「居場所」(1)

初夏を思わせる風と共に、講義の終わりを告げる鐘の音が、微かに聞こえてくる。
図書館の前にあるベンチに座って本を読んでいた狐邑祐一は、音に気付いたように顔を上げた。
 「もう、昼休みか」
選択していた講義が休講になり、午後の講義が始まるまでの時間潰しのつもりが、
すっかり本に集中していたらしい。
 「売店が混む前に、昼食を買いに行くとしよう」
そう独りごちて、祐一はベンチから立ち上がった。
 「あぁ、やっと見付けた。大学のキャンパスってのは、やっぱり広いな。
 キミもそう思うだろう、狐邑くん」
食堂に向かって歩きかけた祐一は、聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、その場に立ち止まる。
ゆっくりと振り向くと、煎餅を片手に薄ら笑いを浮かべた、冴えない中年男が立っていた。
明らかにその風貌は、大学のキャンパスには相応しくない。
 「貴方は・・・」
 「そっ、僕だよ。芦屋正隆。覚えていてくれたようだね」
芦屋正隆と名乗る男は、わざとらしい笑顔を浮かべると、ヒラヒラと手を振ってみせた。
異能を持つ祐一が、郷里の村を出る際に出された条件が、
公安調査庁典薬寮が管轄する大学、及び寮を選択しなければいけないというもの。
そして、その条件を出した典薬寮に属しているのが、この芦屋正隆だ。
飄々として掴み所のない物腰の芦屋に対して、
未だに敵か味方か判断仕兼ねている祐一は、警戒するように目を細めて、
近づいてくる男の顔を眺めていた。
 「どうして、ここへ。俺に何か用事でも?」
 「どうして、か。一応、こっちの生活での身元引受人みたいなもんだからね、僕は。
 たまには様子を見ておこうと思って、てのはどう?理由としては、まぁまぁだろう」
 「陳腐」
芦屋の語る白々しい言葉に、祐一はウンザリとした声で答えると、
そろそろ切り上げようと、その場を離れる決意をする。
しかし、芦屋の言葉に足が止まった。
 「手厳しなぁ。せっかく、キミんとこのお姫様からの伝言、届けにきたって言うのに。
 そういう扱いは、ちょっと心外だよ」
 「俺の・・・姫?」
 「そっ、玉依姫。キミの主。まさか忘れた、ってわけじゃないだろう。
 あー、判ってる。ただの冗談だよ。だから、そう睨むなって。
 ・・・無表情で睨まれると、怖いんだよ」
祐一の顔色が変化したのを悟った芦屋は、諸手を挙げて降参してみせる。
最後は小声でブツブツと呟いた。
 「ロゴスのモナド、アリア・ローゼンブルグ。彼女を玉依側に預けることは、
 キミも聞いているだろう。その受け渡しにね。僕も季封村に同行した。
 その時に、少しだけ彼女と話をしたんだ。
 傍でカラス君が煩くて、大した話はできなかったけどね」
 「真弘か。相変わらず、元気そうで良かった。
 真弘が傍にいるのなら、珠紀も安心だな。・・・もう、俺が居なくても」
 「ん?何か言ったかい?」
 「いえ、何も。それで、珠紀からの伝言と言うのは?」
芦屋の説明に、村に残してきた親友達のことを思い返していた祐一は、
その想いをつい口に出していた。
幸いにも芦屋の耳には届かなかった事を知って、祐一は首を振りながら、先を促す。
 「あぁ、そうだった。次はいつ村へ帰ってくるのか、だそうだ。
 キミ、ずっと帰ってないんだって?この間の連休にも帰って来なかったって、
 お姫様も随分と心配していたよ」
 「そうですか。学校が忙しかったんです。入学したばかりで、まだ判らないことが多い」
大学進学のために村を離れてから、祐一はまだ一度も郷里へは帰っていなかった。
回り始めた運命が終焉を迎え、齎された平和や安らぎと引き換えに、
祐一は、自分自身の存在意義を失ってしまった。
異能の力を持つが故に迫害されてきた妖狐。
その古き受け継がれし血が、己の身体に流れていることを知っている祐一もまた、
異能の力を奮って玉依姫に仕えること以外、存在を認められていない。
生涯をかけて玉依姫を護る。それが唯一の生きる目的。ずっとそう信じ続けて来た。
しかし、運命が辿り着いた先には、玉依姫の傍に、祐一の居場所はなかった。
 「ふぅーん、そう。連休中は、学校も休みだったと思うんだがね。でも、キミは忙しかった。
 そう言えば、キミはその間、寮にもいなかったんだってね」
当たり障りのない返答を口にした祐一は、芦屋の言葉にハッとなって顔を上げた。
小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべている芦屋と、目を合わせる。
 「・・・俺を、監視しているんですか?」
 「いやいや、たんなる情報だよ。ただ、あまり勝手にうろつかれると、僕も困るんだよね。
 ほら、身元引受人だから。
 キミに与えられている自由は、そんなに多くはない。判っているとは思うけどね」
そう口にした芦屋の顔に、先程まであった薄ら笑いは消えていた。
真剣な顔で、無表情に睨み返す祐一と対峙している。
 「ええ、判っています。ただ、大学生活の一環なら、俺の行動も制約されないはず。
 連休には、サークルの先輩と一緒に、星を見に行っていたんです。
 郷里の空はとても綺麗だと自慢するので、興味が湧きました。
 サークルの行事なら、大学生活の一環に含まれるはずです」
祐一は緊張を解くようにフッと微笑むと、実際に連休中に行った場所を思い浮かべる。
季封村に似た寂びれた風景と、真夜中に見上げた満天の星空。
そして、祐一の横で嬉しそうに笑う、少女の顔を・・・。
急に表情を柔和させた祐一に、芦屋は不審そうな目で一瞥すると、
肩を竦めて大仰に息を吐いた。
 「キミがサークルに入るとはね。随分と意外な行動だが・・・。
 そういう事なら、情報は修正しておこう。
 今後、学校内とサークル行事については、不問だとね」
 「助かります」
 「嬉しいねぇ。僕を信用してくれるんだ。
 キミに恩を売って、後で安く買い戻すつもりかも知れないよ」
 「俺が安く買い叩かれる分には構いません。
 他の誰かを傷つけるようなことがあったら、俺が貴方を許さないだけだ」
 「おっと、怖い怖い。そうならないように、気を付けるとしよう」
再び薄ら笑いを顔面に貼り付けた芦屋が、お道化たように諸手を上げて一歩後退する。
その時、遠くから祐一を呼ぶ声が聞こえてきた。
 
HOME  ◆  NEXT