今さら『Vガンダム』考察
富野由悠季 監督/1993年作品
『ガンダム』の作品としての業。
それは戦争に巻き込まれたとはいえ、「子供が人殺しをする話」にしてしまったことにある。

今更ですが、『Vガンダム』のDVD-BOXを買って、初めて『Vガンダム』を観たので感想や解説などをば少し。
初めて観た。とは言うモノの、実は作品放映にあたりリアルタイムで刊行された小説の方は読んでいるので、多分ホントに初見の人よりは(もう内容をすっかり忘れているとはいえ)理解力があるんじゃなかろうかと思いますが。
製作から10年も経ってるし、その間に情報とかも目しているワケだし。
で、とにかくこの『Vガン』、メチャクチャ悪評高いんですよ。
事実1993年に『Vガン』が放映されて以降、「U.C.暦では無いガンダム」が跋扈(ばっこ)するようになってしまったコトからもわかるように、いろんな意味で「もうだめた。」と評価が下されてしまったガンダム作品。と言って過言ではないんじゃないでしょうか。
個人的な話を言えばこの時期アニメとかまったく観ない生活してたんで、それを押しのけてまで「観たい」と思わせる程のパワーを感じなかった、というのが当時の感想だし、それが『Vガンダム』の現実なのでしょう。

何故なのか。
何故そんなに『Vガンダム』は評判が良くないのか。
8話まで観た現時点では出て来てはいないが、それはひとえに「バイク戦艦」に象徴される。ようだ。(いやほらまだ出て来てないんで。)
「バイク戦艦」。
言葉からして荒唐無稽なこの響き。ロボットプロレスからの脱却を図るため、極力虚構を排して来た『ガンダム』という作品になじむハズがあろうワケがない。
当の『(ファースト)ガンダム』でさえ「空気抵抗の塊であるホワイトベースのあの形状では大気圏に突入したら燃え尽きてしまう。」と鼻で笑われたのは有名な話。
(それでは『SEED』の戦艦アークエンジェルようにあんな形でも大気圏突入が出来る。とかいう機能を付ければ良いのでは。という次元の話ではない。)
なのに何故そんなものが登場してしまうのか。
それは大人のしがらみ。
スポンサー(バンダイ)側からの鶴の一声。神の声。
作品がメチャクチャになると解っていながら出さざるを得ない大人の事情。
この気持ち、凄い良く解ります。
オレも仕事でよく
「やれ、と言われればやりますケド、本当にそれでいいんですね。」
という言葉を吐くんですが、それとまったく同じ状況。
こっちがどれほど良いと思うモノを作っても、クライアントがOK出さなければ、仕事として成立しませんから。
富野監督さすがプロ。
作品壊されようが何だろうが決められた枠の中でやるしかないのです。
そこには不本意だからと言って投げ出すコトもせず、「いーよ、だったらやってやろうじゃんか! 見てろよ、バイク戦艦をガンダム世界に自然に溶け込ませてやってやるよ!」というヤケクソじみた、しかし異常な程の前向きさで立ち向かう姿勢。
それこそ真のプロフェッショナルの姿。
で、その問題にどう決着を付けたかと言えば、「勘違い」。
「宇宙で生まれて宇宙で死んで、宇宙に住み続けて地上の事を知らない人達だから、こんな勘違いした『バイク戦艦』なんてもんを作っちゃうんだ。」
という理屈。
凄いです。
あたかも「『ガンダム』の<作品>のコトなんか知らないで、自分の都合ダケを押しつけるから、こんな勘違いした『バイク戦艦』なんてモノを出せというんだ。」という当てこすりにしか見えません(笑)。
さすがだな〜。プロだよ富野監督。

『Vガンダム』は他にもスポンサー側からの縛りが凄くて、企画の根源自体が幼年代の『SDガンダム』人気をどうにかして本編のガンダムシリーズに客層としてそのまま推移させらないだろうか? というコトだったらしく、そのために、ターゲットと同年代の13歳というガンダム史上最年少パイロットが誕生するコトになるワケなのだがこれがまた。

文頭にも書いたように、『ガンダム』という作品は理由はともあれ「少年少女たちが人を殺す」お話なんですよ。
ロボットプロレスだったロボットアニメは大概にして「敵」は「倒して」も人は殺さないのです。
人外のモノ(異星人とか異形のモノ、もしくは「悪」)は殺すコトはあっても「普通の人」は殺すコトが無い。だから「純粋な少年少女」が敢然として敵を倒すべくロボットに乗り込むコトが出来た。そしてそれがとてもカッコ良かったワケです。
でも『ガンダム』は違う。
敵のロボットを倒せばそこには普通のパイロットが乗っているし、そのパイロットには家族もあろう、子供も居よう、そういう普通の人を主人公は殺さなければいけない。
そこのトコをないがしろにしたら、そのお話は既にもう『ガンダム』ではない。
それこそが『ガンダム』という作品が『ガンダム』で在り続けるために背負ってしまった業なのだから。

で、大人ぶってる15〜6歳のミドルティーンにならまだしも13歳というローティーンにそんなコトさせるのってフィクションとはいえ常識的にどう思います?
(コレ予想でしかないですが主人公の設定年齢、当初はもっと低かったんじゃなかろうか?)
はっきり言っていくらなんでも非人道的過ぎますよね。
でも、大人の都合でその設定で行くしかない。
嫌だと言ってもやるしかない。
そこで「ギロチン」です。
例えでも何でもない、本物の中世に使われたあの断頭台。
子供の目から見ても「こんなモノ使って人を殺すヤツらは悪いヤツだ。」と思える理由を持って来るタメに、こんな残虐なモノが必要になってしまうワケです。
そこまでしないと13歳を戦いに狩り出す理由が出来ない。
作劇上、そこまで強固な理由付けが必要だというコトはホントによく解ります。

でもちょっと待ってくださいよ?
元来『SDガンダム』を卒業した10から12歳辺りの子供を引き込むタメに作ろうとした作品じゃなかったでしたっけ?
そんな作品に出て来るのが「ギロチン」ですよ。
で、主人公も顔見知りのお爺さんの首がギロチンにかけられて落とされちゃうんですよ。
こんな話、子供が観ますか?(笑)
子供に観せますか?

何だかもう、番組が始まる前から既に何かが間違ってます。
多分富野監督も何かが間違っているコトは百も承知だったのでしょう。
しかしそれでも作り続けなければならない。何故なら、自分はプロだから。
多分その思いのみで作り続けられた作品のように思えます。
そしてそれ故、「このDVDはみられたものではないので買ってはいけません」というブックレットの言葉になったのでしょう。
『Vガン』は後半でまたも暴走する作品のようですが、そこら辺のうっぷんが、暴発させたんだろうな〜。

(※上記の文において「バイク戦艦はスポンサーの意向で登場した。」「SDガンダムからの客層の確保を目的としてVガンダムが企画された」等は事実だと思いますが、それ意外はほとんど私の憶測で書かれています。事実関係にはご注意ください。別にスタッフとかだったワケがあろうハズがないので内部事情なんか知るワケがないです。)

それでは最後に8話まで観た感想を少々。
それだけの悪評にも係わらず、そんなに悪くないです。今んトコ。
「『ガンダム』で『未来少年コナン』をやる。」という富野監督の気分がまだ残ってるせいでしょうか?
そういう割りに殺伐としてるのはまあ『ガンダム』なので当然ですし(笑)。
バイク戦艦の前振りになる「バイク隊」(といってもプチモビルスーツ風なバイク)は登場してるんですが、
「旧世紀から続くバイク乗りの復権の為に!」というセリフがステキ過ぎてたまりません。
もうバイク乗りのオレとしては、是非とも復権して欲しいですよ。
あんな扁平率の高いタイヤ?(キャタピラ?)なくせに地上の悪路を2輪で走破しようという勘違いっぷりがとってもイカシます。
そうは劇中では描かれていませんが。
あれ悪路だと安定性悪そうだなー? 補助輪とか付いているんだろうか?(笑)
富野監督には悪いですが、今後結構楽しみです。バイク関係。

以降、まったくの余談になるので変則的項目変え。
「家族もあろう、子供も居よう、そういう普通の人を主人公は殺さなければいけない」と上に書きましたが、だからこそ、そこにドラマが生まれるのですよ。
劇中に人が生活しててこそ生まれるのがドラマ。
例えそれが名も無いエキストラだったとしても、そのキャラはその劇中に生活してるワケです。
そこのトコがないがしろにされるとそれはもう単なるエピソードの羅列にしか過ぎず、ドラマではありません。
最近の、敢えて例を出せば『ガンダムSEED』とかが薄っペラに見えるのはそのせい。
商業主義に走った結果ですね。
かっこいい美形キャラにかっこいいガンダムをいっぱい出して、悲壮そうで(悲惨ではない)壮大な話をやれば、ま、確かに売れそうですからね。
ガンダムのプラモも。
「アニメなんてプラモのプロモーションビデオでいいんだから。」
と誰かが言った(しかも富野監督に向かって)という話をどっかで目にしたコトがありますが、『Gガンダム』以降、U.C.暦ではない『ガンダム』に推移してしまったのはおもちゃを売るために都合のイイ世界観をその都度作りなおせるからなんだな〜と、『Vガン』観てつくづく思いました。
所詮ロボットアニメは『(ファースト)ガンダム』が作られた頃と製作意向は変わりようがないのね。
作家性はいらない。と。

でもね、そんな商業主義に躍らされた薄っペラな作品ばっか作ってるから、ウッソより年下の年齢のコが平気で人殺すような、想像力の無い薄っペラな時代まで作り上げてしまうのだよ。

商業主義の中でこそ、多々あるしがらみの限界まで抗う(限界超えると仕事無くなっちゃうんで(笑))姿勢が欲しいモノです。作り手ならば。

以上2004年6月19日

『Vガンダム』も観進んで現在36話。
変だクソだと言われている割りには「結構普通に『富野ガンダム』してんじゃん。」と思いつつ序盤は観てました。
強いて挙げれば、シュラク隊の扱い方が気持ち不自然なくらい。
何でも女だらけのシュラク隊は「売れますよ。」との『セーラームーン』の脚本家(『Vガン』にも参加)あたりからの提案だったらしく、それに対しての富野監督の出した答えが「片端から殺す」だったというのが何とも可笑しい。
メンバー6人の内、3人が登場してから5話以内に死にます。
1人なんて出て来て次の話で死ぬし。
キャラに愛着がないにしても程がある。
作劇よりも「売れる」「売る」を前提で話が進んでしまうどころか、それを喜んで買い漁る客どもに向けたあきらめの怒りがそうさせたのでしょうか?
かわいい女キャラばっか出せばイイってモンじゃねーだろ。
今では世の中そんなアニメばっかですが(笑)。
ダメだ。そんな世の中。終わってる。

そんな終わってる世の中に対しての怒りか、はたまた『Vガン』の置かれた製作状況に対しての怒りか、バイク戦艦登場後、凄いモノを見ました。
それは32話の「ドッゴーラ」。
竜の形をしたモビルアーマー。というコトなんですが、凄いです。
雲を吐き出しながら画面上方に上昇する様は、あたかも水墨画の昇竜図。
『まんが日本昔ばなし』のオープニングかと思っちゃいましたよ。
『Vガンダム』の製作事情が理解出来てる今ならば、「ああ、そういうコトか。」と理解出来ますが(作品に関係無くおもちゃ優先で押し付けられたんだとか、そういう作品になってしまったコトに対してヤケを起こしたんだ、とか。)、当時製作事情も知らずにコレ見た昔ながらのガンダムファンの人達はどう思ったコトでしょうね?
『ガンダム』で『まんが日本昔ばなし』ですよ。
……って、コレ観て思い出しましたが、オレ、『Vガン』を1話だけ観てました。
しかもこの回(笑)。
その時オレはどう思ったかって?
「ダメだこりゃ。」

『Vガン』観てると、その会社側の裏事情ってのが凄くよく見えて来て、
「ああ、バンダイは『Vガン』の時点で既に『Gガン』を作りたかったんだな。」と思えます。
おもちゃ用商品として「ガンダム」という名前は欲しいけど、別に世界観がどうのとか監督による作家性が重視された作品がどうのとか、そんなめんどくさいモノはいらないんですよ。
そのためにはむしろ富野監督はジャマだったんじゃないでしょうか。

始めからそういう『Gガン』みたいな方向だ。と言われていれば、また違う作り方もあっただろうに。
やっぱり途中から横やりが入ってしまうとロクなコトになりませんね。
ウチの仕事で言えば色校時に一部サシカエ。とかですかねー(笑)。
そんな感じで残りの『Vガン』、富野監督のあがきっぷりが楽しみです。

以上2004年6月23日追加分

『Vガンダム』観終わりました。
『Vガン』の作品中、最悪のキャラと呼び声の高いカテジナさんですが、実はオレには一番マトモなキャラに見えました。
主人公ウッソ少年の憧れの君である彼女は敵であるクロノクルに惹かれ、クロノクルの為(実は自分の為)にパイロットとなりウッソの敵に回り、狂気を持ってウッソを追い詰める。
正直、あの状況において彼女の取ってる行動は自然だし、何よりあの戦火の中、ちゃんと精神が崩壊して行ってくれてるところが偉い。
まともな人間なら、心が壊れてくれんでもせんとやっていけません。
だからむしろ、目の前で死んだ自分の母親の生首の詰まったヘルメットを抱きかかえてまでいる13歳のウッソが、「とても悲しい」ダケで終わってしまえるコトの方が不自然であり異常だと思える。
普通、心が壊れますよ。
心のブレーカーが音立てて落ちます。
『Vガンダム』という不自然極まりない作品において、カテジナさんこそ唯一普通の人だったんじゃないでしょうか。

『Vガンダム』の全体的な感想ですが、普通の人にはあまりオススメ出来ません。
人の死があまりにもあっけなく描かれ過ぎてて、その残酷さと残虐さが少々気持ち悪かったりします。
間違い無く言えるコトは、ガンダム知らない人は『Vガンダム』からガンダムシリーズに入ってはいけません。というコトですね。
良くも悪くも限りなく中途半端な作品。
それが『Vガンダム』でした。

以上2004年6月26日追加分

※補足
小説版『Vガンダム』考察を追加しました。
こちらです。