くことにした。
その時、よく知らない相手の処へ行くのは危険だからと、羊に付き添ってもらった。
その出来事を周囲に見られていたこと。間違った噂で羊が悪く思われていたこと。
それらの事実が、月子を落ち込ませていた。
 「強気な人……ですか。夜久先輩って、そういう人がタイプなんですか?」
月子と犬飼の会話を黙って聞いていた梓が、不意に割り込んでくる。
 「えっと、どうなんだろう。そう……なのかな?」
 「そうですか。なら、僕にもチャンスはありそうだ。強気なら、僕も負けませんからね」
月子の答えに、梓はにっこり笑うと、自信満々に宣言する。
 「あはは。違いない。木ノ瀬の強気は、折り紙付きだもんな。
 付き合い始めて間もないってのに、さっさと遠距離を決めちまうような奴だ。
 あっちでヨロシクやってるかも知れないし、まだまだ逆転のチャンスはあるかもな」
 「犬飼先輩。さすがにそこまで言ってないですよ、僕」
 「おっと、悪い。ちょっと悪乗りし過ぎたか。ほんの冗談だ、夜久。あんま、気にすんなよな」
 「……う、うん」
梓の言葉に、月子の顔が曇っていたことに気付いた犬飼が、慌てて謝罪の言葉を口にする。
『気にしてない』と首を振る月子の表情が、その言葉が嘘だということを物語っていた。
 「夜久先輩、すみません。僕のは半分本気だったんですけど、今回は引き下がります。
 可愛い後輩の嫉妬だと思って、許してくださいね」
梓の謝罪にも、月子は力ない微笑を返すだけで精一杯だった。
その時、背後から手を叩く音が聞こえてくる。
 「はいはい。おしゃべりはその辺にして。そろそろ練習始めてね」
部長の言葉を合図に、それぞれ的場の前へと移動していった。
 
HOME  ◆  NEXT