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 「お帰りなさいませ、ネルガル様」
 マリーは帰宅したネルガルを出迎えると、脱いだコートを受け取り、傍に居たメイドに渡した。
「あれは、どうしている?」
 最近、ネルガルは帰宅直後にこう聞いてくる。もちろん「あれ」とはアスカロトのことであり、それはマリーも承知していた。しかし、いつもは廊下を進みながら、数ある確認事項の中のひとつとして聞いてくるのだが、今日は違う。廊下を進もうともせず、マリーの目を見てネルガルは聞いてきた。
「はい、アンリ様が先ほどお帰りになられましたので、いまはご自分のお部屋で本を読んでらっしゃるかと」
「そうか…」
 アンリに勉強を教えてもらっている傍ら、アスカロトは読書のノルマも課せられていた。当然、課したのはネルガルだ。読んだ後には感想を書かせる。勉強の成果を知る上でも、アスカロトに欠けている知識を補う点でも、いいやり方だった。
「お呼びいたしましょうか?」
 それ以上言わないネルガルに、マリーが言う。すると、ネルガルは長く息を吐きながら返した。
「いや、いい。私が行こう」
 ゆっくりと歩き出したネルガルに、マリーがついて歩く。マリーが黙っていると、ネルガルがなんでもないことのように言った。
「アスカロトをベルゼビュート様に引き渡すことになった」
「えっ?」
 普段は冷静なマリーも、さすがにその一言には驚く。そして、小走りに駆け寄りネルガルの半歩後ろにつくと、深刻な声で聞いた。
「それは…いつ?」
「時期は、私に任せてくれると言っている。しかし、気の短いあの方のことだ、できるだけ早くであることは間違いないだろう」
 ネルガルの声が、低く響く。心なしか、二人とも声を潜めていた。
「そんな……」
 マリーは、まだ信じられない顔で廊下に視線を落とす。そして、アスカロトの部屋までまだ距離があることを確認した上で言った。
「そのことは、アスカロト様には…?」
「いや、あれには、時期が来たら私の口から言おう。知らない方が、お前も準備がしやすいだろうしな」
 確かに、ベルゼビュートに引き渡されると言われても、アスカロトにはそれがどういうことなのか理解できないだろう。それにもし、理解したとしても、所詮どうすることもできないことに変わりはない。だったらいっそ、直前まで知らない方がいいだろうと、ネルガルは思った。
「ですが、ネルガル様……」
 珍しく、マリーが納得のいかない顔でネルガルを見る。ネルガルがマリーから視線をそらすと、マリーは無礼を承知で言った。
「本当に、およろしいのですか?」
 瞬間、ネルガルの脳裏に人間界でマルコキアスに言われた一言が蘇る。それは、松平邸でのことだった。
「…それでも、何もしないというのか?お前さんは、それでもいいって言うのか?」
 思わず、ネルガルは鼻で笑ってしまう。なぜならそれは、答えの選択支の無い質問だからだ。「いいのか?」と聞かれても、そこに「よくない」という答えは存在しない。「いい」としか言えないのだ。
 ベルゼビュートが望む限り、全ては絶対であり、決定である。そのことを、ネルガルはとてもよく知っていた。
「無意味な質問だな」
 ネルガルはマリーにそうとだけ答えると、立ち止まるマリーを振り返ることなく、アスカロトの部屋へと消えた。






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 マルコキアス邸の中は夜の色に包まれていた。マルコキアスの趣味で、人間界のものと同じ色の光に満たされるこの屋敷では、夜には闇が訪れる。アンリは、玄関前広間の噴水の淵に腰掛けたまま、星の光までも忠実に再現された天井を見上げた。
 アスカロトにはああ言ったものの、ネルガルがアスカロトのことを大目に見たわけではないことなど、アンリにも分かっている。しかし、かといって他の理由など、思いつきもしなかった。
「どうした?こんなところで」
 背後からかけられた声に、驚いて立ち上がる。闇の中で、金色の瞳が一瞬キラリと光った。
「マルコキアス様…」
 現れたマルコキアスは、相変わらずの和服姿。懐手のままで、不思議そうにアンリを見つめた。
「草履の俺が近づいてるのに気付かないなんて、お前らしくないな。考え事でもしてたのか?」
 確かに、草履の足音はよく響く。アンリは自分でも、気付かなかったことに驚いた。。
「いえ、それが…」
 マルコキアスの言葉を否定しないまま、アンリは思わず目を伏せる。今日のアスカロトとの話もあったが、それ以外にもひとつ気になることがあったからだ。
「今日、ネルガル様のお屋敷からの帰りに、いやな噂話を耳にしたんです」
「いやな噂話?」
 マルコキアスは噴水の淵に腰を下ろして返す。手でアンリにも座るように指示すると、アンリが軽く会釈をした後に、再び腰を下ろした。
「それが…帰りに買い物に寄った店で、おそらく下級悪魔たちだと思うのですが、アスカロト様のことを話していたんです」
「本当か?」
 すでにある程度の上級悪魔の知るところとなっているアスカロトではあるが、表向きはまだ正式にその身分を明かされてはいない。その存在も、極秘のものだ。
 そもそも本来、堕天使であるアスカロトがいきなり宮廷で働くためには、一度は宮殿にあがり、貴族たちに挨拶を兼ねた御披露目式に出席しなければいけない。おそらく、アスカロトの持つ特殊性から、先延ばしになっているのだろうけど、その御披露目式もしないうちから下級悪魔にまで噂されるとは、一体どんなことなのか。
「はい。私も最初は何の話をしているのかと思ったのですが、元下級天使であるにもかかわらず、堕天後も羽が変わらないものがいると聞けば、アスカロト様以外には思い当たらないので…」
「そんなことまで話されていたのか?まぁ、上級悪魔なら知っていることではあるが、それにしても…う〜ん」
 マルコキアスも腕を組んだまま低く唸る。下級悪魔が店で平気に口にしているということは、既に多くの下級悪魔が知っているということだ。まさに、ルシフェルが避けたかった事態になってきたなとマルコキアスが思ったとき、アンリが険しい表情で言った。
「ただ、そこまでなら上級悪魔たちの話を盗み聞いた下級悪魔の噂話で終わると思ったのですが、その後にその者たちが気になることを言っていたんです」
 弾ける水の音を背に、マルコキアスの視線がアンリに向けられる。
「まさか…」
 マルコキアスの言葉に力強く肯くアンリ。艶やかな髪が一房、アンリの白い頬を撫でた。
「アスカロト様が元下級天使でありながら、ネルガル様の直属になったことも彼らには納得の行かないことらしく、同じ下級悪魔なら自分たちでも構わないはずだと不満げにもらしていました。そして、元下級天使なら、力もそれほど強くない筈だと…」
「下剋上か…」
 目を細めながら、マルコキアスの大きな右手が後頭部を掻く。これは困ったことになったなと、マルコキアスはため息をついた。
「しかし、アスカロトがネルガルの元に回されたのには訳がある。いくらこの魔界が下剋上を常識としていても、アスカロトをどうにかしたところでなんにもならねぇのにな…」
 その下級悪魔たちは、アスカロトを倒せば、自分がその座に座れると思っている。そもそも魔界のシステム自体がそういうもの。現在の上級悪魔たちの中にも、アスタロトのように親から爵位を継いだ血筋による上級悪魔もいれば、上級悪魔を倒して成り上がった元下級悪魔もいる。自分より強い者、自分より身分の高い者を倒し力を示すことが、自らの地位を築いていく術である点は、人間界のそれと変わりはなかった。
「ですが、アスカロト様の詳しい状況を知らなければ知らないほど、ルシフェルさまの今回の決定に不満が出るのも当然かと…。アスカロト様の能力などについては、全く語られてませんでしたし…」
 それはそうだろう。上級悪魔たちが知っているのは、あくまでも「元下級天使でありながら天使の羽を持ち続ける堕天使」であるアスカロト。清められた者に触れられることも、ネルガルに手をかけられてもなおその羽が変わらなかったことなどは、一部の限られた悪魔しか知らないことなのだ。
「アスカロトの真の特殊性は、それこそばれたら不味いからな…」
 再び腕を組み、マルコキアスが口を一文字に引く。アンリも、そのことの重大さは分かっていた。
「…だから…なのか?」
 ふと、マルコキアスが眉をひそめて呟く。アンリが首を傾げるも、マルコキアスは説明もしないままに、続けて言った。
「まさか…ネルガルは、それを承知で…?」






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 ミカエルは机の上に一枚の紙を滑らせると、黙ってそこに立ち続けた。
 天宮の資料室の中でも最奥にあたる部屋。天界の中でも選ばれた者しか入ることの許されないこの部屋で、サリエルは分厚い資料を開いていた。
 サリエルは突然視界に滑り込んできた紙に視線を落とし、無言でそれを読む。ミカエルはサリエルの沈黙を確認すると、サリエルの向かいの椅子を引いて、静かに腰掛けた。
「思ったとおり、断ってきたか」
 サリエルの呟きに、ミカエルも小さく肯く。書かれていたのは、魔界にいるルシフェルからの返答。聡の魂は、魔界の大公爵であるアスタロトのものであり、名義を変更しなければいけない理由など、どこにあろうか…という内容が丁寧に書かれていた。
「当然といえば、当然の反応だがな」
 ミカエルは冷静に言って、机の上で指を組む。サリエルはその紙を綺麗に三つ折にすると、自らの上着の胸ポケットに忍ばせた。
「ところで…」
 調べていた部分に栞を挟み、サリエルがミカエルを見る。今日初めて視線を合わせた二人は、しばらく無言でお互いを見ていた。
「本題は?」
 静かに切り出すサリエルを、ミカエルは表情の無い顔で見続ける。
「まさか、君がただのメッセンジャーなわけはないだろう?」
 姿勢正しく、微動だにしないミカエル。サリエルは目をそらさぬまま、聞き取れる限界といってもいいほどの小さな声で呟いた。
「口止めの念押しにでも来たのか?…意外だな」
「意外?」
 ミカエルの白い肌が動き、眉間に小さな皺が寄る。サリエルは資料を閉じて、脇に押しやった。
「そう、意外だ。君ほどの天使が、堕天した下級天使の秘密ひとつのために、わざわざ私の所に足を運ぶのも意外なら、その秘密が保たれているかを確認するために、再び私の元に訪れるのも意外だな」
 心の中を見透かすかのようなサリエルの瞳に、ミカエルがすっと視線を外す。軽く目を伏せると、ミカエルが言った。
「それは…これよりも以前に、ルシフェルから興味深いことを聞いたからだ」
「ほう…それは?」
「あれが、ネルガルの元にいるのは知っているな?」
 ミカエルの問いに、サリエルはゆっくりと肯く。ミカエルは組んでいる指に力を込めると、一度深呼吸をして続けた。
「あれは、ネルガルに何度汚されても、己を失わないそうだ。もちろん、羽も黒くなりはしない。堕天したというのに、殺さずの水を飲んだ者にも触れることが出来る。…これが、無視できる状況か?」
 サリエルの瞳は、ただじっとミカエルを見つめている。それは、ミカエルの話に聞き入っているというよりは、ミカエルの表情の動きを見落とすまいとしているようにも見えた。
 ミカエルはというと、言葉を切ったところでやっとサリエルに視線を戻す。金色の髪が一筋、ミカエルの青い瞳の上にハラリとかかった。
「しかし、羽が変わらないであろうことは、君も予測していた筈だ。何を今更…」
「だが、背中の印はすぐ悪魔のものに変わったではないか…っ」
 あくまでも冷静さを失わないサリエルに、ミカエルは少し苛立って声をあげる。サリエルは、普段見ることの無いミカエルの様子に、かすかな違和感を感じながらも聞いた。
「どういうことだ?」
「私は当初、あれの背中の印さえも、堕天したところで変わらないかもしれないと思っていた。しかし、堕天後あれの背中の印は、魔のそれに変わったという。元下級天使でありながら、悪魔の印から天使の羽を生やすなど…そんな予測、私はしていない」
 ごく稀に、堕天をしても印自体が変わらない天使もいる。無実の罪によって魔界に送られた天使にある現象だといわれるが、その原因は不明。しかも、その印も時間と共に悪魔のものに変わってしまう場合が殆どで、それを理由に天界に戻される例もあまりない。
「印が変わった以上、あれには罪があるということだ。あれのしたことは神の許されない行為だということだ。堕天に値するだけの罪を持ちながら、なぜその罪はあれの羽を変えない?」
 印は罪の証。ミカエルの言わんとすることに、サリエルは眉をひそめる。確かに、罪ゆえに与えられる印というものはあるだろう。それが、アスカロトの背中で変わった悪魔の印であり、他の悪魔達がもつ悪魔の黒い羽である。かつての美しい純白の羽が奪われるのは、その罪の所為。
「しかし…」
 思わずサリエルの口をついて出た反論の皮切り。ミカエルの口の動きが、一瞬止まった。
「印を持つこと…それ自体が…」
 それは長い間、サリエルの心の中でずっと渦巻いていた問題。考えても考えても、答えなど出なかった疑問。サリエルは、険しい表情で自分を見つめ返すミカエルに、真剣に問いかけた。
「印を持つことが罪…なのか?」






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 ネルガルはノックもせずにアスカロトの部屋に入る。アスカロトは読書に集中しているのか、ドアが開いたことにも気付かないようだった。
 ネルガルは足音を立てずに、そっとアスカロトの背後に近寄る。アスカロトはベッドの端に腰掛け、足の上に本を広げていた。
 うなだれたアスカロトの白い首が、髪の間から見える。そしてそれは、静かに揺れていた。
「…おい」
 ネルガルが声をかけても、振り向く様子は無い。ネルガルは心のどこかで、やっぱり…とため息をついた。
「おい」
 さっきよりは少し大きな声が室内に響く。張りのある澄んだ声に、アスカロトの身体が震えた。
 バサっという音と共に、アスカロトの膝の上の本が床に落ちる。アスカロトは何が起こったのか分からないという顔で、室内を見回した。
「…あ…」
 そして、背後に立っているネルガルに気付き、気まずそうな顔で立ち上がる。ネルガルが黙って視線を下げると、アスカロトは足元に落ちている本を慌てて拾った。
「あ…、おかえ…り…」
 怒られる。咄嗟にアスカロトはそう思った。しかし、居眠りの現場を押さえたにもかかわらず、ネルガルがアスカロトに言ったのは別の言葉だった。
「どうだ…?」
「……え?」
 苦い言葉が来ると思っていただけに、アスカロトは少し拍子抜けして顔をあげる。逆にネルガルはそのアスカロトの視線から逃れるように顔を背けると、アスカロトが手にしている本に視線を落とした。
「どうだ、少しは進んだのか?」
「え、あ…うん。アンリが手伝ってくれたから、今日はたくさん進んだと思う…けど」
 ネルガルの顔色を伺いながら、アスカロトはポツポツと語る。いつネルガルの表情が変わるのかと、常に警戒していた。
「そうか…」
 ネルガルもネルガルで、用件のはっきりしないまま、アスカロトの傍らに佇んでいる。そして、アスカロトの手から本を取ると、適当なところを広げ、指先でページをめくった。
「それなら丁度いい。明日から、勉強の量とペースをあげろ」
 突然の命令に、アスカロトは言葉も無く驚いていた。今でさえ、ネルガルに怒られないように必死にやっている。これ以上勉強の量を増やすなど、到底無理な注文だった。
「分からないことがあれば、マリーに聞いてもいい。アンリに来てもらう日を増やせるならそうすればいい。とにかく…」
「そんな…無理だよ」
 ネルガルの言葉を遮り、アスカロトが硬い表情で呟く。両の拳が、小さく握られた。
「なんだと?」
 ネルガルはメガネの奥の目を細めて、アスカロトを見下ろす。その紅い瞳を真正面から見返し、アスカロトは言った。
「いまだって、アンリに手伝ってもらわないとダメなのに、これ以上量を増やすなんて、無理だ。できるわけないだろ。俺は、アンリみたいに頭もよくないんだから」
 精一杯の主張。身体の脇の拳が、かすかに震える。ネルガルは、アスカロトの細い身体を見下ろし、小さく息をついた。
 アスカロトの言葉に、腹が立たなかったと言えば嘘になる。しかし、ここで腹を立てても、その意味がアスカロトには伝わらないことを、ネルガルはよく分かっていた。
「お前に拒否権は無い。私の命令に従う以外は無いと、前にも言ったはずだ」
 ネルガルはそれだけ言うと、持っていた本をアスカロトに返し、背を向ける。アスカロトは納得の行かない顔のまま、小さく俯いた。
 確かに、口答えをしたって叶わないことは分かってる。そして、その口答えをすること自体が、ネルガルの機嫌を損ねるということも。しかし、その一方でどうしても抑えられない反抗心。アスカロトは上目遣いでネルガルを見上げると、言い足りなかった想いをこめて、下唇をきゅっと噛んだ。
 その瞬間、二人の耳に届く大きな破裂音。思わずネルガルとアスカロトが同時に部屋の窓を見た。そう、聞こえたのは窓ガラスが割れる音。どこから?階下から?
 さらに聞こえてきたのは、女の叫び声。それに続いて、慌しく駆け回る者の足音も聞こえてきた。
「なんだよ、これ」
 今までにない騒ぎに、アスカロトが不安げな顔でネルガルを見る。ネルガルは手でアスカロトを制すると、部屋の扉に向かいながら言った。
「お前はここに居ろ」
「俺も行く!」
 アスカロトはベッドの上に本を投げ出し、ネルガルに続こうとする。しかし、それを軽く押し返すと、ネルガルが振り向いて言った。
「邪魔だ、ここに居ろ」
 紅い瞳なのに、アスカロトにはネルガルの瞳が冷たく自分を突き放しているように見えた。
 その間にも、ネルガルはアスカロトの返事も待たずに外へ出る。アスカロトはゆっくりと閉じた部屋の扉を、しばらくじっと眺めていた。






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