スパイラル-I'm not in love.- カット : しちみ唐子/小説 : 乙姫静香


Scene 6




 土曜日。亨は貴明のマンションの玄関に入りながら、いつもと違う香りが漂っていることに少なからず驚いていた。
「カレー・・・?」
 つい口にしてみる。すると貴明は、前を歩きながら、なんでもないことのように言った。
「作りすぎたんだが、少し持って行くか?」
 今までに、貴明の部屋に来てカレーの匂いがしたことなど無かった。別にたいしたことではないけれど、なんとなく気になった。
「え、でも・・・」
 取っておけば、温めなおして食べられるのにという言葉を、亨は飲み込む。貴明に促されソファに座ると、貴明がいつものポーカーフェイスで呟いた。
「あ、嫌いだったか?」
「いや、大好物だけど・・・」
 するとその瞬間、貴明が少し嬉しそうに微笑んだ・・・ような気がした。もしかしたら、そう見えただけなのかもしれない。なにせ、そんな貴明の表情など見たことがなかったから、亨は驚いて何も考えられなくなってしまったのだ。
 へぇ、こいつも・・・こんな風に笑うんだ。
 亨は新鮮な驚きに、自分の気持ちも少し緩んだような気がする。釣られて笑いそうになり、頬が引きつった。そういえば、自分もここでは、こんな風に笑ったことがない・・・。
「あぁ、そっちが構わないなら、少し・・・貰って帰る」
 亨は自然に、そう答えていた。






Spiral - I'm not in love. -





 どうしてだろう。今日は亨の機嫌がいいような気がする。
 貴明は亨の浴びているシャワーの音を聞きながら、コーヒーを入れていた。ベッドの中でもなんだか素直だったような気がするし、どこか肩の力が抜けていたように思う。
 なにか、いいことでもあったのかな。
 単純に、そう思う。貴明も貴明で、亨がカレーを持って帰ると言った時は、嬉しかった。実は昨夜から煮込んでいたカレー。満腹になって腹持ちのいいものという亨の出した課題。散々考えた末がカレーだった。
 しかし、亨には言えないことだが、貴明はカレーがあまり好きではない。自然に渡せて、向こうが食べやすいもの。だから、自分の好みではないけれど、カレーを作ってみた。美味しいと、いいのだけど・・・。
 止まる水音。鼻をくすぐるコーヒーの香り。貴明が自分のマグを取り出すと、浴室から亨の声が聞こえてきた。
「・・・なぁ、ハサミ貸してくれないか?」
「ハサミ?」
 風呂場でハサミ?と、貴明は不思議に思いながら、亨が身体を拭いている最中の脱衣所に向かう。すると、腰にタオルを巻いたまま、鏡を見つめる亨が立っていた。
「何に使うんだ?」
「ん、前髪がちょっと邪魔で・・・」
 濡れた前髪を自分でひっぱりながら、亨が告げる。貴明は、疑いを隠しきれない顔で聞いた。
「まさか・・・自分で切ってるのか?」
「まさかってなんだよ。髪切るだけに、高い金なんか払えねぇだろ」
 一瞬答えることが出来ずに、貴明は立ち尽くす。そこまで出費をセーブしてるとは思わなかったのだ。亨は唖然としている貴明に、微笑交じりで答えた。

「俺、こう見えても看板とかに絵を描く仕事してるんだ。貴明みたいに頭よくないけど、そういうのは結構得意だし、好きなんだぜ」
 亨は、貴明の会社の前に自分が絵を描いていることを知らない。そして、その亨を貴明が知っているということも。
「さすがに、後ろの方はちょっとやりにくいけどな。後ろに目があるわけじゃないから・・・」
 後ろ髪を引っ張り、洗面所の鏡で確認しながら亨が呟く。実は少し「じゃあ俺が切ってやるよ」という貴明の言葉を期待したが、貴明は黙って亨を見つめるだけだった。
 貴明も、返事に困っていた。幼い頃、まだ小さい悠汰の髪を切りすぎて、泣いて抗議されたことがある。この歳で同じ過ちを犯すことはないだろうけど、この歳の髪型だけに、失敗したときの取り返しはつかないような気もした。
 ちらちらと貴明に視線を投げる亨。その無言のアピールに貴明も気付き、益々返事に困る。こんなことを言い出すほど機嫌がいい亨はめったにない。しかし、今はもう夜。昼の方が、ベランダで切ることも可能だし・・・。
「ま・・・」
 いいかと亨が言いかける。すると、同じタイミングで貴明が口を開いた。
「俺が・・・切ろうか?」
 その声はまさに、地の底から響くように低い。貴明の苦渋の決断が、そこに見て取れた。
「ただ!・・・保証は・・・できないぞ。それに、泊まって行くなら明日の昼に・・・って話だけど」
 釘を刺すように、じっと亨の目を見る貴明。亨は貴明の必死の目に思わず気圧されそうになりながら、まばたきも出来ずにコクリと首を前に倒した。
「うん・・・わかった。頼む」






Spiral - I'm not in love. -





 「どういう絵を描くんだ?」
 眠りにつこうと、下着姿でベッドに潜り込んだ亨に、貴明は本から目を上げずに聞いた。ナイトスタンドの明かりの下、眼鏡をかけている貴明は、いつもと少し違って見える。そういえば、こんな風に眠る前になにもしないのも珍しい。
「別に、仕事だからな。頼まれればなんでも描くけど・・・」
「ふぅん・・・」
 興味があるのかないのか、貴明は本から目を離さないままに答える。亨が身体をずりあげて本を覗き込んだが、コンピュータ関係の本なのか、なにがなんだかさっぱり分からなかった。
「あ、でも。二箇所だけ、自由に描かせてくれるところがあるんだ。そこには自分の描きたいものを描いてるぞ」
 ピク・・・と貴明の眉が動いたことに、亨は気付かない。そのまま貴明の隣で横たわると、ベッドの上に座る貴明を見上げながら亨が続けた。
「いまは、ひとつには木の絵を描いてあるし、もうひとつには、カラスの絵が描いてある。古着屋なんだ」
「木・・・か」
「あぁ、そっちはテーマだけオーダーがあって、ビルの間だから、できるだけ和むような自然の絵がいいってことだったんだ。だから、大きな木の絵を描いてみた。ま、誰も気にしちゃいないと思うけどな〜」
 自分でも、なんで今日はこんなに話せるんだろうと、亨は不思議に思う。元々話すのは得意じゃない。会社でも発言を求められると、一瞬息が止まってしまうくらいなのだ。なのに、なぜ今日は・・・?
「そんなこともないと思うけど・・・」
 貴明が、亨に聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟く。すると亨は、現実に引き戻されて返した。
「え?ごめん、なんて言った?」
 貴明は、それにも冷静な顔のまま、眼鏡を外して答えた。
「本当に、絵を描くのが好きなんだな・・・」
 興味の無いような顔をしながら、どんどん話を振ってくる。今日の貴明はやっぱりなにかが違うと、亨は思った。
「・・・・・・あぁ。それに、それしか能が無いしな」
 冗談のつもりで亨は答える。しかし、貴明はそれを本気で受け止めたのか、読んでいた本を閉じて亨を見た。
「いいじゃないか、それが好きなら、それで」
 迷いの無い、真剣な瞳。慰めでもなんでもなく、貴明はそう思っているのだろう。それが分かるから、亨は胸がキュっと締め付けられる想いで貴明を見上げた。
「他でもない、自分の好きなことを続けられる才能があって、よかったじゃないか」
 仕事は楽しい。それは本当だ。それだから、辛いことがあっても続けられるのかもしれない。貴明に言われて、今更ながらにそのことに気付いた。
「あぁ・・・そうだな」
 なんだろう。胸が熱くなる。亨は身体を貴明に少し寄せると、戸惑いがちに貴明のパジャマに手を伸ばし、それでも触れないままに手を引いた。
「でも、まだ本当に描きたい絵は描けてないんだ」
 自分の気持ちを切り替えるように亨が切り出す。貴明は、ナイトスタンドの明かりを消そうと手を伸ばした。
「本当に描きたい絵?・・・どんなのなんだ?」
 そして、ライトを消して部屋の中に暗闇が訪れる。亨は、貴明がベッドに潜り込んだことを、沈み込んだベッドの感覚で察した。
「さぁ・・・心のある絵・・・かな?」
 思わず口をついて出た言葉。こんなこと、妹にも話したことは無かった。
「誰かの心を動かせるような・・・」
 言葉でなく、声でなく。それをみる者の心を動かすような絵。それはずっと亨が思っていたこと。
 心に触れる絵。そんな絵が描けたらいいな・・・と思い続けていた。
「・・・・・・難しいな、それは」
 闇に慣れた目が、かろうじて暗い中にものの輪郭を認め始める。貴明の横顔が、亨の目の前にあった。
「そうだな・・・」
 亨も貴明の呟きに小さく返す。闇の中で目を凝らすと、貴明も目を開けていた。
 何かがじれったくて、亨の気持ちをかき乱す。おかしいのは、今日の貴明だけじゃないのかもしれない・・・。
「なぁ・・・」
「ん・・・?」
 ギシっと軋むベッドの音。亨は身体を起こすと、横たわる貴明の身体に手を伸ばし、パジャマの袖を引っ張った。
「もう・・・寝るのか?」
「・・・・・・え?」
 貴明は、亨の問いに信じられない気持ちで聞き返す。すると亨が、夜目でも戸惑いが伝わってくる声で呟いた。
「なんか・・・今日の俺、変みたいだ・・・」
 そして、指を滑らせて貴明のパジャマのボタンを外し始める。全部のボタンが外れると、小さなため息の後、かすれる声で亨が言った。
「もう一度、シャワー浴びることになっても・・・いいか?」
 ためらう指先が、貴明の裸の胸の上をなでる。貴明はその亨の手首を掴むと、それを自分に引き寄せながら答えた。
「そんなこと・・・構わないさ・・・」

Scene 6 / End






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