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乱れた服を直そうともしないまま、アスカロトは松平邸の廊下をフラフラと歩いていた。
「やめっ・・・・・んっ・・・・」
抵抗の言葉など、なんの意味も持たない。組み伏せられ、ねじ伏せられ、屈服させられることは決まっていた。
「あっっ・・・・・んっ・・・」
激しい雨の音に負けないほどの自分の声。忘れたいのに、もう目の前にネルガルはいないのに、頭の中にこびりついては、蘇る自分の姿。
細い喉から押し出される途切れがちの声。この声がネルガルを一層喜ばせるのなら、いっそのこと、この喉を切ってもいいとさえ思う。それくらい、どうしても漏れてしまう切ない声が、自分を責め立てた。
嫌なのに。嫌でたまらないのに、逃れることの出来ない現実。どうすれば、あの忌まわしい行為から逃れることが出来るのかと、アスカロトは胸の奥で思った。
カタッ
アスカロトはどこへ向かおうとしていたわけでもないに、気がつくと聡の部屋の前に来ていた。壁にもたれて息をつき、扉を押す。
「いえ、その水は、我々闇のものには触ることはできません。それは、私もご主人様も一緒です。そして、清められた身体も、私たちには触れられなくなります。触れると、先ほどのようなことに・・・・」
アンリの言葉に嘘は無い筈だ。となると、堕天をしたのに触ることが出来た自分はなんなのだろう。
分からないことが多すぎて、混乱が混乱を呼ぶ。アスカロトはヨロヨロと聡の眠るベッドの脇に歩み寄ると、相変わらず寝たきりの聡の寝顔を、じっと見下ろした。
「どうして・・・俺・・・」
平気なのかな?・・・と続く言葉を飲み込む。聡の腕を掴んでも、やはり何も起こらなかった。掴んだ手を開いて確認したが、怪我ひとつ無い手の平がそこにあるだけ。
聡が目覚めて話すこと出来れば、どうしてマルコキアスが聡を眠らせたのかも分かるのに。そもそもマルコキアスは、この事件を解決する手伝いをしてくれてるんじゃないのか?なのに、事情を話してくれる訳でもない。それともこれも、魔界の常識?
もしも聡を目覚めさせる水があるとしても、教えてもらわなければアスカロトには分からない。さっき聞いたけど、ネルガルは結局教えてくれなかった。なら、どうすればいい?
疲れて霞がかかった頭で必死に考える。自分のためにアンリが怪我までしたのだ。早く解決しなければ・・・と思った。
「・・・・・・・・・あ」
ふと、頭をよぎる記憶。あれは、明と話そうとした時に・・・。
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カタンという音と共に、雨に濡れたマルコキアスが部屋に入ってくる。アンリは顔を上げると、微笑んで言った。
「おかえりなさいませ。お迎えに出られずに、申し訳ありません」
「いや、それよりどうかしたのか?お前が怪我なんて珍しいな」
ただれた手の平に薬を塗っているアンリに、濡れた髪を拭きながらマルコキアスが問いかける。アンリは恥ずかしそうに苦笑すると、痛む手の平を見下ろして答えた。
「はい、少し油断して、聡に触ってしまいました。マルコキアス様、アスタロト様の双子をお使いになりましたね?」
すると、マルコキアスはアンリの向かいに腰を下ろし、畳の上に正座をするアンリを見返して意味ありげに微笑む。アンリは手の平の消毒を終えると、傍らに置いておいた布を掴み、手の平を隠すように巻こうとした。
「アイツには、そのことを言ったのか?」
片手で不自由そうなアンリから布を奪い、マルコキアスが治療の先を続ける。
「あ、大丈夫です。自分で、出来ますから」
「いいから。二人いるんだから、やりやすい方がやればいいだろ?いちいち気にすんな」
恐縮するアンリにも、マルコキアスは即答で返す。本当にこの主人は、他の上級悪魔とは違うなとアンリは苦笑しながらに思う。偉ぶらないと言うか、型破りと言うか。しかし、こういう主人だからこそ、自分の身分を勘違いしないようにと、アンリは常に心がけていた。
「で、言ったのか?」
「アスカロト様にですか?」
「あぁ」
自らの主人に手を取られ、傷口を覆うように布を結ばれていく。アンリは楽しそうに作業を進めるマルコキアスを見つめながら、冷静に返した。
「はい。アスカロト様も、マルコキアス様が何かをなさったということまでは存じてらっしゃいましたので、『殺さずの水』の話まではしてしまいましたが、いけませんでしたでしょうか?」
するとマルコキアス、こんな結び方やあんな結び方と、何度も結んでは解き・・・を繰り返しながら、楽しそうに言った。
「いや、いいんじゃないか?いくらなんでもアイツ一人の力で答えにたどり着けるとは思わないし、お前ならアイツも話しやすいと思うしな。ネルガルも 不器用なのかなんなのか、アスカロトにはどうも変な期待をしてるみたいだし」
「期待・・・ですか?」
不思議な単語を耳が拾い、アンリが目を大きく開いてマルコキアスを見る。では、期待をしている部下を、ベルゼビュートに何の抵抗も無く差し出すというのだろうか?確かに、権力者ベルゼビュートに逆らえる者など、そうそうはいない。しかし、真っ向から対立しないまでも、上手い立ち回り方はあるだろうにと、アンリは思った。
「まぁ、俺がそう言ったことは、お前の胸にとどめておいてくれ。多分、ネルガル自身も気がついてないだろうからな」
「あの、マルコキアス様」
「ん?」
楽しそうに緩ませた口端から八重歯を覗かせて、マルコキアスがアンリを見る。アンリは聞いていいものかどうか一瞬ためらった後に、それでもやはり口を開いた。
「ネルガル様は、アスカロト様をどうなさるおつもりなんでしょうか?」
「どう・・・って?」
アンリの緊張した顔。マルコキアスは、それでも涼しい顔でアンリの手に布を巻いている。
「アスカロト様をベルゼビュート様に差し出すということは、つまり、その・・・」
「陵辱されることを承知で・・・ってことか?」
「はい。しかも、それだけで済めばいいですが、もしも万が一のことがあったら・・・」
自分一人の気分で誰をどうしようと構わないと思っているベルゼビュートのこと、アスカロトが気に障るようなことでもすれば、殺された方がマシだと思えるような目に合わせるかも知れない。それでもいいと、ネルガルは思っているのだろうか。
「アンリ」
「はい」
急に真面目な顔になるマルコキアス。アンリは嫌な想像をしかけて、微かに眉を寄せた。
「お前はどう思う?アスカロトのことを」
「私・・・ですか?」
質問に質問で返され、アンリが首を傾げる。
「そうですね・・・悪魔らしくないと思いますが、かといって天使らしいとも・・・。まだ、よく分かりません。あんな方は、初めてなので」
アンリの言葉が終わると同時に、マルコキアスが散々悩んでいた結び方に決着をつけ、膝をポンと叩く。
「ありがとうございます」
なんだか複雑に結ばれている手を見て、アンリが頭を下げる。するとマルコキアスがあぐらをかいた膝に肘を乗せて、ため息をついた。
「俺にもわからん」
「え?」
「俺にも、アイツはよく分からない。それが良いことなのか、悪いことなのかもな・・・。ましてや、ネルガルがなにを考えているかなんて、分かりようもないな」
やはり我が主人にしても分からないのかと、アンリも小さく肯く。そして、自分の手に巻かれた布を見ると、目を丸くして言った。
「ところでマルコキアス様、やっていただいて申し訳ないのですが、これはちゃんと解けるんですよね?一人では取り替えられない程、複雑に見えるのですが・・・」
すると大きくアクビをしたマルコキアスが、意地悪な笑顔と共に返した。
「だって〜、お前が俺のこと虎狼丸って呼んでくれないんだも〜ん」
「マルコキアス様・・・・」
たったそれだけのことで?とアンリが苦笑で返す。しかし、いつもの執事の顔に戻ると、アンリがピシャリと言った。
「耳が出てますよ」
瞬間、立派な狼の耳を、マルコキアスが両手で隠した。
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静かに揺れるランプの明かり。ネルガルは窓辺に立つと、夜空から降ってくる幾筋もの雨を眺めていた。庭の木々に当たる水の音、水溜りで弾ける水の形。一瞬で消えていく自然界のものの姿に、ネルガルは過ぎ去った過去のなにかを見ていた。
その時、ふと背後に感じる視線。振り返るとそこには、部屋の大きな鏡があった。
ネルガルはじっとその鏡を見つめる。一見したところ何の変哲もないただの鏡である。しかし、そこにあるモノに、ネルガルは最初から気付いていた。
「随分と、いい趣味だな。立ち聞きだけでは飽き足らず、覗きもするのか?」
低い声で冷静に語る。すると、次の瞬間、鏡の額がカタリと動き、扉のように開いた。
「なんだ、いつ気付いたの?」
中から出てきたのは、浴衣姿の明。全く悪びれる様子もなく、その顔には微笑をたたえている。
「でもまぁ、気付いていたとしてもおかしくないか、悪魔だもんね」
素足のままネルガルに近づき、誘うように見上げる。ネルガルが無言のままで視線を窓の外に投げると、明が踵を返してベッドに腰掛けた。
「それにしても、いつもアスカロトにあんなことしてるの?可哀相に、好きでもない相手にねじ伏せられて・・・くちづけをしないのは、君の最後の良心?」
明の独白には耳を貸さないとばかりに、ネルガルは窓の外を見続ける。雨は弱まることなく降り続けていた。
「いいじゃない、ここには僕がいるんだから。君だって、楽しめる相手の方がいいだろ?それとも、嫌がるフリをした方が、燃える?」
「まだ懲りないのか・・・?」
あまりにも開けっぴろげに誘ってくる明に、ネルガルが眉を寄せて振り返る。すると明は、やっと自分を見たネルガルに、妖しげな笑みを見せて言った。
「どうせ僕はもうじき死ぬんだろ?だったら、身体がどうなろうと大したことじゃない。できるだけ楽しんでおかないと、損だと思わないかい?」
明が本当に自分の死を恐れていないことは、ネルガルにはよく分かっていた。それほど、聡のことを思っているということも。兄弟という絆を越えた想いを、明が聡に対して抱いているということも。
しかし、そこにひとつの誤算があるということを、明は分かっていない。ネルガルは冷えた瞳で腕を組むと、ため息で返した。
「ねぇ、脱いでよ。アスカロトの前では脱がないんだろ?」
急に何を言い出すのかと、ネルガルがベッドの上の明を見る。明は、ベッドの上で脚を組み、上目遣いでネルガルを見返した。
「アスカロトには内緒なの?見られると、弱みを握られることになるの?君の身体にあるその・・・」
ネルガルが歩み寄り、大きな手で明の口を塞ぐ。
「回数を重ねるほど、死に近づくってことを、分かって言ってるんだろうな?」
明はネルガルの紅い瞳を見上げると、その目を三日月形に歪めてニッと笑う。そして何も答えないまま、ネルガルの手の平に柔らかい舌を這わせた。
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アスカロトは聡の顔を覗き込むと、覚悟を決めるために大きく深呼吸をした。
そう、明と口唇を重ねた時に、明から流れ込んできた記憶。もしもそれが聡ともできるのなら、同じように口唇を重ねれば、聡の記憶をさぐることもできる筈。それが、なにかの手がかりになるのなら・・・。
目の前に横たわる聡の、健やかな寝顔。明の記憶が流れてきた時は、そのあまりの鮮明さに気持ちが悪くなるほどだった。人を殺す瞬間の生々しい殺意と手の平の感触。振り返った女の凄まじい形相。もしも、聡にも同じような記憶があったら?また同じように、自分が誰かを殺めたような気になるのか?誰かを殺めるだなんて、もう二度としたくはないのに。
嫌な想像と、頭をかすめた天界の記憶を打ち消すように、首を横に振る。
それでも、やらなければならないのだ。その先になにがあるとしても、アンリのあの痛々しい手の平の怪我に報いる術は、他にはない。
アンリは一言もアスカロトを責めなかった。もちろん立場の違いの所為もあるのだが、アスカロトは、そんな魔界の常識は知らない。アスカロトには、自分のために何かをしてくれたアンリの、優しさしか見えなかった。
アスカロトはもう一度大きく深呼吸をすると、目を閉じ、ゆっくりと自分の口唇を、動かない聡の口唇に近づけた。
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