「心配」(2)

ゼーゼーと苦しい息を吐きながら、何とか岸へと上がった。
抱えていた子猫を放してやると、慌てて何処かへと逃げ出していく。
 「んだよ、薄情なやつだな」
子猫を見送りながら悪態を吐いていると、足の痛みが戻ってきた。
 「随分と深くやっちまったみたいだな」
流れる血の量と痛みから、傷が深いことが判る。この分だと数時間は傷が塞がらない。
表面だけでも塞がれば、誰にも気付かせずにやり過ごす自信はあるんだけどな。
傷が塞がるまでの時間を、過去の経験から計算する。
 「軽い傷なら大袈裟に騒いで珠紀に手当してもらうんだけど。
 これだけ血が出てっと、あいつのことだから変に心配しちまいそうだしなぁ。
 珠紀の不安そうな顔なんか、見たくねーしよ」
川の水で血を洗い流してみたが、あまり効果はなかった。
こうなったら仕方ない。俺は土手の斜面に寝転がって時間を潰すことにした。
河原に吹く風が濡れた体操服を乾かしていく。
その時、大の字に広げた俺の手を、何かが触った。
擽ったくて目をやると、さっき逃げていった子猫が、俺の指を舐めている。
 「なんだ、戻ってきたのか。なら、お前も付き合え。ここで暫く休んでいくぞ」
そう言うと、目を瞑って風に身を任せた。
それからどれくらい時間が経ったのか。何処かで俺の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
 「……ろ先輩。……真弘先輩ってば、起きてください」
 「あ? 何だ、珠紀か」
薄く目を開けてみると、心配そうな顔の珠紀が覗き込んでいる。
 「何だじゃないですよ。真弘先輩。こんな処で何をしてるんですか?」
俺が目を覚ましたことに安心したのか、不安そうな顔が拗ねた顔へと切り替わる。
 「やべっ。ちょっとのつもりが、寝ちまったんだ!!」
慌てて飛び起きると、腹の上で寝ていたらしい子猫が不満そうに鳴く。
 「マラソン大会、どうなった?」
 「とっくに終わりました。女子はコースが短いから、先に終わってみんなが戻ってくるの
 ゴール地点でずっと待ってたんですよ。なのに、真弘先輩だけはいつまで待っても
 戻って来ないし。私がどれだけ心配したと……」
 「あーっ、判った、判った。悪かったから、んな怒るなって」
結局、心配させちまったんだな。こいつに不安そうな顔なんて、させたくなかったのに。
不満を口にする珠紀を、俺は何とか宥めようとする。
 「祐一先輩に土手の途中で別れたって聞いて、慌てて探しに来たんですよ。
 いったい何をやってたんですか?」
 「いや、何ってな。こいつがさ、川に流されてたんだよ。んで、助けてやって、
 体操服が濡れたんで乾くまで横になってようと思ったら、……寝ちまってた」
俺は膝の上で丸くなっている子猫を撫でながら、要点だけを掻い摘んで説明する。
川に沈んだことや怪我の話までするのは、余計だよな。
 「寝てたんですか? 濡れた服のままで? そんなことしたら風邪引いちゃうじゃないですか。
 ダメですよ、そんなの。それに……怪我もしたんですね」
 「平気だって。俺は風邪引かない性質なんだよ。……って、何で怪我のことまで知って……」
俺の言葉に、珠紀は驚いたような声を上げる。
そして何故か、怪我のことまでバレていた。何でだ? 玉依姫ってのは千里眼まであるのか?
 「……足に血の跡があります」
珠紀の答えに合点がいった。足に目を向けると、塞がった傷の周りに血の塊だけが残っている。
 「これくらい何でもない。どうせすぐに塞がっちまうような傷だったんだ」
そう言いながら、傷の位置に残った血を手で擦り落とす。
そうすればもう、何処に傷があったのかも判らない。
 「それでも血が出てるんですよ。ちゃんと手当しなきゃダメじゃないですか。
 そういうの、これからはきちんと私にも言ってください」
 「だからこれくらい平気なんだって!! あんま心配すんなよ」
それでも珠紀が譲らないので、俺は声を荒げちまった。
俺は珠紀に心配を掛けたくない。泣き虫な珠紀のことだ。
怪我をしたなんて言ったら、心配で泣き出しちまうに違いない。珠紀の涙は、俺には反則だ。
 「心配くらいさせてください。私は真弘先輩の彼女なんだから、心配したいんですよ」
 「……彼女……だから?」
俺の思惑とは別の言葉を、珠紀は口にした。
俺は一瞬、何を言われているのか判らずに、キョトンとしながらその言葉を復唱する。
 「そんなに強調しないでください。恥ずかしいじゃないですか」
 「彼女だから……、心配したい?」
“彼女”という言葉が恥ずかしかったのか、真っ赤な顔で照れ臭そうにしている。
けれど、俺はもう一度同じ言葉を繰り返した。その意味を噛み締めるように。
 「もう言わないでくださいってば。……でも、一番に心配するのは、特権だと思います。
 ちゃんと相手を思えてるってことですから」
一番に心配する。それが彼女の特権。心配されるということは、そういうことか。
相手と思い合えること。ずっと相手を思い続けること。相手がいなければできないこと。
そして、相手の存在すべてを愛おしいと思うこと。
だからこそ、心配するのは恋人同士の特権なんだ。
 「そっか。そうだよな。よし、これからはちゃんと話す。何でもお前に伝えてやる。
 だからどーんっと、俺様を心配してろ」
俺は胸を張って宣言する。珠紀の気持ちが嬉しくて、高らかに笑いながら。
 「はい。……でも、程々にしてくださいね。ただでさえ真弘先輩は無鉄砲なんですから」
俺の笑顔につられたのか、珠紀も微笑みを浮かべて大きく頷いた。
それから少し拗ねたような表情をすると、俺に釘を刺す。
ったく、そういう処はしっかりしてるよな。
 「判ってるよ。心配はさせるが、不安にさせないようには努力する。
 んで、俺はお前の心配をする。これも彼氏の特権なんだよな」
 「だから、恥ずかしいから止めてください!!」
珠紀が更に顔を赤くして怒るのが嬉しくて、俺はまた大きな声で笑った。
心配してくれるやつがいるって言うのは、実は幸せなことなんだと、俺は漸く判った。

完(2012.02.05)  
 
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