=The refrain at the break of dawn=





 不思議な浮力を感じながら、一瞬にして変る視界。
 風の吹く様をスローモーションで見ているような、灰色のようなベージュのような世界。
 ゆっくりとゆっくりと沈んでいく。胸や耳に感じる微かな圧迫感。鼻を摘まんで、耳抜きをする。パリンと割れたような音に、一瞬鼓膜が破れたかと思った。
 自分の目の前を立ち昇っていく無数の泡。その行く先を追って顔を上げると、徐々に膨らんだ泡が自分の頭上に広がっていた。その泡の向こうで光っている太陽。海面がその光を受けてキラキラと輝いている様子は、とても綺麗だった。
 ここは海の底。自分の誕生日に丁度ライセンスが取れるように、尚也はダイビングスクールに通っていた。尚也の両親、及び姉の果花はすでにライセンスを持っている。そもそも姉の名前の果花は、ハワイのカハナビーチから取ったものだ。それだけ、尚也の両親も海が好きだった。
 そして、今日が海洋実習の初日。初めて潜った海の底は、尚也に、今まで見たことの無い世界を見せてくれた。
 水深12mの白い砂浜。インストラクターに頭上を指を差され、海の中で仰向けになる。するとそこには、青い鱗に太陽の光を受けながら、素早く泳いでいく魚の群れ。自分の視界を曇らせるほどの大群が、きれいな曲線を描いて泳ぎ去っていく姿に、自分の吐き出した空気がかぶっていく。普段上からしか見ることの無かった海の中にこんな世界があるのかと、尚也はゴーグルの中の目を丸くした。
 自分の呼吸の音がノイズのように響くのに、音は消えてしまったかのような錯覚。そこにあるのは恐怖なのか安心なのか。尚也は純粋に、父の言った「一度は潜ってみた方がいいぞ」という言葉を正しいと思った。






=The refrain at the break of dawn=





 「ただいま」
 大きな鞄を担いで、尚也は居間に顔を出す。濡れた髪もすでに乾き始めていた。
「あ、おかえり。どうだった?」
 ソファに座って新聞を読んでいた果花が、少し疲れた表情の尚也に問い掛ける。尚也は器材の入った鞄を脇に置き、姉の飲んでいたお茶に手を伸ばした。
「うん、面白かったよ。耳もちゃんと抜けたし・・・」
 冷静に返し、姉の飲みかけのお茶を飲み干す。果花は飲む気がなかったのか、弟の猫舌を知っているからなのか、特に何も言わなかった。
「今日は何mくらい?」
「水深?」
 短く聞いて尚也は立ち上がると、急須に熱いお茶を入れ直して、姉の前に出した。そして、自分の分のコップを取り、ミネラルウォーターを入れる。
「ううん、視界」
「10m位だって」
 再び姉の向かいに座って、深く息をつく。果花は読んでいた新聞を閉じ、胡座をかいた。
「へぇ、じゃあここらにしてはそこそこ見えたでしょ」
「魚とか、良く見えたよ。ウツボにも会ったし」
 尚也が片手で、ウツボの口の形を作る。威嚇されたことを示す尚也に、果花が笑った。
「結構可愛いでしょ、あれも」
「そうそう噛まないってことが分かればね」
「まぁ、せっかく買った器材が無駄にならなくてすみそうじゃない。あたしの友達なんて、器材全部買ったのに、どうしても耳が抜けないって言って無駄になったわよ」
 安くても、ダイビングの器材を全て揃えるとなると、ウン十万はかかる。尚也が水を飲んで肩をすくめた。
「そうだ、クラブの人に、花姉に『今度のパラオどうする?』って伝えろって言われたけど・・・」
「あぁ、あれね。でも無理だろうなぁ。大学はこんな調子だし、萌のこともあるしね」
 そう言えば、夜だというのに両親の姿が見えない。尚也は一度部屋の中を見まわし、言った。
「みんな、萌香ン所?」
「ううん、パパは会社。ママと若が萌の所。今日はあんたが行かないから、萌が拗ねてるだろうし。本当にあの子ったらお兄ちゃんっ子よね。あんたに彼女出来たら大変よ」
「おかげさまで、別れたばっかりだよ」
 晩御飯を探して冷蔵庫を覗く。するとそんな尚也に果花が立ち上がった。
「あんた、本当に早いわよね。一人と二月以上続いたことある?っていうか、それ本当に付き合ってるの?あ、これ、今日中に片づけてってママが言ってた」
「オッケー。だって、ふられるんだからしょうがないだろ。なんか野菜ない?」
 冷蔵庫から出したものを電子レンジに入れ、姉を振り返る。果花はガラスの容器を出して、弟に差し出した。
「告白も向こうで、振るのも向こうな訳でしょ?あんたは何してる訳?」
「何してるっていわれても困るけどさ」
 尚也の夕飯が始まり、今度は姉とダイニングテーブルを囲む。姉は弟の恋愛事情に興味津々のようで、両肘をついて尚也の顔を覗き込んだ。
「尚也、あんたさ、本当にその女の子たちのこと好きだったの?まさか、別れましょうって言われて二つ返事でオッケーしたわけじゃないわよね」
 図星。痛いところを突かれて、尚也が無言で食事を続ける。
「振られる理由とか、考えたことあるの?」
「無くは・・・ないけど」
 でも、告白も別れも、いつも言い出される方。未練らしい未練も感じたことがないのは、自分が情緒欠陥人間だからだと思っていた。
「でも、それよりもなんていうか・・・・別れようって言われて、ちょっとホッとするんだよね」
「あんた、女の子の何を見て、付き合うかどうか決めてるの?まさか完全に『来るもの拒まず』なんじゃないでしょうね」
 ちょっと怪訝な表情の姉に、次の言葉を正直に言おうかどうか迷う。言ったら最後、顰蹙の罵声が浴びせられることは間違い無い。
「どうなのよ」
 問い詰める果花の瞳。尚也はもはやどうでもいいやと思いながら言った。
「顔。何はなくとも顔」
「あんたサイテーね」
 即座に突っ込む果花。やっぱりそう言われたかと、尚也がため息にも似た息を漏らした。
「でも、あんたとやっぱり姉弟だなって思ったわ。あたしも顔は譲れないもの。別にハンサムというんじゃなくて、好きな顔かどうかってことは大切よ」
「だろ?そうだろ?」
 ザ・ビジュアル重視姉弟。
「初めて会った子の性格なんて分からないし、スタイルだってどっちかっつーとどうでもいいし。顔とか雰囲気でしか決めようがないよな。先ずは友達からお願いしますって言われても、友達になったら友達としてしか見られなくなるしさ」
 弟の言葉に、姉が深く肯く。
「そこまで、他の人と違う個性を持ってる子なんて・・・・」
 なかなかいないし・・・と言いかけて、頭を過ぎる顔。尚也は、明らかに他の誰とも違う子が、一人居ることに気付いた。
 果花は途中で言葉を切り、空中で視線を固定している弟をじっと見つめる。そして、尚也の目の前で軽く手を振り、顔を覗き込んだ。
「・・・・いるんだ?」
 黙る尚也に、果花が言う。尚也はそんな姉の言葉に、口を動かしながら小さく肯いた。
「可愛い?」
「・・・・綺麗な顔、してると思うよ」
「性格は?」
「好き嫌いが、はっきりしてるっていうのかなぁ・・・。結構、キツイ方だと思う。でも、それが不快じゃないっていうか・・・・。プライドも、高そうかな」
「ふぅん」
 とりあえず、それが男だとは言わない。ゲイに偏見はないつもりだけど、自分の中に芽生えたこの不思議な気持ちが恋だとすると、ただ事ではないような気がする。自分がゲイかどうかが分からないのと同じ位、自分がゲイでないという確証もない。ヤマトに対する興味が、いままで出会ったことのないタイプへの好奇心なのかどうなのか、確かめてみようかな・・・と思った。
 果花はテーブルの上に肘を突いて、食事を続ける弟を眺めている。尚也は特に慌てるでもなく、かといって何かを取り繕うでもなく、黙々と食事を続け、お代わりのために立ち上がった。
「まぁ、でもあんたにはいいかもね」
「え?何が?」
 再び席に着いた弟に、果花が言い放つ。尚也はポテトサラダを口に運びつつ、何か言いたげな姉を見返した。
「ちょっとキツイくらいの方が、あんたには合ってるんじゃない?」
「なんで?」
 果花は恋愛評論家よろしく、偉そうに言ってのける。尚也はそれでも冷静に果花の次の言葉を待った。
「実はあんたって、すごーく理想が高いと思うのよね。今までの彼女と長続きしなかったのも、あんた的に手応えがなかったからだとあたしは思うのよ。かといって、あんたは相手に『あーしろ』だの『こーしろ』だの言わないでしょ。どっちかというと、勝手に胸の中で相手を査定してるタイプ。一番性質悪いわよね」
「そんな、性質悪いっていきなり言われたってねぇ・・・」
 でも、あながち間違った想像ではないような気がする。思い当たることがバシバシあった。
 見た目がそこそこ良いかなと思っても、話してみると幻滅することだらけ。相手の言動をプラスとマイナスで採点してた訳ではないけれど、確かにそういう感はあったかもしれない。まるで、相手がオーディションでも受けに来ているかのような付き合い方をしていたかも。
「だってずるいじゃないよ。あたしの目には、あんたが彼氏として努力した姿なんてぜーんぜん見えないもの。ただ、向こうの思うがままにしてただけでしょ?自分がこうしたいとか、相手にこうして欲しいとか、言わなくちゃ分からないことだってたくさんあるんだし、それを話し合ってこそお互いの理解ってモンは深まって行くんじゃないの?」
 ふむ、正論。素直に尚也は納得する。しかし、果花の言うことは分かるが、疑問も残る。
「なんとなく分かるけどさ、なんでそれが『俺にはキツイくらいの方が合う』ってことになるの?」
 すると果花、ふふんと鼻で笑って言った。
「あんたが仕掛けなくても仕掛けてくれるくらいじゃないと駄目なのよ。あたしが言うのもなんだけど、あんたは小さい頃からあたしにも萌にも若にも、自分からケンカをふっかける事はなかったわよね。あたし的にはかなりオイシイ弟だったんだけど・・・」
 オイシイと思われていたのかと、少し引っかかるものを感じながら、とりあえず尚也は肯く。しかし、姉や妹達はとりあえず女性なわけで。女性に対して手を上げることも声を荒げることもしない父を持った尚也は、自然にそれを当然と思うようになっていた。別に、争わなくても自分をないがしろにされてるとは思わなかったし、自分を主張しておかなければならない領域が、明らかに姉妹たちとは違うところにあると思っていた。
「あたしがあんたとケンカする時は、あたしが不快感を感じた時で、あんたはそれに応戦してた訳じゃない?」
「まぁ・・・・そうかな」
 そう言われると、そんな気もしてくる。いや・・・確かにそうだ。考えてみると、家の中で突然怒り出すのはもっぱら女性陣なのだ。父が怒ったこと?あんまり思い当たらない。
 すごいことに気付いてしまった・・・と、尚也は思わず苦笑した。
「防衛戦しか出来ない今のあんたには、侵入者じゃないとだめなのよ。あんたってば頑固だし、えぇカッコしぃだしね」
 なんだか黙って聞いてると、さっきから随分なことを言われてるような気がすると尚也は思う。それでも怒り出さないところが尚也のいいところでもあると、果花は思っていたが口には出さなかった。さすがはこの弟の姉・・・というべきか、オイシイ誉め言葉は切り札にする主義である。
「えぇカッコしぃ・・・・」
 どうしても響きの悪い言葉に、つい尚也が首を傾げる。なんとなく肯いてしまったけれど、自分は本当に姉の言う通りの人間なんだろうか。へこみこそしないものの、今までの16年の人生で培われたものがそんなもんかと、ため息が漏れる。
「まぁまぁ。でも、これからが男の磨き時だからさ、そのキッツイ彼女と付き合ってみなさいよ、話してるあんた見てても、今までで一番乗り気みたいだしさ。そうしたら防戦一方のあんたの性格も変るかもよ」
 彼女じゃないんだけどな・・・と思いながらも、尚也は目の前の果花を無言で見返す。
 姉は一体何をそんなにやる気になってるんだと不思議に感じた時、果花が尚也の顔を伺いつつ、作り笑顔で言った。
「で、この話、大学のレポートで書いてもいい?心理学の」






=The refrain at the break of dawn=





 尚也は萌香の病室をいつものように出ると、いつもとは違う方向に廊下を進んでいった。
 病室の前の表札で確認して、中を覗き込む。目指す相手は、今日も一人で海を見ていた。
 夕飯後の一時。暮れていく夕日が、綺麗なグラデーションを空に作っていた。
「こんばんわ」
 短く投げかけると、ヤマトは驚いたように振り返る。考え事をしていたのか、外界に対する警戒を完全に解いていた。
「こんばん・・・・わ」
 挨拶に対しては律義に返してしまうところがいいところ。尚也は窓辺のヤマトに並んで外を見ながら、手に持っていた紙袋を差し出した。
「今日もいい天気だったね。海も綺麗に見えたでしょ」
 当たり障りの無い言葉に、ヤマトが怪訝な顔で尚也を見上げる。一応差し出されたものを受け取りながら、ヤマトが瞳でなんだこれはと語っていた。
「誰でもいいと思って話してるんじゃないよ。ヤマトと、今日の天気の話がしたかったんだ。それと、その話」
 尚也は笑顔で、渡した紙袋を指差す。ヤマトは眉間の皺を取らぬままに、その平たい紙袋を開けた。
「・・・・あ・・・・・」
 ヤマトの白い手でつかみ出されたのはダイビング雑誌。特集記事は、ライセンス取得の説明と初心者向けのファンダイブ解説だった。
「この間、俺初めて潜ったんだけど、すごく面白かったんだ。で、ヤマトも海好きだって言ってたから、どうかなと思って」
 ヤマトの眉間の皺が、すっと緩んでいく。しかし、今度は違う表情を浮かべてヤマトが呟いた。
「でも俺、言ったよな。『きっと、一生入れないから』・・・・って」
 何かを堪えているような、硬い表情。尚也はそんなヤマトの様子に気付きながら、微笑みで返した。
「うん。言ってたね」
「ならなんで、こんなもん持ってくるんだよ」
 微笑みを崩さない尚也に、少し苛立ったヤマトが険しい瞳で尚也を見上げる。尚也はやっと自分を見たヤマトに少なからず嬉しさを感じていた。
「だって、好きなんでしょ?興味あるんでしょ?」
「でも・・・」
 ニブイ奴だなと言いたげなヤマトの声。しかし、それにもめげずに尚也は言った。
「あのさ、星の写真って見たことある?月でもなんでもいいけど・・・・」
「あるよ」
「俺もある。でもだからって別に月に行く訳じゃないだろ。行けるかどうかも分からないしさ。でも、とりあえず・・・そうだなぁ冥王星の写真ですとかって言われたら見てみたいだろ?」
「うん・・・・・まぁ」
 ヤマトがこぼすように呟いて、尚也が目を細める。そして、窓枠から外に身を乗り出しながら、尚也が言った。
「だろ?良かった〜」
「・・・・・・何が?」
 訳が分からないと言いたげにヤマトが問う。尚也は分からないのかな?という顔で付け足した。
「だって、月よりも冥王星よりも、きっと一緒に行ける可能性高いと思うんだよね。そこら辺の海の中の方が。だから、ヤマトの好きなのが海で良かったなって・・・」
 一緒に・・・・?と、ヤマトの瞳が問い掛ける。しかし、瞬時にして自分でその問いをかき消し、ヤマトが雑誌を紙袋に入れ直した。
「な・・・なんで俺がお前と一緒に潜らなくちゃいけないんだよ!」
「お前じゃないよ」
 落ち着かないヤマトの言葉に、尚也が突然真剣な顔で訂正する。ヤマトが尚也を見上げると、尚也が妹を諭す時のような顔で言った。
「尚也だよ。『お前』じゃないよ。ヤマトと海の話とか天気の話とかしたいのは、そこら辺の『お前』じゃなくて尚也だよ。だから俺のこと、ちゃんと名前で呼んでよ」
 あまりのことにヤマトが返事に窮する。なぜだか無性に恥ずかしくなって、ヤマトが赤い顔で俯いた。
「ば・・・ばっかじゃねぇの、お前」
「だから、『お前』じゃないってば」
 そんな堂々巡りの最中に、尚也が病室内の時計に目を落とす。次の瞬間、尚也がはじかれたように鞄を持ち直した。
「うわっ!やばい、帰らないと!散歩の時間だ!」
「え・・・?」
 急な展開に、ヤマトは雑誌を手にしたままポカンと尚也を見ている。尚也は病室から駆け出しながら、最後に振り返ってヤマトに言った。
「それあげるから、ちゃんと読んどいてね。じゃあ、また!」
 そして、ヤマトの返事を待たずに飛び出して行く。ヤマトはそんな尚也の後ろ姿を見送って、しばらく病室の入り口を見ていた。
 手に残ったのは、近所の本屋で買った雑誌の袋。
 その手の雑誌は、雑誌にしては安い方ではない。それでも、買ったんだろうな、自分のために・・・とヤマトは思う。
「なお・・・や・・・・・・・・・」
 きゅっと手を握ると、紙袋がクシュっと音を立てる。ヤマトは困ったように眉を寄せ、自分の拳で額をコツンと叩いた。
 まるで、誰かにそうして叱って欲しいかのように。






=The refrain at the break of dawn=






暁のルフラン/第二話・終




ダイビングしに沖縄に行きたいと
最近ひたひたと心の中で計画してるのですが
バディのかなぴんが花粉症なのできっと無理かも・・・(^^;)
そして相方のゆたちんも花粉症。みんなのちり紙の量の増加で
春を感じるワシ・・・・。

第一話へ

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