Night Birds
Shizuka Otohime
◆Chapter 2◆
−The Stigmata † 烙印−
何故かと彼は自分に問うた
何故かと彼は自分に問うた
印の意味を自分に問うた
罪の意味を自分に問うた
幾度も幾度も自分に問うた
自分に問うた 印は罪かと
†††††††
彼は机に向かい、ペンを走らせていた。
淡い栗色の髪が、部屋に入り込む光できらめく。広い部屋の中には、山積みになった書物や紙の束。それをひとつひとつ手にとっては、彼は丁寧に目を通していた。
透ける様な白い肌、そして金髪とはいかないまでも、淡い栗色の髪。襟足にわずかにかかる程度の長さを持つその髪は、美しさよりも動きやすさを重視しているようにも見える。
彼は、どこから見ても見紛うことの無い天使だった。
ただ、一点を除いては。
真ん中で分けられた前髪は左右の頬にかかっている。その片方。彼の左側の前髪だけが、若干重そうに頬に垂れ込めていた。まるで何かを隠すように。
コンコン
そのとき、ノックの音に彼は顔をあげた。瞬間、彼の左側の頬に巻かれた布が見える。そう、彼の左目は、布に覆われ隠されていた。
どこから見ても天界の存在であることを感じさせる彼の、その左目にかかる布だけが見る者にどこか違和感を覚えさせた。
「どうぞ」
少々高めの柔らかいトーンで彼がそう言うと、重々しい木の扉が開き、真っ白い布に覆われた足が部屋の中に入ってきた。
部屋に入ってきたのはミカエル。まばゆいばかりの金髪が、彼の歩調に合わせて優雅に揺れた。
「サリエル。少し、いいか…?」
サリエルと呼ばれた彼は、顔を上げミカエルを見たまま無言でゆっくり肯くと、今まで持っていた羽ペンを傍らに置いた。
「先日、殺さずの水を飲んだ者が出たと聞いたが、それは本当か?」
真っ白い軍服に身を包んだミカエルは、サリエルの正面に立って彼を見下ろす。サリエルは、しばらくミカエルを見つめていたが、椅子を引いて立ち上がると、ミカエルに視線の高さを合わせて答えた。
「あぁ、本当だ」
それだけを告げ、余計な言葉は足さない。ミカエルは、そんなサリエルに対し、表情ひとつ変えずに続けた。
「その者の双子の片割れは、逆に半魔になったと聞いたが?」
すると、サリエルはこれにも静かに返した。
「あぁ、本当だ」
そして、それ以上は言わない。窓の外からは、鳥のさえずりがかすかに聞こえてきた。
ミカエルはサリエルの手元に視線を落とすと、小さく息をつく。サリエルはそんなミカエルを、隠されていない右の目でじっと見つめ、前フリもなしに言った。
「魔界から、連絡があったと聞いたが…」
ミカエルは、それに視線をあげて応える。表情には何の変化も見て取れなかった。
「例の、アスカロトの話か…?」
サリエルのエメラルド色の右目が、ミカエルを見る。ミカエルは、アスカロトに堕天を宣告した当の本人であるサリエルを、冷ややかとも感じられる目で見返した。
「サリエル…半魔になった方というのは、あれの血を飲んだと聞いたが、本当か?」
やや顎を引いて口を開いたミカエルに、今度はサリエルが無言で肯く。禁を犯した天使を罰するのも、天界に運ばれてくる魂を管理するのもサリエルの役目。そのため、彼は陰で“死の天使”と呼ばれていた。
「現地に向かった天使の話では、あれは殺さずの水を飲んだ者にも平気で触れていたらしい」
「そうか…それは、驚いただろうな」
サリエルの報告に、ミカエルはやっと頬を緩ませる。するとサリエルは、そんなミカエルに皮肉な笑みを浮かべて返した。
「どっちが?」
ミカエルは、一瞬目を細めて無言の疑問符を投げる。サリエルはその反応を待っていたかのように続けた。
「驚いたのは、その現場に居合わせた悪魔どもか?それとも、……あれ自身……か?」
一瞬の、静寂。
すっと寄せられたミカエルの眉。その意を理解したかのように、サリエルはミカエルに背を向けると、無言で立ち尽くすミカエルに言った。
「大丈夫だろう。あれの血を飲んだところで、あれになるわけではない。半魔になったとはいえ、あれには遠く及ばないだろう。それより…」
「魔界には、何も言わないでくれ」
サリエルの言葉を遮っての、ミカエルの言葉。サリエルは、いつも冷静なミカエルのその行動に少し驚いたものの、少し離れた所から振り返って返した。
「もとより、そのつもりだ」
ミカエルは、ゆっくりと瞬きをひとつする。サリエルは再びミカエルに背を向けると、本棚の上にあった資料に手を伸ばしながら、言った。
「それにしても皮肉な話だな」
「なにがだ…?」
腰の剣を揺らして、ミカエルがサリエルの元に歩み寄る。サリエルは取り出した本を開くと、本に視線を落としたままに言った。
「あれのことを一番分かっていないのが、おそらくあれ自身ではないのか…?一番、知りたいであろうに…」
†††††††
「触れた?」
アスタロトはマルコキアスの話に、珍しく大きな声で返した。綺麗に彩られた爪で掴まれているのは、見事に色づいた紅葉の枝一本。それをエマニュエルに手渡すと、アスタロトは自分の隣に立っているマルコキアスに言った。
「それは、不思議な話だな」
マルコキアスは、窓辺に立ったアスタロトのなめらかな肌を見下ろしながら、時折、視線を窓の外に投げる。
「そうだろ?俺も驚いた。ネルガルも驚いていたところを見ると、あいつにも思い当たる理由が無いらしい」
「羽が変わらず、清められた者にも触れることが出来る。あれは、本当に堕天をしているのか?」
窓の外には深紫の闇。アスタロトはその闇の中に浮かぶオーロラのような帯を、宝石にも負けぬ輝きを持つ瞳で見上げた。
「さぁ、どうだろうな…。話してみると、ただの気の強い子供なんだが…」
マルコキアスが小さなため息の後に漏らす。アスタロトはそのマルコキアスの反応に、整った目を三日月形に細めた。
「めずらしいな、お前が…そんなことを言うのは…」
「そんなこと?」
マルコキアスは腕を組んで、アスタロトを見返す。人間界そのままの和服に、アスタロトが眉を寄せた。
「…帰ってきたときくらい、ちゃんとした服を着ないのか?」
マルコキアスの質問などなかったかのように、アスタロトはそっけなく返す。マルコキアスはそんなアスタロトに、声も無く笑いながら言った。
「お前が望むなら、毎日正装でも構わないぞ」
「ふざけるな、鬱陶しい」
マルコキアスの本意など、全く興味が無いかのように、アスタロトは一蹴する。興味が無いというよりも、マルコキアスの口から出てくるのは冗談ばかりなのだと、アスタロトは思っていた。それが、本気だということも知らずに…。
物心つくよりも先に出会ってしまった幼馴染故の、小さな思い違いだった。
「お前は変わらないな〜」
情けも容赦もないアスタロトの返事に、マルコキアスは八重歯を出してカラカラと笑う。アスタロトは笑われていることを侮辱と感じたのか、少しムッとして言った。
「なら、お前は変わったのか?私には、とてもそうは見えないが」
その反応にも、マルコキアスは笑ってしまう。アスタロトは益々ムッとして、小さく呟いた。
「やめろ、鬱陶しい」
†††††††
アスカロトは、机の上に広げられた紙の上に、ペンを走らせていた。向かいに座っているアンリを見るでもなく、かといって紙の上を見るでもない。足をだらしなくブラブラと揺らしながら、下唇を突き出し、紙の上に意味の無いラクガキをしていた。
アンリは本を読みながら、時折視線をあげて、そんなアスカロトを見つめる。しかし、そのアンリの視線にも気付くことなく、アスカロトは意識をどこかに飛ばしていた。
ネルガルに頼まれて、アンリがアスカロトに勉強を教えることになったのは、人間界から帰って間もなくのこと。どうしてそういう決断に至ったのかは分からなかったが、アスカロトが思いのほか喜んでくれたことが、アンリは嬉しかった。
そして今日も勉強会である。勉強に対する熱心さや集中力はさておき、アスカロトはアンリに会うことが待ち遠しくてたまらないらしく、いつも自らアンリを迎えに出た。
しかし、今日のアスカロトはちょっと様子が違う。そのことを聞くべきか否かと、アンリは迷っていた。
「……なぁ、アンリ」
アンリが切り出すよりも先に、アスカロトが窓の外に視線を投げたまま口を開く。アンリは改めてアスカロトを見ると、背筋を伸ばして答えた。
「はい、なんでしょうアスカロト様」
いつも通りの落ち着いた返事。アスカロトは自分の座っている椅子の上に片足を乗せ、その上に自分の白い腕を乗せた。手の先には、ペンを握ったままで。
「魔界の人間が、清められたものに触れ、魔界の薬を使わずにいると……死ぬって本当か?」
ネルガルかマリーか、あるいは屋敷の誰かに聞いたのか、それはアンリがまだアスカロトに教えていなかった魔界の常識。
「この間、アンリが聡…いや、本当は明だけど…その、殺さずの水で寝ていた方に触った時に火傷したよな」
「はい」
確認するように、アンリを見つめるアスカロト。アンリはアスカロトの視線を正面から受け止めた。
「もしも、マルコキアスが薬を持っていなかったら、アンリも死んでたってことなのか?」
椅子から足を下ろし、真剣な瞳でアンリを見るアスカロト。アンリは開いていた本を閉じ、机の上に置いた。
「イエスかノーかで答えろと言われれば、イエス……とお答えすることになります。なぜなら、我々闇の者が聖なるものに触れたとき、接触部分が朽ち始め、それは魔界の薬を使うまで続くからです」
アスカロトはその時、ふと眉を寄せて瞳を翳らせた。それが、アンリを傷つけてしまったからか、はたまた自らは全く傷つくことがなかったためかは、分からなかったけれど。
「しかし、あくまでも怪我は怪我ですから、小さなものであればそれが全身に及ぶまでには相当の時間を要しますし、ものによっては自然に治癒する場合もあります。それに、薬はそんなに希少なものではありませんし、魔界であればすぐに用意できるものです。よって、アスカロトさまのおっしゃる通りではありますが、実際にそのことで死……我々にしてみれば消滅ですが、そこまでに至ったという例は少ないのではないでしょうか」
静かに話を聞いていたアスカロトは、小さく肯くと再び自分の手元に視線を落とし、ため息をつく。アンリはその様子が気になり、小首を傾げて言った。
「そのことで、なにか気になることでもおありですか?」
机の上に置かれたアンリの手は、確かに傷跡も残らずに完治している。処置が早かった所為もあるが、薬もいいものを使っているのだろう。アスカロトは、アンリの手を見つめ、下唇を噛んだ。
「だって……」
そこまで呟いて、アスカロトは視線を落ち着きなく彷徨わせる。アンリは敢えて言葉を挟まずに、アスカロトが自ら続けるのを待った。
「アキラは…きっと、知らないだろ?」
アキラというのは、おそらく本物の聡のこと。アスカロトは魔界に帰ってきてから、一度も彼のことを口に出さなかった。
「俺も知らなかったもの、そんな怪我をすることも、薬があるなんてことも……。アキラだって、きっと知らないはずだから……」
ふてくされたような、それでいて泣きそうな顔を覗かせながら、アスカロトが机の上で両手の指を絡ませる。アンリは、アスカロトの言わんとすることが、分かったような気がした。
「アキラは怪我してたし、それに、俺が……手を放してしまったから……」
アスカロトは、未だに自責の念に捕らわれていたのだ。アキラを、あんな形で失ったことに…。
救おうと…していたのだろうか?と、アンリは困惑しているアスカロトの姿を見ながら、思っていた。魂の回収に向かう以上、必ず死と対面しなければならない存在であるにもかかわらず、アスカロトはあのときのアキラを救おうとしたのだろうか?でなければ、こんな後悔は生まれないはず。
「アスカロト様…?」
「え?」
アンリの問いかけに、アスカロトが顔をあげる。アンリはそのまっすぐな瞳を見返すと、その真意を読み取ろうとしながら言った。
「アキラは……、アスカロト様がいたから、あの場で死なずに済んだんですよ」
アスカロトは意味が分からないという目で、アンリを見返す。アンリは、それを承知で続けた。
「本当なら、アキラの命は窓から飛び出したあの直後に絶える筈だったのです。そして、その魂を回収し魔界に戻ることが、本来の目的でした。しかし、それをアスカロト様が助けたために、アキラの命は続くとも絶えるとも分からない不安定なまま、行方知れずになってしまったのです。確かに、どこに隠れているとしても、アスカロト様がおっしゃるように、傷も深く、魔界の薬も分からない状態ですから、近い将来どこかで息絶えることになると思います。が、なんにせよ、アキラの命の火が消えることに対して、アスカロト様が責任を感じる必要は、全くないのですよ……」
アスカロトの瞳は、ただ揺れていた。とまどいなのか、それともまだ理解できていないのか。アメジストのような紫色の瞳は、アンリの目の前で、ただゆらゆらと揺れていた。
「責…任……?」
自問のような口調で、アスカロトは呟き、うつむく。アンリは、アスカロトの真意を読めないまま、さらに続けた。
「魂の回収に行くということは、誰かの死に立ち会うということです。むしろ、死に立ち会えないということは、任務を遂行できなかったということになるのです。ですから……」
「じゃあ…」
アスカロトは、アンリの言葉を遮って顔をあげる。
「なんでネルガルは、なにも言わないんだ?」
さっきまでの不安定な影が消えたアスカロトの瞳。それは、アスカロトの中の疑問の方向が変わったことを示している。かすかに恐怖の色を帯びたアスカロトの表情に、アンリが視線を落とした。
「邪魔したんだったら、俺のこと怒るはずなのに、何も言わねぇし。それに…アイツが本気出したら、あの時に俺を止めることだってできた筈なのに。どうして、なにも言われないんだ?」
それは、アンリにとっても意外な事実だった。おそらくアキラの魂は回収される筈だったもの。そして、アスカロトの行動によってその任務が遂行されなかった以上、ネルガルが何かしらの責任を取らされている筈だ。だから、ネルガルもアスカロトに対してなんらかの罰を与えていると思っていたのに。
「それは、アスカロト様にとっても最初の任務でしたし、ネルガル様も、大目に見たのではないでしょうか」
「アイツが?」
アスカロトが、そんなことはありえないという表情でアンリを見る。アンリも内心ではそう思ったが、それを顔に出しはしなかった。仕事には誰よりも厳しいネルガルだ。大目に見たのではなく、なにかあるのだろうとアンリは思った。
「まさかアイツが、そんなこと……」
アスカロトは、あまりにも予想外のアンリの意見に、困ったように笑ってみせる。アンリがその間も、裏にあるなにかについて考えていると、そのアンリの反応をどう取ったのか、アスカロトは顔に困惑の色を浮かべながら、自問のように呟いた。
「そんな、まさか……な」
†††††††
「天界のサリエルから、清められた方の…いまは…聡か、その魂をアスタロトの名義から変更してはどうかという話が来たぞ」
ルシフェルは、いつもの微笑を絶やさないまま、自らの向かいに立つネルガルに告げた。
ネルガルはといえば、眉ひとつ動かさずにルシフェルを見返すと、至極冷静に返した。
「確かに、聡の魂は清められ、アキラの魂は行方不明になっています。しかし、それとこれとは別問題。アスタロト様と契約した時点で、二人の魂は魔界名義になっているはずです。天界はただ単に、清められて価値の上がった聡の魂が欲しいだけでは?」
「まぁ、そうだろうな。しかし、天界はアキラの契約が成立していなかったことに関しても、言及してくるだろう。サリエルは、取引や駆け引きには応じんぞ」
ルシフェルは、やはりいつもの微笑を崩さない。それはまるで、事態が混乱してきたことを楽しんでいるかのようにも見えた。
「そうなれば、奪ってでも回収するまでです。サリエルが取引に応じないというのなら、こちらもそのつもりで臨むしかありますまい」
ネルガルの冷静さの影から顔を覗かせる、苛立ち。普段のネルガルだったら、おそらく事態を静観する方向で意見を述べていたに違いない。しかし、今日のネルガルはいつも以上の冷たさを、その紅い瞳に湛えている。と同時に、それを打ち消すだけの熱さを内側に秘めているようにも見えた。
「そうか……まぁ、ベルゼビュート様は、この件に関しては一切を不問にふすとおっしゃっている。魂の回収ミスに関しても、特になにも言っておられなかった」
ネルガルは、黙ってルシフェルの話を聞いている。眼鏡の奥の紅い瞳が、一度ゆっくりと閉じられた。
「ただし……」
そこで、初めてネルガルの眉がピクリと動く。
「例の件を、早急に…とのことでな」
それ以上は、なんの説明もいらなかった。例の件とは、アスカロトをベルゼビュートに差し出す話以外の何ものでもない。要は、混乱している事態よりも、アスカロトの方にベルゼビュートの興味の矛先が向いているだけなのだ。そのことを承知しているネルガルは、少しだけ視線を下に落としながら、閉じた口唇をキュっと横に引いた。
「時期はお前に任せよう。ただし、できる限り早急に…。分かったな」
胸の前で指を組んだルシフェルが、両の口端を上げて微笑む。ネルガルは視線を動かさぬままに、はっきりと答えた。
「………御意」
†††††††