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ロングコートの裾を翻し、マルコキアスが足早に噴水の前を通り過ぎる。マルコキアス邸の昼は、今日も明るかった。
「帰ったぞー」
主とは思えない軽い口調でマルコキアスは言うと、コートの前をはだけながら廊下を進む。通りすがりに部屋を覗きながらアンリを探したが、姿は見えなかった。
「アンリ、どうしたー?いないのかー?」
今日は出かけるとは言っていなかったはず。予定外の行動ならば、必ずなにかしらの伝達を忘れないアンリのこと、マルコキアスは不思議に思って立ち止まった。
「アンリー?」
するとそこへ駆け寄る足音。マルコキアスが振り返ると、アンリが廊下の奥から走ってきた。
「お帰りなさいませ、マルコキアス様。お早かったですね」
「あぁ、ネルガルの所も、今は長居するような状態じゃないからな」
あの事件から数日が経ち、ネルガル邸では屋敷の修繕が行われている最中である。幸い、建物の被害はたいしたことなく、修繕工事も間もなく終わるようだった。
「ご様子はいかがでしたか?」
マルコキアスのコートを受け取り、アンリが不安そうに聞く。しかし、マルコキアスはいつもの笑顔を見せると、さっぱりと言ってのけた。
「アスカロトの方はそれなりにショックを受けてるようだけど、ネルガルは相変わらずだな。セキュリティの方にも既に手が回されてたし、抜かりがない」
「そうですか…」
死者が出たと聞いていたアンリは、アスカロトの心中を察し思わず瞼を伏せる。必要以上に自分を責めなければいいけれど、と思った。
「侵入者の身元は分かったんですか?」
警備が手薄だったとはいえ、ネルガル邸に忍び込むことができたのだから、それほど下級の者という訳でもないはずだ。しかもアスカロトのことを知っていたということは、宮殿に出入りしているものの関係者かもしれない。アンリが気になっていた質問をぶつけると、瞬時にマルコキアスが表情を曇らせた。
「それなんだけどな…」
そのまま腕を組んで、マルコキアスは唸りだしてしまう。しかし、同時に何かを思い出したらしく、すぐに顔をあげるとアンリに言った。
「そうだ。アスタロトが帰ってないらしい。双子が泣いてたぞ。一体どこをフラフラしてるんだか…」
「マ、マルコキアス様…」
廊下を進みながら語りだすマルコキアスに、アンリが焦って声をかける。マルコキアスはそれをどう受け取ったのか、さらに意気揚々と話し出した。
「滅多に外に出ないヤツがたまに出るとこれだからなぁ。日本でいう浦島太郎ってヤツか?街が変わっていて、どこを歩いてるのか、自分でも分からなくなってたりしてな」
そしてカラカラと声を立てて笑ってみせる。アンリの顔は益々こわばって、マルコキアスの腕を引いた。
「…ご主人様っ」
「なんだよ、さっきからおかしなヤツだなぁ」
腕を引かれ、そのまま笑顔で振り返る。アンリは、片手でマルコキアスのコートを持ったまま、苦い表情でもう片方の手を廊下の脇にある客間に向けた。
「……」
あとはひたすらに無言。マルコキアスの目が、客間の中に居る相手を捕らえるや、深々と礼をしながらアンリが言った。
「お待たせいたしました。湯浴みの用意が整いましたので、いつでもおいでください、アスタロト様」
「分かった。今行く」
客間のソファに座っていたのはアスタロト。しかも、どこに行って来たのか、全身薄汚れて服も切れ、所々に怪我の痕が見られる。アンリが一礼してその場を去ると、マルコキアスが客間に静かに足を踏み入れながら言った。
「お前……こんなところで何してるんだ?」
するとアスタロト、決まりの悪い顔で自分を見返すマルコキアスを冷たく一瞥すると、軽く顎を上げて返した。
「お前の家で、ソファに座ってるんじゃないか。たまに出たからって、そのくらいのことは分かる」
アスタロトらしくない汚れた格好ながら、立ち居振る舞いは間違いなくアスタロト。優雅に足を組みソファにもたれる姿は、いつもと変わらなかった。
マルコキアスは、自分の台詞の所為で機嫌を損ねたアスタロトに、思わず肩をすくめる。しかし、それを対して深刻にも受け止めずに、あっさりと返した。
「ならいいけど、どこに行ってたんだ?」
「お前の知っているところだ」
知らないところだと言われるのなら、こういう答え方もあっただろうが、知っているところだと答えられ、尚且つそれをどこだと言われないのも不思議なものだ。マルコキアスはアスタロトの向かいに座ると、しばらく考えた後に膝の上で指を組んで返した。
「……で、それはどこなんだ?」
「………」
無言で顔を背けるアスタロト。マルコキアスは、やれやれと言いたげな顔で息をつく。するとそこで、アスタロトが口を開いた。
「子ができたみたいなんだ」
「へぇ…………ええっ?」
ポツリと漏れたアスタロトの一言。流すように相槌を打ったマルコキアスの目が限界まで見開かれた。
「子って……お前にかっ?」
「私に子ができるわけがなかろう!馬鹿なことを言うな!」
思わず中腰になって叫ぶマルコキアスに、アスタロトもキツイ視線で返す。マルコキアスはそういうつもりで言ったわけではなかったが、アスタロトの意見にも一理あるなと、再び腰を下ろして言い直した。
「じゃあ改めて、……お前の子が出来たのか?」
聞きながらも、そんな馬鹿なことがあるわけないとマルコキアスも思っている。アスタロトが誰かと会っているという話も聞いたことがないし、世継ぎを作るつもりだという話も聞いたことがない。するとアスタロトは細い眉をぐっと寄せ、あからさまに不快な表情を見せて返した。
「身に覚えがないのにできるわけがない。…私をお前と一緒にするな。人間界で何をしているんだか…」
即座に返ってきた否定の言葉に、マルコキアスはホッと胸を撫で下ろす。後半に関しては、思わず視線が泳いでしまったが…。
「じゃあ、誰の話なんだよ」
アスカロトの話でないと分かり気が楽になったマルコキアスは、ソファにもたれて頭の後ろで手を組む。すると、マルコキアスとは対照的に深刻な表情に変わったアスタロトが、視線を落として呟いた。
「……ラレーヌだ」
†††††††
そこは深い森の中だった。
霧が立ち込める白濁した景色の中に、佇むひとつの白い影。白馬にまたがったミカエルは、周囲を見回すとため息をひとつ吐いた。
人の往来があった名残のある道の、脇に生える大木。そこには、事件当時の痕跡がまだ残っている。剣でえぐられた木肌や、矢じりの跡。それらを確認しながら、ミカエルはさらに森の奥に向かっていった。
そして霧の中に見えてくる簡素な山小屋。ミカエルはマントを揺らすと、少しだけ馬の足を速めてその山小屋に近づく。しかし、山小屋の入り口がはっきりと見えてきたところで、ふと馬をとめた。
山小屋の入り口につながれている、一頭の栗毛馬。つややかな毛並みを見ても、手入れが行き届いていることが分かる。鞍も、渋い色味ながらに上品な作りをしていた。どうみても、階級の高い天使の所有物であることが分かる。ミカエルは近づきながら鞍に押されている紋を確認すると、馬の歩を速めて山小屋に着いた。
馬を下りると、小屋の中で誰かが動く気配がする。すでにこの小屋には誰も住んでいないことは知っていたが、ミカエルには、中に誰がいるのかも分かっていた。
湿気を帯びた木の扉を押し、ミカエルが小屋の中に入る。すると、中に居た者がゆっくりと振り返った。
「ミカエル。…こんなところで何をしているんだ?」
手に持っていたランプをかざし、サリエルが入り口に立っているミカエルに問う。ミカエルは、扉を開けたままで部屋の中に数歩進むと、部屋の中をざっと見て答えた。
「私は、ただ単に定期巡回に来ただけだ」
「供も連れずにか?」
巡回は二人一組を原則とする。ましてや、ミカエル程の地位の者が単独行動をすることは珍しい。サリエルはいたって単純に聞いたつもりだったが、ミカエルは表情を曇らせると、沈黙で答えた。尤も、サリエルは既にミカエルに背を向けていたので、その表情を見ることはなかったが。
「なにをしているんだ?」
部屋のあちこちを物色しているサリエルに、ミカエルが問う。サリエルはそこで改めてミカエルに向き直ると、ランプの光を受けて輝くミカエルの見事な金髪を見て返した。
「いや、先日君と話してから考えていたんだが、もしかしたら、アスカロトの羽が変わらない理由は、私の知らない別の原因にあるのではないかと思ってね。こうして再び調査に来たというわけだ」
ミカエルはランプの灯を避けるように、身体を横に向ける。そしてサリエルの視線を避けたところで、一度かすかに眉を動かした。
「なるほど。で、何か見つかったか?」
薄汚れた室内を見回しながら、ミカエルがさりげなくサリエルの視線の先を探る。サリエルは、主を失くした部屋に残されたスツールの中を覗いていた。
「あったらこんなに長居はしていない。事件の現場になったということを除けば、なんてことはないどこにでもありそうな山小屋だ」
サリエルの吐き捨てるような言い方に、ミカエルが思わず頬を緩める。ミカエルの腰に差した剣の鞘が、ミカエルの歩みに合わせて音を立てた。
「それはそうだろう。ここは私たちがすでに調査済だ。これ以上、なにか出てくるわけがない」
窓から見えるのは、ただ深い森ばかり。小屋を飲み込まんばかりの緑が、高く生い茂っていた。
「そのようだな。とんだ無駄足だ」
そう言うと、サリエルはミカエルを残して小屋を出る。ミカエルもそれに続いて外に出ると、サリエルがランプの灯を消して言った。
「確認しないのか?」
ミカエルは、サリエルの言わんとすることが分からずにサリエルを見つめ返す。するとサリエルが、持ってきたランプを鞍の横にかけて続けた。
「私が何か、持ち出してるかもしれないだろう?動かしたり、壊したりしてるかもしれない。……いいのか?」
サリエルの右目が、ミカエルの青い瞳を見返す。ミカエルはそれに口元だけを緩ませて応えると、サリエルの馬に視線を投げて言った。
「そんなことをしないのは分かっている。…それよりも、今度から事件関連の場所に入る場合は、必ず許可を取るようにしてくれ。間違いが起こることも、下の者に示しがつかなくなることも、望んではいまい」
「そうだな、すまなかった」
答えながらも、サリエルはさっさと自分の馬に跨っている。ミカエルは馬上のサリエルを見上げると、ここまでやってきた道へと視線を向けて言った。
「特にこの辺りは霧が深くなってくると、道が見え辛くなる。気をつけて帰れ」
「分かった。じゃあ私は先に失礼する」
「あぁ」
ミカエルの返事を聞くや、サリエルは馬を走らせて去る。そして、再び訪れる静寂。
残されたミカエルは、サリエルの姿が見えなくなったことを確認すると、マントの下から新しい鍵を取り出した。
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「つまらぬ」
ベルゼビュートは吐き捨てるように呟くと、渡された紙の束を目の前に投げ捨てた。十数枚はあるかと思われる紙は、ベルゼビュートの手を離れた瞬間に分離し、白い羽のように空を舞っている。
「お気に召されませんでしたか、閣下」
羽の向こう側にいたのはルシフェル。彼は、彼より数段高い位置に座っているベルゼビュートの前に立っている。機嫌が悪いベルゼビュートを前にしても、その微笑は変わらなかった。
「ですが、宮殿にあがり閣下に謁見するためには、それ相応の儀式を通過しなければならないのが魔界のしきたりでございます。ましてやアスカロトのような特殊な者となれば尚更、正式な手続きを踏んだ方が後々のためかと存じます」
ルシフェルの言葉の間にも、ベルゼビュートの側仕えが床に散らばった紙を拾い集める。ベルゼビュートは立ち上がると、階段を下り、ルシフェルの隣に並んだ。
ルシフェルも、背は高い方である。しかし、ベルゼビュートはそんな彼よりもさらに背が高い。胸板の厚さをとっても肩幅をとっても、ルシフェルよりも一回り大きく、力強い印象を与えた。
「そういえば、ネルガルのところに賊が入ったらしいな。……そういうことか」
「はい、閣下」
集められた紙の束を受け取りながら、ルシフェルが肯く。紙には、アスカロトを初めとする数人の堕天使、そして新たに宮殿にあがる年齢に達した悪魔たちの名前が書かれていた。
「たかが堕天使一人のために、いらぬ混乱が起こるのは望ましくありません。また、もしもアスカロトがたかが…とは遠い堕天使であるのなら、下手な外野に立ち入られるのも目障りではございませぬか?」
ベルゼビュートはルシフェルの話に耳を傾けながら、指で顎をなでる。すると、ルシフェルの穏やかな声が、静かな部屋の中に響いた。
「披露目式を執り行う許可を、いただきとうございます。閣下」
長い沈黙が訪れる。ベルゼビュートは何を考えているのか、承諾も拒絶もしないまま顎をなでていた。
ただの退屈しのぎで終わるのか、それともアスカロトがそれ以上の存在になり得るのか、それによって正しい選択は変わる。かといって、堅苦しい儀式など、面倒くさい以外の何ものでもない。果たしてアスカロトがどのようなものなのか、ベルゼビュートはしばらく無言で考えていたが、ふと眉を上げると、自らの指につけられたピジョンブラッドの指輪を見て呟いた。
「そうだ…」
重そうな赤い宝石のつけられた金の指輪。そういえば、そんな者が居たではないか。分からないならば、分かっているものに聞けばいい。
ベルゼビュートは口端をあげて微笑むと、柔らかく甘い声で言った。
「……ネルガルを呼べ」
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