祖父のお葬式 

最終更新日:00年4月16日


 秋田県湯沢市の二坂信邦市長と南家佐竹会会長の入江種友氏から、心温まる弔辞をいただきました。その全文をご紹介したいと思います。

 弔辞

 謹んで湯沢市名誉市民 故佐竹義輔氏のご霊前に湯沢市民を代表して哀悼のことばを捧げます。このたび、あなた様の訃報に接し、誠に痛恨の極みであり、今は心からご冥福をお祈りするばかりであります。

 顧みますと、あなた様は明治三十五年八月、湯沢の地に生をうけられ、大正八年に佐竹南家の家督を相続され、十九代当主となられました。その後、昭和三年に東京帝国大学理学部を卒業され、東京科学博物館の勤務を経て、昭和四十二年に国立科学博物館を定年退官されるまで、一貫してわが国における植物分類学の泰斗として活躍してこられました。この間、昭和十二年に東京帝国大学より理学博士の学位を授与されたほか、日本学術会議植物学研究連絡委員会委員、日本博物館協会評議員を歴任されました。そのご功績は枚挙にいとまがございませんが、わけても昭和五十一年四月には、宮中において天皇陛下に「ホシクサ科植物について」のご進講の栄に浴されました。このように植物学の研究において格別のご活躍の中にあっても、常に郷土に思いを馳せられたあなた様は、佐竹南家当主として南家所蔵の調度品や書画など六十五点余りを寄贈されるなど「ふるさと湯沢」をこよなく愛され、いつも暖かいご厚情を注がれてこられました。

 とりわけ、昭和六十年に秋田県指定文化財となりました「佐竹南家御日記」は、二百年近くにわたって記録された御用所の日記であり、藩政期の社会構造はもとより、湯沢雄勝地方の文化や産業をはじめ庶民の暮し向きなどを知る貴重な歴史資料であり、わが市にとりましても、かけがえのない文化財であります。このため、市では日記を翻刻し、これまで三巻を発行しておりますが、江戸時代の地方行政府の記録としては他に類をみない資料であることから大学の研究機関や各地の図書館をはじめとして広くご活用いただいております。

 このような卓抜したご功績と市民が等しく敬慕の念を寄せるお人柄をたたえ、昭和六十三年三月にわが市で初めての名誉市民の称号を送り、郷土の誇りとして後世まで顕彰申し上げますとともに、市の歴史にあなた様の名を永遠に刻したところであります。現在、市では郷土発展のための施策を鋭意進めており、その実現のためには、あなた様の豊富なご経験と高いご見識によるご指導、ご教示に大いなる期待を寄せておりましたが、ご家族の手厚いご看護と私たち三万五千余の市民のご回復を祈る心からの願いもむなしく、不帰の客となられましたことは、誠におきな損失であり、追慕の念に堪えないところであります。

 今、あなた様のご霊前にぬかずき在りし日のお姿とご遺徳を偲びますと想いは尽きません。どうぞ天上にありましてもご遺族ともども郷土の発展にご加護を賜りますことを請い願い、安らかなお眠りをお祈り申し上げまして、哀悼の誠を捧げお別れのことばといたします。

平成十二年四月四日

湯沢市長 二坂信邦

 弔辞

 元秋田湯沢城主佐竹南家第十九代佐竹義輔様のご霊前に、旧家臣の会、南家佐竹会を代表して、謹んでお別れを申し上げます。

 一月二日、佐竹様から義輔様が倒れて救急車で入院、昏睡状態との連絡がありました。折り悪く、年末年始で病院が休院中で、当直医師が応急手当をしましたが、休み明けの一月四日の精密検査の結果、脳梗塞との診断で、依然として意識がないとのことでした。

 十九代は明治三十五年生まれ、九十七歳の高齢で心配しておりましたが、奇跡と申しましょうか、一ヶ月位で退院されて意識も戻られたのこと喜んでおりました。その後、容体が思わしくなく、ご家族の皆様の祈りもむなしく、三月三十一日ご逝去なさいました。誠に痛恨の極みでございます。

 昭和五十八年、しばらくぶりで里帰りされましたが、市民が大喜びで大歓迎会が開かれたほどでした。昭和五十九年、市政三十周年の記念事業として、佐竹家秘蔵の家宝を借りて、佐竹家家宝展示会が開催され、市民に大きな感動を与えました。翌六十年にそのとき借りた家宝に更に数多くの家宝を加えて湯沢市に寄贈されました。市ではそれを展示する資料館建設を検討中とのことです。昭和六十三年、湯沢市名誉市民第一号に推挙されましたが、このことは、数多くのご功績に対する、市民からの十九代に対する感謝の気持ちの現われでした。

 昭和六十三年、奥様をなくされてからは、ご家族の温かい介護があったとはいえ、どんなにか寂しいお気持ちのことでしたでしょう。昨年四月、奥様の十三回忌の法要が菩提寺で行われましたが、ご高齢の殿様はお見えになりませんでした。その時の電話では元気なお声で、「内臓はどこも悪くないが、年のせいかこの頃は何をするのもおっくうになった。」とのことでした。目を細くして、にこやかに笑顔でお話をなさる姿が目に見えるようです。

 植物や野草の研究、本の出版、大学の講師など多忙な毎日で、郷土に里帰りするいとまがありませんでした。お書きになった本、「花のある風景」に湯沢で育った幼いころの湯沢での正月のこと、餅つき、七夕祭り、お祭りの大名行列、両関、爛漫のお酒のことなど書いてあります。また、次のように、「ふる里の山は美しく、ふる里の心は美しく、ふる里の全てが美しい。」と書かれています。こよなく、ふる里湯沢を愛した殿様でした。

 今となっては、あのありし日の温容に接することができなくなりました。本当に残念です。今ごろは、奥様のもとで十四年ぶりになつかしくお話をなされておられることでしょう。長い間いろいろとありがとうございました。奥様のもとでどうぞ安らかにお眠りください。心から殿様のご冥福をお祈り申し上げ、弔辞といたします。

平成十二年四月四日

南家佐竹会 会長 入江種友

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