今さら小説『Vガンダム』考察
富野由悠季 著/1993年作品
『Vガンダム』のDVD-BOXを観て以降、気になってしまい小説版を久し振りに読み返す。
読み返すのって発売時に買った時以来じゃなかろうか。
何がそんなに気になったかって?
当然「バイク戦艦」ですよ(笑)。
そこで『Vガンダム』のアニメと小説の比較考察をば少し。

通常、富野氏がアニメのノベライズをする時のモチベーションの在りようがどこにあるのか。というと、「TVアニメでは描けないことを書く」にあるのではないかと思える。
そしてその、「TVアニメでは描けないことを」好き放題書きまくるため、小説としては破綻しまくる。というのもまた事実なワケで、その良い例? が『機動戦士ガンダム』(ファーストガンダム)の小説だったりする。
早い話、『ガンダム』のお話って、富野氏の小説の方がメチャクチャなのだ。
人道的にそこまでする? とかいうエピソードを付け足してみたり、ストーリーに対してあまり関係もない、とあるキャラの夫婦関係の裏の裏まで描いてみたり、とか。
「TVアニメと同じモノを書いても意味が無い」という富野氏のサービス精神の現れがそうさせるワケなのだが、その付加させる要素の数々は「あまりにも」な表現が多く、健全なお子様にははっきり言ってオススメ出来ない。モノが多い。
ただその「あまりにも」な表現の数々は、平井和正の「人類ダメ小説」に陶酔してた時期のあるオレにとって、富野氏の緻密な人間観察における人間嫌いさ加減が、とてつもなく心地良かったりするのではあるが(笑)。

ところが『Vガンダム』。
コレ、小説の方がアニメ版より完成度が高いです(笑)。
なんていうか破綻が少ない。
というか、その「人道的非道さ」においてはアニメの方が上。というべきか。
相も変わらずヤりまくりなキャラクター同士の性描写という点のみはさすがに小説の方が上(例えばシャクティの母、聖母マリアは昔売春婦の時期があり、シャクティはその頃に出来た子で父親は誰だかわからない。とか、タシロ・ヴァゴ大佐とファラ・グリフォンの関係。とか。)なんだが、それ以外の点ではアニメの方が圧倒的に酷いシーンが多い。
13歳のウッソに何百万人と殺せる大量破壊兵器を発射させたり、胴体から千切れた母親の生首を抱かせてみたり、とかは全てアニメのみのシーンであって、小説には無い。
アニメでは不必要なまでに無残に描かれたシュラク隊のメンバーの死も、小説では1行にも満たない描かれ方だ。(枚数の関係かも知れないが(笑)。)そのくせアニメでは無かった、ウッソがパイロットになってからの両親との再会後の一家団欒が、暖かいモノとして(ストーリー上ギクシャクしたモノではあるが)ちゃんと描かれてたり。

おいおい、いつもと逆じゃん(笑)。

ここら辺からも、いかに『Vガンダム』のアニメが歪んだ形で作られたかが推察出来る。
本来、そういった歪んだ部分を押し殺して「TVアニメ」を作れる大人な富野氏のハズなんだが、それが噴出してしまう程、堪え切れない何かがあったんだろうなぁ。
そしてそれが「まずい」と思えたからこそ、バランスを取るように小説版は逆に普通な形で進んで行ったのではないのだろうか。
(アニメに対しての小説の執筆時期はわかりませんが、小説の方が早いならばそれこそ小説の方が『Vガンダム』という作品のピュアな形という意味になるワケで。)
だって、『Vガンダム』と言えば「あの」カテジナさんなワケですが、小説版ではほとんど最後にならないと直接のウッソの敵にならないんですよ。
ウッソが対カテジナ関係で追い詰められる期間短過ぎ。
しかもカテジナさん死んじゃうし。
TVアニメでのラストの壊れ切ったカテジナさんの姿は小説では観れないんですよ。

つくづく、小説もアニメも変な作品です。『Vガンダム』は。

あ、そうそう。
小説ではバイク戦艦は微塵も出てきませんでした。
心の底からバイク戦艦のコト、キライなんですね。富野氏は(笑)。

2004年8月20日