「未来の目標」(1)

麗らかな陽気の日曜日。
開け放した居間では、柔らかい陽射しと時折通り抜けていく風が、心地好い空間を作っていた。
卓さんがページを捲る度に微かに聞こえる紙の音も、耳を擽り眠気を誘ってくる。
私は欠伸を堪えるのに必至になりながら、チラリと隣に視線を向けてみた。
 「……陥落してるし。ちょっと真弘先輩。寝ちゃダメですよ」
気持ち良さそうな顔で眠っている真弘先輩を見た途端、つい意地悪をしたくなる。
指先で頬を突いてみたけれど、嫌そうな顔をするだけで、起きる気配すらない。
完全に熟睡している。また変な夢でも見て、寝言が漏れないと良いけれど。
そんな呆れてしまう気持ちと、可愛い寝顔をこのまま見ていたいという気持ちが交差する。
でも、せっかく卓さんが勉強を教えてくれているんだもの。やっぱりこれでは申し訳ないよね。
ここは何としても、私が真弘先輩を起こさなければ!!
そんな使命感に燃え始めた私を止めたのは、他でもない卓さん自身だった。
 「おやおや、鴉取くんは眠ってしまいましたか。本当に困った人ですね」
 「……すみません」
仕方ないですね、と言いながら優しげに目を細める卓さんを見て、
叱られているのは私ではないのに、反射的に謝罪の言葉が出る。
 「珠紀さんが謝ることはありませんよ。鴉取くんの難点は、この集中力に欠ける点ですね。
 これさえどうにかなれば、もう少し実力を発揮できるのですが……」
 「そうなんですか!?」
卓さんの言葉に、私は驚きの声を上げてしまった。
真弘先輩がまだ高校に通っていた頃、成績のことで職員室に呼び出されていたのを思い出す。
試験の結果次第では留年もあり得ると脅されて、必至で勉強していた姿が脳裏に蘇った。
あれが真弘先輩の実力なの?
 「短期集中型にも見えますけどね。本来の彼は、違うと思いますよ。
 集中力と言うよりは、やはりやる気の問題でしょう。勉強した先にあるもの。
 それを見付けることが出来れば……、おそらく鴉取くんは、変わると思いますよ」
 「俄には信じられません」
いつもふざけてばかりいる真弘先輩。そんな先輩しか、私は見たことがない。
卓さんには、違った真弘先輩が見えているのだろうか。
訝しげに首を振る私に、卓さんは静かに微笑みを返している。
 「本当にそう思われますか? 珠紀さん、貴女は知っているでしょう。
 鴉取くんが、蔵にあるこれらの書物を、すべて暗記しているということを」
 「あっ!!」
卓さんが手にしている書物。それは宇賀谷家の蔵の中に保管されている蔵書の一冊。
玉依姫に纏わる資料、玉依毘売神社に関する歴史書。
ありとあらゆる書物や関係する品々が、あの蔵の中には収められている。
鬼斬丸の戦いの最中、自分に与えられた使命を探るために、蔵書を漁っていた時も。
玉依姫を継ぐための勉強として、蔵に篭っていた時も。
私が出した質問に、真弘先輩は正しい答えを返していたことを思い出す。
まるで、すべて覚えているとでも言うように、スラスラとそれらを口にしていた。
 「ババ様にどんな思惑があって、幼い鴉取くんを蔵に連れて行ったのかは判りません。
 ですが、鴉取くんにとっては、あの場所こそが最後の砦だったのでしょう。
 運命を覆すための秘策。彼が蔵書の中に求めていたものは、それなのですからね。
 決して見付けることなどできない答え。むしろその反対に、彼を追い詰めてしまう結果に……」
 「もう止めてください!!」
耐え切れなくなった私は、卓さんの言葉を遮ってしまった。
覚えている。蔵の中で見付けた一冊。真っ黒に塗り潰されていたページ。
あそこに書かれていた内容は、もう読むことはできないけれど。
でも、真弘先輩が受けた絶望だけは、ちゃんと読み取ることができる。
暗記してしまうくらい読み続けること。どんな思いで、真弘先輩はそれをしていたのだろう。
 「……ごめんなさい」
声を荒げてしまったことを、素直に謝る。これは別に、卓さんが責められることではない。
 「こちらこそ、すみませんでした。貴女に嫌な思いをさせるつもりではなかったのですよ。
 私が言いたかったのはですね。あの蔵の中に、鴉取くんが求めた答えは、初めからなかった。
 何故なら……。彼が本当に欲しかった答えは、珠紀さん、貴女が持っていたのですからね」
 「私、ですか?」
真弘先輩の心の傷を思って俯いていた私は、卓さんの一言で顔を上げた。
変わらずに優しい微笑みを浮かべている卓さんは、静かに頷くと話を続ける。
 「ええ、そうです。すべてにおいて諦めないこと。
 貴女の真の強さこそ、鴉取くんがずっと探していた答え、そのものなのでしょう。
 そして答えを手にした彼は、運命に立ち向かい、勝利を得ることができた。
 今はまだ、止まっていた時間が動き出したことに戸惑っているだけです。
 先へ進むことを怖れている。まさにそんな感じですね」
真弘先輩の時間。確実に期限が切られていた時間。タイムリミットは、もう間もなくだったはず。
でも、真弘先輩は自らの強さで、その限度を超えてみせた。その時間にはもう、期限などない。
これからはずっと未来まで続いていく、真弘先輩の時間。だからこそ……。
 「こんな処で立ち止まってるわけには、いかないですよね」
そんなの真弘先輩らしくない。いつだってずっと、私の前を歩いてたんだもの。
 「大丈夫ですよ。目標があるときの鴉取くんは、強いですからね。
 運命に抗うために、暗記するほど蔵書を読み漁ることができるんです。
 貴女を護ると決めてからは、あの鬼切丸すら破壊する力を発揮しました。
 これから訪れる未来に目標を定めたら、勉強することなんて容易く熟してしまいますよ」
 「未来の……目標」
真弘先輩の未来。そこにはどんな世界が広がっているのだろう。
その世界に私はまだ、真弘先輩の隣に居られるのかな。
そんな不安が顔を覗かせた時、卓さんの優しい声が尋ねてくる。
 「ところで、貴女の目標は決まっていますか? 鴉取くんの原動力は珠紀さんですからね。
 貴女の目標が大学を卒業した先にあるのなら、彼もまた、すぐに目標を見付けるでしょう」
私の目標? 大学を卒業した後の……。うん、それなら決まっている。
だけど、許されるのかな。私のやりたいことに、真弘先輩を巻き込むなんて。
せっかく動き出した真弘先輩の時間。それなのにまた、私の所為で縛り付けてしまう。
そんなの、真弘先輩は望まないよね。
卓さんの問いに上手く返せないでいると、何かを察したのか、襖が開いて美鶴ちゃんが顔を出した。
 「大蛇さん、少しよろしいですか? いただいたお茶のことで……」
 「あぁ、そうですね。あのお茶は、入れ方に特徴があるのですよ。今日のお茶は私が入れましょう。
 珠紀さん。勉強の続きは休憩の後ということで、よろしいですか?」
 「あ、はい」
二人が連れ立って出て行くと、居間にはまた静けさが戻ってくる。
 
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