「桜と青年」(1)

桜色から新緑へと季節が移り、纏わり付く風が初夏の香りを漂わせ始める頃。
図書館前のベンチだけは、時刻(とき)が止まっているのではないかと錯覚するほど、
静かな時間が流れていた。
昼休みや講義の合間の空き時間になると、本を読みながら座る白髪の青年が一人。
まるで一枚の絵が飾られているかのように、それは固定された風景の一つとなっていた。
そして今日も、その風景がそこにある。

ベンチに座って本を読んでいた狐邑祐一は、ある気配に気付いて顔を上げる。
目の前を行き交う人の流れに留まって、ぴょんぴょんと飛び跳ねている存在に視線を向けた。
人垣に埋もれてしまう身長をジャンプで補って、こちら側を見ようと懸命に飛び跳ねているのは、
入学して間もない頃に知り合った一つ年上の先輩、天宮椿。
 「何をしているんだ、いったい?」
軽く息を吐くと、本をベンチに残して立ち上がる。
そして、完全に人垣に飲み込まれてしまった椿を救出するため、ゆっくりと歩き出す。
 「ごめんね、狐邑くん。この時間、こんなに人、一杯いたっけ?」
 「昼休みだからな。食堂の席を確保するために、みんな急いでるんだろう。
 それより、あんなところに立ち止まって、何をしていたんだ?」
 「あー、そういう事言うんだ。そんなの決まってるじゃない。
 狐邑くんがいるかどうか、確認してたんだよ」
祐一に助けだされた椿は、後に着いて歩きながら、ベンチまでやってくる。
 「俺を?どうして?」
不満そうな顔で言い放つ椿に、祐一は首を傾げて聞き返す。
そんな反応の祐一に、今度は椿の方が大仰に溜め息を吐き出した。
 「どうして、ってねぇ。だって、部長、嘆いてたよぉ。
 狐邑くん、ちっともサークルへ顔出さない、って。
 逢ったらちゃんと伝えてくれって、頼まれちゃったんだもん」
椿が入っている天文サークルへ、彼女に付き合って何度か顔を出したことがある。
入部した覚えのないサークルの部長に嘆かれることは、祐一にとっては心外だった。
それでも、ここ数日の間、校内で見掛けなくなっていた椿の姿を探して、
何度となくサークル室の前までは行っていたことを、正直に告白する。
 「サークル室の前までは、何度か行っていた」
 「そうなんだ。じゃあ、中に入れば良かったのに」
 「天宮さんがいなかったから、そのまま帰った」
 「えっ、ホントに?うわぁ、ごめんね。私、暫く学校には来てなかったから。
 狐邑くんって、もしかして人見知りだったりする?
 私がいなくても、勝手に部室、入っちゃって大丈夫だよ。
 サークルのみんな、優しいし、話せば楽しい人ばっかりだから」
祐一がサークル室に足を運んでくれていたことが嬉しくて、にこにこと笑いながら、
椿は祐一にサークルメンバーについて説明を始める。
そんな椿の反応とは対照的に、祐一の表情からは、さっきまであった微笑が消えていた。
 「いや、天宮さんがいないなら、その場に居る意味が無い」
 「えっ、何で?」
不思議そうに聞き返す椿に、祐一はそれ以上の言葉を口にすることはなかった。
その表情や瞳の色から、照れや揶揄いの色は感じられない。ただ、静かに見つめ返している。
 「あ、あはははは。やだなぁ、狐邑くんってば。
 そんなに煽てたって、今日は何にも持ってないよぉ」
綺麗な顔の祐一に見つめられて、椿は顔が赤くなるのを自覚する。
焦った気持ちを冗談で紛らすように、不自然な笑い声で誤魔化した。

自分の不自然な反応で、その場に気不味い空気が流れていると感じた椿は、
咄嗟に違う話題を提供する。
 「狐邑くんって、いつもこのベンチにいるよね。
 やっぱり、あれが気になったりするからなの?」
そう言って椿が指差す方向を、祐一も振り向いて確認する。
 「あれは・・・百葉箱」
 「そうそう。ここは風通しも良いし、日差しもよく降り注ぐから、観測には持って来いだよね。
 って、違うよぉ。あれは」
 「あれは、祠だな。何が祀られているのかは、よく知らないが・・・」
図書館の隅に設置されている小さな家の形をしたそれは、確かに百葉箱に見えなくもない。
そんな祐一の言葉に軽く乗ってしまった椿が、真実を告げようとした途端、
祐一自身が正解を口にする。
平然とした顔で見返す祐一に、椿はガックリと肩を落として俯いた。
 「・・・狐邑くんって、ボケてるのか、真剣なのか、判り辛い人だよね」
祐一がボケてくれたお陰で、気不味い空気が払拭された事に気付いた椿は、
力なく微笑ながら、漸く顔を上げることができた。
 「祠に祀られた神様。本当に知らない?あれは、桜の木の神様なんだよ」
 「桜の木?」
祐一は、ベンチの傍に植えられた桜の木を見上げる。
他よりも色の濃い葉が茂った大きな桜の木が、木漏れ日を落としていた。
 「これは、神様の木の末裔なんだよ」
祐一と一緒に桜の木を見上げた椿が、お伽話を語るように言葉を紡ぎ始める。
 
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