†††††††
「マリー!」
ネルガルの張りのある声が廊下に響く。足元には割れたガラスの破片が飛び散っていた。
「マリー!」
早足で廊下を進みながら声をあげるネルガル。すると、正面の角から剣を片手に携えたマリーが現れた。
「ネルガル様!侵入者はおそらく二人、一階の…」
黒いスカートの裾を揺らしながら、マリーがネルガルの元に駆け寄る。しかし、次の瞬間、マリーの顔色が変わった。
「ネルガル様!後ろにっ!」
マリーの顔色の変化に気付いたネルガルが、マリーの声よりも先に振り返る。
一瞬、それはただの黒い影に見えた。影が振りかざしたものの先にあるのは、銀色に光るカマ。それが、ネルガルの視界の中で、空を切った。
ガッ
瞬時に身をかわしたネルガルが、廊下の上を回転して立ち上がる。空中に光の筋を描いたカマは、壁にその切っ先を突き刺した。
影に見えたのはその侵入者が薄汚れた黒いマントを羽織っているため。突き刺さったカマについたどす黒いものに、ネルガルが眉をひそめた。
「マリー。やられたのか?」
「死者一名、負傷者二名、確認できているのはそこまでです」
手早く報告しながら、マリーはネルガルに持っていた剣を差し出す。しかし、それを受け取るよりも早く、侵入者がカマの先を壁から抜いた。
「それはお前が使え」
ネルガルの動きが早いために、声が残って聞こえてきたような錯覚に陥る。ネルガルはすばやく侵入者の懐にはいると、カマを持つ腕を右手で掴み、左手でマントのフードをはいだ。
そこにいたのは、トカゲの肌とフクロウのくちばしを持つ下級悪魔。口を開くと、先が二つに割れた紫色の舌が現れた。
「下にはいない!上だ!早く行け!」
叫んだのは侵入者。近づく仲間の気配に、アスカロトの場所を伝えたのだろう。次の瞬間、もう一つの影が今ネルガルが捕まえている侵入者の背後をすり抜けていく。
「ネルガル様!ここは私にっ!」
マリーが背後で叫び、ネルガルが侵入者の手から力づくでカマを奪い取る。そのままマリーのいる方へその身体を蹴り倒すと、マリーが侵入者の背中に身体ごとぶつかっていった。
「ぎゃあっ!」
侵入者の胸から空に向かって飛び出してくる剣先。それを視界の端で確認すると、ネルガルはすぐにもう一人の後を追い、階段を駆け上っていった。
†††††††
草木も生えない岩山の奥から、聞こえてくる低い唸り。濃紺の夜の中、珍しく身軽な格好をしたアスタロトは供も連れずに一人で山道を歩いていた。
空では月が赤紫色に光っている。それを見上げると、アスタロトは少し視界の開けた場所で立ち止まった。月の高さから、朝まではまだ大分時間があることが分かる。そこでアスタロトは腕輪をひとつ外し、それを片手で持った。
次の瞬間、その腕輪に小さな火が点き、燃え始める。アスタロトは火が完全に回りきるよりも先にその腕輪に細い鎖をつけると、暗い闇の中でその鎖を長く伸ばし、上空に弧を描くように回し始めた。
闇の中で唸りながら回る鎖。先につけた腕輪の火の軌跡が、大きな赤い円に見えた。
「魔力を使いたくないとはいえ、さすがに疲れるな…」
鎖を回す手を止め、アスタロトがため息をつく。このために、マルコキアスを連れてくればよかったと思っていた。
火が消えた腕輪から鎖を外し、ベルトに留める。腕輪を腕に戻すと、アスタロトは汚れた手をじっと見つめた。
「やはり、連れてくるべきだったな」
手の汚れを払いながら、アスタロトは改めて呟く。体力がないわけではないが、面倒くさいことは嫌いなアスタロト。本当のことを言えば、外出もあまり好きではない。そんなアスタロトがわざわざこんな場所に来るのには、大きな理由があった。
「さて…」
アスタロトは闇の中、じっと目を凝らして上空を見つめる。
遠くで、ひときわ大きな唸りが響いた。
†††††††
ドーンという大きな音に、アスカロトは背後を振り返る。ここに居ろと言われた以上、勝手に外に出るわけにはいかない。しかし、元々旺盛な好奇心を抑えられるはずもなく、アスカロトは窓から外の様子を知ろうとしていた。
さっきの女の悲鳴がマリーだったらと思うと、気が気ではない。マリーでなくても、誰であっても嫌であることに変わりはないのだが、特にマリーには無事でいて欲しいと願うアスカロトだった。
その間にも、ドーンという何かを倒すような音は徐々に近づいているような気がする。一体なにが起こっているのだろうかとアスカロトが思った時、その声は聞こえてきた。
「アスカロト〜〜〜ッ!」
低い男の声。それがネルガルの声でないことは、分かった。マルコキアスの声でもない。一体誰が…?
「出て来い!元下級天使ごときに何ができるのか、俺さまが確かめてやる!」
扉越しに聞こえてくるがなり声。続いて聞こえてくるドーンという音は、どうやら手近な扉を蹴り開けているようだ。
それにしても、どうして自分に用があるのか、アスカロトにはさっぱり分からない。しかもこの殺気。声は徐々に近づくものの、アスカロトは出て行くべきか、このまま部屋にいるべきか判断しかねていた。するとその時、外から聞こえてきていた男の足音がピタリと止まった。
「それとも、慰み者としての価値しかないお前には、確認の必要もないか?」
続いて聞こえてくる下品な高笑い。部屋の中で、アスカロトの目が大きく見開かれる。屋敷の外で吹く強い風の音が、やけに耳に響いた。
「どうせお前など、下で手にかけた女にも劣る力しかないのだろう。後ろ盾の一人も持たぬお前がこんな場所にいる理由など、それ以外に…」
男が言い切るよりも先に、扉は開かれた。開けたのはアスカロト。開いた扉の正面に、アスカロトは身じろぎもせずに立っていた。
「お前が、アスカロトか…?」
振り返った男は、黒い牛の頭に人の身体を持っていた。二メートルはあろうかという筋肉質で大きな身体に、黒いマントを羽織っている。手に持っているのは、血の付いた斧だった。
アスカロトは男を睨みつけたまま、ゆっくりと歩を進め部屋から出る。アスカロトの背後で静かに扉の閉まる音がした。
「こりゃ、見るからに…だなぁ」
アスカロトの姿を舐めるようにみて、いやらしく笑う男。しかし、アスカロトはそれに怯むことなく、力強い目で男を見返していた。
「下で手にかけたってどういうことだ!殺したのかっ?」
アスカロトは怒りに口唇を震わせながら叫ぶ。身体の脇で握った拳が、さらに白くなった。しかし、男はそんなことはどうでもいいとばかりに鼻で笑ってみせる。斧を握る手に力を込めると、軽く舌なめずりをした。
「お前なんかにネルガル様の直属が勤まるわけもねぇ。今から俺が、その地位をいただいてやるぜ!」
言い切るよりも先に、男の足が床を蹴る。振り上げられた斧。視界の中で徐々に大きくなる男の姿を見据えながら、アスカロトの手が自然と腰の短剣に伸びた。
「抜け!」
空気をも震わせるような男の足音の中で、アスカロトの耳に届いた言葉。それが引き金のように、アスカロトは腰の短剣を一気に引き抜く。瞬きさえも出来ない間に、近づいた男の身体から斧が振り下ろされた。
かろうじて身を横にかわしたアスカロトの髪をかすめて、斧が床に叩きつけられる。斧は石の床を砕き、欠片を周囲に撒き散らす。アスカロトは床に倒れながらも、男に向き直り短剣を身の前にかざした。
立ち上がろうとするにも、それよりも先に男が斧を再び振りかざす。逃げる場所などない。アスカロトの大きな瞳に、にやりと笑う男の顔が映った。
瞬間、口から漏れた言葉にならない叫び。しかし、その叫びは男の斧によって止められることはなかった。
アスカロトの視界に飛び込んだもの。それは男の胸から生えた手だった。血に濡れた手が、男の胸から伸び、その手には蠢くものが握られている。次の瞬間、アスカロトの顔に降ってくる赤い雨。そして、男がゆっくりと自分の胸元に視線を落とした。
パクパクと、陸にあげられた魚のように、男は数回口を動かした。斧を振りかざした腕が揺れた時、胸から生えた手が、静かにその手の内のものを握りつぶし、視界から消える。後ろに引かれた男の巨体がゆっくりと後方に向かって倒れ、地鳴りのような音だけを残した。
そしてアスカロトの視界に新たに現れる影。そこに立っていたのは、片手を赤く染めたネルガル。仰向けに倒れたままのアスカロトは、半ば放心したように剣を構えたまま虚空を見つめている。
「一太刀は、くれてやったんだな…」
ネルガルは手の中の心臓を目の前の死体に投げると、男の腕に残された細い太刀筋を見て呟く。それは、アスカロトが最初に身をかわした際に振り回した剣が、偶然かすめたもの。アスカロトは荒く不規則な呼吸を繰り返しながら、顔を動かすことは出来ないままに、視線だけをネルガルの方へ向けた。
「な…なんだよ…コイツ……」
震える声で呟く。ネルガルはそんなアスカロトを一瞥すると、男の死体を見下ろして言った。
「おおかた、お前の地位を奪おうと考えた下級悪魔だろう。しかし、ここに来るとはな…」
「俺の…地位…?」
アスカロトは話して少し落ち着いたのか、ようやく剣を握ったままの手を床に下ろしてヨロヨロと立ち上がる。足の下で、石の欠片がつぶれる音がした。
「なぜ部屋を出た」
責めるようなネルガルの声。アスカロトはその時になって自分の身に降りかかった災難を全て忘れたかのように顔をあげた。
「そうだ!マリーは!?無事なのか!?」
ネルガルは急に様子の変わったアスカロトに眉をひそめながらも、とりあえずは大きな怪我がないことを目で確認する。アスカロトは不安げな瞳でネルガルを見上げていた。
「マリーは無事だ。下にいる」
「そうか…」
安堵の息を漏らしながら、アスカロトが目を閉じる。しかし、男の言った言葉を思い出すと、続けてアスカロトは悔しそうに漏らした。
「でも、誰かやられたって…」
それには答えない。ネルガルは指先から男の血を滴らせながら、アスカロトが手にしたままの短剣を見下ろした。
「戦う気だったのか?」
ネルガルの問いに、アスカロトは顔をあげる。そして手にした短剣にようやく気付いたように、自分の手の中にあるものを見下ろした。
「…わからない。ただ、カッとなって…」
思い出すのは、耳に飛び込んできた「抜け」という言葉。この短剣を武器として使えるという意識はなかった。ただ、あの瞬間、冷たい指でスイッチが入れられたように、反射的に剣を抜いていた。そして、その声は…。
「今度は迷わず殺せ」
なんでもないことのように言うネルガルに、アスカロトが顔をあげる。言葉の意味が脳に浸透するにつれて、眉がスッと寄せられた。
「さもなくば、お前が死ぬだけだ」
感情を伴わない冷たい声。アスカロトは、数歩先にいるネルガルの広い背中を複雑な気持ちで睨みつけた。剣を持つ手に、自然と力が入る。
「……そうだな、今なら刺せるぞ」
声にしたのはネルガル。そんなことを考えもしなかったアスカロトは、驚いて目を見開いた。しかし、手に力を入れれば感じられる剣の存在感。ネルガルの意思が伴わなければ抜けない剣は、しまわれることなく今はこの手の中に…。
目の前にある背中を前に、アスカロトは隠せない戸惑いに翻弄される。今ならやれる。けれど…。
「どうした?」
アスカロトを試すように、肩越しに視線を投げてくるネルガル。アスカロトは震える腕を上げて、ネルガルの背中を睨みつけた。
†††††††
自ら犯した罪によって与えられる印。
それは分かる。しかし、罪を犯したわけでもなく、ましてや自ら望んだものでもない印。それはどう解釈すればいいのだろう。
神の与えた試練?なら何故、皆に等しくその試練は与えられないのだ?
なぜ私に?
なぜ私にだけ?
幾度も繰り返し悩み、幾度も繰り返し問うた。
誰よりも美しい肌など望んだことはない。誰よりも金色に輝く髪など欲したことはない。
神の地位を求めたこともなく、神の意に逆らおうと考えたことすらない。
なのに何故?
サリエルは自室に戻るとミカエルから渡された紙を、机の上に置いた。仕事の書類を積み、ため息をつく。
今日も一日が終わる。サリエルにとって、誰とも言葉を交わさずに一日が終わることなど、珍しくはない。サリエルの役職や、その人柄が自然と近寄りがたい雰囲気を醸し出し、周囲の人間を遠ざけるようになっていた。サリエルが天使を裁く立場にあろうと、無口で無愛想であろうと、それを気にしないのは一部の最上級職の天使たちくらいである。とはいえ、決してそれらの天使たちと心を許しあっているという訳ではなく、単に対等であるというだけであったが。
ランプに火を入れ上着を脱ぐと、壁にかけられた鏡に自らの姿が映った。温かな火の光に照らされる自分の姿に目を止め、サリエルが立ち止まる。薄暗い中でもはっきりと見て取れる、他の天使とは違う部分。長い前髪でかくされた中にある白い布のさらに奥にあるものを、サリエルはもうひとつの目でじっと見つめていた。まるで、彼にはそれが見えているかのように…。
†††††††
カチン
小さな音に、ネルガルは振り返る。アスカロトは短剣をしまうと、振り返ったネルガルに硬い視線を向けた。
アスカロトには出来なかった。どうしてだかは分からない。けれど、今がその時でないことはアスカロトにも分かった。
「いいのか?今ならまだ抜けるぞ」
静かに響くネルガルの声に、さらに心は揺れる。しかし、アスカロトは自分を冷ややかに見下ろす相手をきつく見返すと、両手をぎゅっと握りしめた。
「…後悔なんかしねぇよ」
短く言い捨てる。アスカロトには、ネルガルが薄く笑ったように見えた。
「ネルガル様っ!アスカロト様っ!」
その瞬間、遠くから聞こえてくる声。マリーは二人の姿を見つけると、表情を変え、慌てて駆け寄ってきた。
「お怪我はございませんか!…アスカロト様!その血はっ?」
「これは、俺のじゃなくって…」
マリーに言われ、初めて自分の顔に飛んだ返り血に気付く。手の甲でそれを拭いながらアスカロトがマリーに微笑むと、マリーが安堵の笑みを見せた。
「マリー」
「はい」
ネルガルに呼ばれ、マリーが緊張した面持ちで向き直る。ネルガルは傍らに横たわる死体を眺めると、ため息をひとつ吐いた後に言った。
「侵入者の身元確認と、侵入経路の調査、その前に先ずルシフェル様に報告を。被害報告もせねばならんな。アスカロトには湯浴みをさせ、今日は別棟で休ませるように」
「かしこまりました」
一礼するマリー。ネルガルは視線を移すと、相変わらず硬い表情で見上げてくるアスカロトを見下ろしながら続けた。
「お前は部屋で待機しろ。マリーが呼ぶまで部屋から出るな。今度は、絶対にな」
そして、アスカロトの返事も待たずに背を向けてその場を去る。アスカロトは力なく歩き出し、部屋の扉を開けて自分の部屋に戻った。
一人になって、アスカロトはベッドに腰を下ろす。さっきまでの喧騒が嘘のような静寂。かすかに、まだ手が震えていた。
そのままベッドの上に倒れこむように横たわる。柔らかい布の感触が、緊張した身体をほぐしてくれるような気がした。
「今ならまだ抜けるぞ」
なぜか思い出すネルガルの一言。アスカロトは閉じていた目を薄く開くと、ベッドの上に横たわったまま、腰についている短剣を見た。鞘に入った剣の柄にも、返り血が僅かについている。
「…後悔なんかしねぇよ」
アスカロトは剣の柄に手を伸ばしながら、自分が返した一言を思い出す。そして、剣の柄に触れるか触れないかのところでその手を止めると、しばらく考えた後に、結局その手をベッドの上に投げ出した。
「後悔なんか……しねぇよ」
今度は、もう一度、はっきりと口に出しながら…。
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