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 布団の中で、マルコキアスのオオカミの耳がピクッと震える。それとほぼ同時に薄く開いた目は、うす闇の中で金色に光った。
 窓の外から聞こえて来る朝の鳥のさえずりに紛れて、耳に届く床の軋み。常人では気付かないようなその音に、マルコキアスの耳は鋭く反応した。
 昨晩マルコキアスは一人で秘密屋に戻ってきた。ネルガルとアスカロトの二人は松平邸に残っている。元々マルコキアスは、今回の調査に関わらなければいけない必要などどこにもない。面白い部分に首を突っ込めれば、別にどうなろうと知ったことではないのだ。
 キシ・・・キシ・・・
 近付く足音に、マルコキアスが息を潜める。ついで聞こえたスススッという障子の開けられる音。侵入者が畳を踏んだ瞬間に、マルコキアスは掛け布団を跳ね除け、侵入者を布団に引っ張り込んだ。
「いらっしゃ〜い!」
「わっ!ご・・・ご主人様!?」
 執事らしいスーツに身を包み、きっちりと蝶ネクタイを締めた侵入者。大きな犬の耳を暗い灰色の髪の間から覗かせ、黒めがちな大きな瞳を持つ少年。
 押し倒されたアンリは胸に荷物を抱えたまま、自分を組み付してくる自分の主人を見上げる。その驚いた丸い瞳に、マルコキアスが人差し指を揺らして舌打した。
「お前ね、常に言ってるだろう。魔界を離れてる時こそ、警戒心を解くなって」
 すると、アンリは布団の上に丁寧に正座をし、服の皺と背筋をピッと伸ばして言った。
「お言葉ですがマルコキアス様。安全確認は、ちゃんとこの耳と鼻でしております。唯一の誤算は、マルコキアス様のお戯れです」
「ここじゃ、虎狼丸って呼んでくれなきゃ返事しなーいもーーーん」
 アンリの目の前で胡座をかき、マルコキアスがそっぽを向く。するとこれにも、アンリがピシャリと返した。
「そういうことは、耳をお隠しになってからおっしゃった方がよろしいかと。ところで、ネルガル様はどちらに?」
 オオカミの耳をピルっと震わせてから、ばつが悪そうにマルコキアスが耳をしまう。寝間着の前から手を差し入れ、“虎狼丸”がポリポリと胸を掻いた。
「ネルガルは、松平邸に・・・ほわぁ・・・」
 言いながらもそれが欠伸に変る。アンリは胸にした荷物を持ち直すと、布団から静かに下りて主人に向き直った。
「実は、マリー様から伝言がございまして・・・」
「ネルガルのところのマリーか?どうしてまた、俺の執事のお前に伝言なんて・・・」
 大きな欠伸を終え、涙のにじんだ顔でマルコキアスがアンリを見る。アンリはいつもながら侯爵らしくない自分の主人を、それでも真剣に見返した。
「私なら、このようにいつもご主人様に会いに来ておりますから、怪しまれないと思われたのでしょう」
 アンリの口調に、徐々にマルコキアスの表情が変る。マルコキアスは立ち上がり、煙管に手を伸ばすとそれを指先で弄びながら戻ってくる。
 そして、ごく珠に見せる主人らしい顔になると、アンリをじっと見て言った。
「話してみろ」






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 「・・・という訳です」
 アンリはそこまで言うと、自分の目の前で静かに話を聞いていた相手を大きな瞳で見つめた。
 いつ見ても見事としか言い様のない、翳りのない金色の髪。それを揺らしてネルガルはアンリに向き直る。眼鏡の奥で輝く紅い瞳が、正面からアンリを見据えた。
「なるほど。ご苦労だったな」
 開けられた窓からは、爽やかな風が入り込みカーテンを揺らす。松平邸の庭の緑が、風でしばしざわめいた。
「マリー様は、ネルガル様のご指示を仰ぎたいとのことです。ご伝言があれば、私がマリー様にお届けいたします」
 緊張の面持ちながら、それでも品を損なわないアンリの姿に、ネルガルは、知らずアスカロトの姿を重ねる。年も、そう変らない筈だ。
「いかがなさいましょう?」
 ネルガルは、そのアスカロトの影をかき消すと、無表情のまま静かに返した。
「・・・・・なにもするな」
 ざわめく樹々の声。窓から吹き込み風が、勢い良くカーテンを跳ね上げる。ネルガルは立ち上がると、その大きな手でゆっくりと窓を閉めた。
「なにも・・・・するなと?そうお伝えするのですか?」
 アンリは、戸惑いの瞳でネルガルを見返す。
「そうだ。なにもしてはならぬ。そう伝えろ」
 風が止み、庭のざわめきも遠のく。締切られた空間の中で、ネルガルの低い声が、妙に近くに感じられた。
「ですが・・・・」
 言いかけ、アンリがハッと顔を強張らせる。ついいつもの調子で口を開いたものの、相手はマルコキアスではない。自分の主人でなくとも、階級が上の者に口答えなど許されない世界なのだ。それがましてや、相手は秘密警察長官。己の立場をわきまえない行動をしてしまったと、アンリが視線を下ろした。
「無礼をお許し下さい。ご伝言の方は、必ずお伝えいたします」
 ネルガルは、震える瞳で自分を見るアンリに怒る様子もなく、かといって表情を変えることもない。ただ静かに眼鏡を指先で押し上げると、部屋の入り口に視線を動かした。
「来たか・・・」
 ネルガルが言うが早いか、聞こえて来るノックの音。
「入れ」
 短くネルガルが返すと、重い扉が開いて、アスカロトが顔を覗かせた。
「・・・虎狼丸が・・・行けって・・・・」
「入れ」
 短い命令に、アスカロトが部屋の中を見回す。そこにアンリの姿を見つけると、アスカロトの目付きが変った。
 振り返るアンリ。アスカロトと目が合ったものの、アスカロトは瞬時に視線をアンリの耳に移す。ともすれば黒に見えがちな灰色の髪の上に乗っている二つの犬耳が、アスカロトにはどうしても気になるようだった。
「アスカロト、こちらはマルコキアス様の筆頭執事、アンリ君だ。お前と年が近いから、いろいろ学ぶ点もあるだろう。アンリ、これがアスカロトだ」
 ネルガルは傍らに立ったアスカロトをアンリに示す。アンリは立ち上がると、軽い会釈と共に微笑をたたえて言った。
「始めまして、アスカロト様。アンリと申します。お話はマルコキアス様から伺っております。御用の際には、なんなりとお申しつけ下さい」
 アスカロトは、アンリの優雅な挨拶をただ茫然と見ている。が、隣りでネルガルがため息をつくと、それに弾かれたように緊張の面持ちに変わった。
「あ・・・・はじめ・・まして・・・」
 視線の行き場にも困るのか、目を合わさないままに、ぎこちなくアスカロトが話す。アンリは、あまりにも予想と違うアスカロトの様子に、内心驚きつつも、二度目の会釈で返した。
 これがいま、魔界を騒がせている堕天使なのか?下級天使でありながら、変わらない羽を持ち、しかもその羽は、大天使と見まごう程の素晴らしいものだと聞いた。
 ネルガルに手をかけられてなお己を失うことが無く、それは回を重ねても変ることはないという。
 天使殺しの堕天使。
 本当に、この目の前の・・・暗い瞳の少年が?
 目の前には、怯えと好奇心を交互に浮かべながら、所在無気に立ち尽くす少年。
 アンリは微笑の影で、胸に浮かんだ疑問符から目を逸らすことができなかった。






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 アスカロトの部屋に通されたアンリは、なんとも言えない緊張感の中、小さく息をついた。
 目の前には身体を固くして座り続けるアスカロト、出された紅茶も既に冷え切っていた。
「・・・あの・・・」
 沈黙を破ろうと出した声が、妙に大きく響く。身体をピクリと震わせて顔を上げたアスカロトの目が、怯えているように見えた。
「ネルガル様にお手伝いを・・・と頼まれたのですが、私は何をすればよろしいのでしょうか?アスカロト様がご指示戴けるものと、お待ちしているのですが・・・」
「あ・・・」
 視線をさまよわせながら、アスカロトが膝の上で握りこぶしを作る。そのままやはり俯きがちになるアスカロトに、アンリは困ったな・・・と思った。
「あ・・あの・・・・。ごめん。俺もどうしていいのか、分からなくて・・・」
 とまどいがちに口を開き、そして上目遣いでアンリを見る。アンリは、あまりにも素直に謝るアスカロトに、しばし黙って見つめ返してしまった。
 マルコキアスがネルガルよりも身分の高い侯爵とはいえ、執事であるアンリはネルガルの部下となったアスカロトよりも下の存在にあたる。その目下の者に対していきなり自分の非を認めるとは、不思議なことをするなと思った。
「アスカロト様」
「あ?・・・うん!」
 呼びかければ、居住まいを正してこちらを見る。本当に、自分の身分というものを分かっていないらしい。
「僭越ながら、ご質問があればなんなりとお答えしますけれど・・・。なにか、捜査に行き詰まりでもございましたか?」
 この調子ではいつ魔界に帰れるとも知れないと、アンリが微笑と共に言う。するとアスカロトは不思議そうに目を丸くし、そして戸惑いがちに答えた。
「でも・・・・お前も、悪魔なんだろ?」
「・・・確かに私は悪魔ですが、それが・・・なにか?」
 質問の意図が読めない。というよりも、アスカロトがどんな人物かさえもが、よく分からない。
「だって、虎狼丸が・・・・」
 アスカロトは、躊躇いがちにアンリを見ながら、落ちつきなく手を動かす。
「ご主人様が、なんと?」
 せわしないアスカロトとは対照的に、落ち着きはらったアンリが静かに聞き返す。
 アスカロトはその瞳をじっと見返すと、一度きつく口をつぐんで立ち上がった。
「ううんっ!な・・なんでもないっ!」
 アンリは突然立ち上がったアスカロトを、少し驚いて見上げる。何か知らないけど、ビックリ箱のような人だな・・・と思った。
「もしかして、『誰のことも信じるな』・・・と言われたのですか?」
「えっ?・・・」
 明らかに図星と分かるアスカロトの表情。アンリはこれにも驚きながら、冷静に続けた。
「それは確かに、魔界で生き抜く・・・という上では間違ってはいないでしょう。ですが、仕事のこととなると別です。私たち使用人は、目上の者に嘘をついたり内部の情報を漏洩することはありません。する時は・・・命懸けです」
 アスカロトは真剣な眼差しでそう告げるアンリを、しばらくの間黙って見下ろしていた。
「中には、そうして自分の目上の者を倒し、自分が後釜に座ることを目論む者もいるでしょうが、私にその気はありません。ただ、それも疑われてしまえば・・・・これ以上なんと申し上げることもできませんが」
 そこまで言って、アンリも黙ってアスカロトを見上げる。冷えた空気の中で二人の視線が交差する。アスカロトは瞬きもせずにアンリを見つめ、そして・・・・静かに座った。
「お前も・・・・悪魔なんだよな?」
 さっきとは違った口調でされる、同じ質問。アンリは、今度はネルガルに相対する時の緊張感を持って答えた。
「はい。左様でございます」
 目を逸らさないアンリ。
「羽は・・・・あるのか?」
「はい」
 即答に、アスカロトの目が開かれる。
「どんな・・・・・・羽なんだ?」
 アスカロトの紫色の瞳が、密かに・・・それでいて熱く揺れる。
 これは、アスカロトの賭けなんだ・・・と、アンリは思った。
 あの魔界に落ちてなお、アスカロトはなにかを信じたがっている。それが何かは分からないけれど、今は目の前の自分を。アンリは、一度静かに目を閉じてその場に立ち上がると、アスカロトを見下ろし、今までの微笑とは違う、人懐っこい年相応の笑みを見せた。
 そして、胸の前で何かを抱きしめるように腕を交差させる。
 瞬間。部屋全体の空気を揺らす程の羽ばたき。アンリの黒いスーツの背中から生えた羽が、アスカロトの視界いっぱいに広がる。
 それは、黒と見まごう程のダークグレーから、雨雲のような淡い灰色へのグラデーションを背負っているようだった。グリフォンとまではいかないまでも、下級悪魔の悪魔羽とは違う鳥型の羽。グラデーションの中に時折混じる色濃い羽が、斑のようなアクセントになっていた。
「このような・・・・羽です。マルコキアス様の羽に比べれば、美しくもありませんが・・・」
 マルコキアスの羽は、白く大きな天使型の羽だと聞いた。ただ、マルコキアスは上級悪魔なだけに、白い天使羽を持っていたとしてもなんの問題もない。むしろ、それを自慢することだってできる。それが、ネルガルが最初に言っていた『上級悪魔としてのプライド』なのだろう。
 アンリの羽が、ゆらりと揺れる。口を半開きにしたままそれを眺めていたアスカロトが、目の前いっぱいに広げられたグレーの羽を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「・・・綺麗だなぁ・・・・・・」
 下心の無いその響きに、アンリの目が見開かれる。アスカロトはストレートに相手を誉めたという自覚も無いのか、ただアンリの羽に見惚れていた。
 隠したり誤魔化したりすることのない素直さ。アンリはそれが無性に恥ずかしくなり、ゆっくりと羽を閉じる。
「あの・・・もうよろしいでしょうか・・・?」
「え?もう?」
 まだ見たいと言いだし兼ねないアスカロト。アンリはそう言われる前にと、羽を閉じ、再び背中に封印した。
「綺麗な羽だなぁ・・・」
 目の前に座り直すアンリに、アスカロトが微笑んで漏らす。
「あ・・・ありがとう・・・ございます」
 アンリにしては珍しく、切れの悪い返事。それが恥ずかしさの所為だということに、アスカロトはまだ気付いていなかった。






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 ネルガルは、ゆっくりと薄い雲に覆われていく空を、じっと見上げていた。
 さっきまでの晴天が信じられないほどの早い雲の動き。ガラスの傍に立つとひんやりとした冷気が伝わってきた。
「雨になるな」
 振り返ると、そこには懐手のマルコキアスが扉に寄りかかっている。ネルガルは、つい・・と窓の傍を離れ、机の上に置いてある手紙を伏せた。
「雨だけですめばいいのですが・・・」
 ネルガルの言葉に、マルコキアスが部屋の中に入ってくる。そのまま椅子に腰を下ろすと、裾を乱して足を組んだ。
「うちのは?」
「いま、アスカロトの部屋に。少しはあれも、アンリを見習ってくれればいいのですが・・・」
 ため息交じりに呟くネルガル。マルコキアスは声をあげて笑うと、椅子の背に体重を預けて言った。
「それはどうかな?アンリの行儀の良さは、躾というよりは性質の部分が多い。素直という点では、アスカロトとそう差はないと思うけどね」
 ネルガルは、机の上のものをしまい、マルコキアスの向かいに腰を下ろす。
「しかし、アスカロトは堕天したとはいえ元天使。もっとそれなりの品があってもいいと思うのですが・・・」
 すると、マルコキアスが口の両端をニッとあげて言った。
「おおっと、お前さんがそれを言うかね?天使だからとか、悪魔だからとか・・・。どういう心境の変化か。意外だねぇ・・・」
 そして、訪れる沈黙。ネルガルはマルコキアスの言葉に、口をつぐんで視線を落とした。
「・・・落胆は期待の裏返し。それだけ、アスカロトが有望株ってことか?」
 茶化すようなマルコキアスの瞳。ネルガルは至って冷静にそれを受け止めながら、温度の無い声で返した。
「身柄を引き受けた以上、あれの存在価値を厳しく見極める必要があります。それがプラスと出るかマイナスとでるかは、私の関知する所ではありません」
「ふぅ〜ん・・・・」
 依然としてからかうような表情で、マルコキアスは目を細める。ネルガルはそれを軽くかわしながら、深く息をついた。
「聡にさわれたぜ」
「え?」
 ネルガルの気持ちの隙間を突くように、マルコキアスが零した言葉。思い通りにひっかかったネルガルに、マルコキアスの瞳が輝いた。
「アスカロトの奴・・・聡に触ったんだ。明と間違えたのかと、こっちの方が驚いたぜ」
「で・・・アスカロトは?」
「別に、なんとも・・・・。慌てて止めた俺を、不思議そうに見てたよ」
 楽しそうに報告するマルコキアスとは対照的に、微かに眉をひそめるネルガル。いつも冷静なネルガルだけに、面白い反応だなとマルコキアスはほくそ笑んだ。
「で、どうするんだ?マリーからの話は」
 瞬間、パッと開かれるネルガルの紅い瞳。その瞳は刺すようにマルコキアスに向けられると、すぐに心の奥を隠すかのように、静かに伏せられた。
「どうするもなにも・・・・・・命令とあらば従うのみです」
「でも、それでいいのかよ。アスカロトの特殊性に興味を惹かれるのは、俺たちだけじゃない筈だ。羽が変わらないこと、お前に支配されないこと、聡に触れたこと・・・その上本人はその“事の重大さ”に気付いてないときたもんだ。そこへアイツが絡んできたら、益々コトはやっかいになる。それでも、何もしないというのか?お前さんは、それでもいいって言うのか?」
 組んでいた脚をほどいて、マルコキアスが身を乗り出す。ネルガルはその視線から逃げるように立ち上がると、さっきよりも更に暗く変わった空を見上げながら返した。
「今、アスカロト一人のために、これ以上魔界を騒がせることになるのは、賢い選択とは思えませんな。この一件を片付けたら、魔界へ戻り、命令には従うつもりです」
「ネルガルッ!」
 あくまでも意見を変えないネルガルに、今度はマルコキアスが立ち上がる。
「じゃあ、お前はアスカロトをアイツに差し出すっていうのかよ!?」
 遠くで雷鳴の轟く音。ネルガルの瞳が翳って見えたのは、更に厚さを増した黒い雨雲の所為だろうか?
 それでも、形のいい口唇を綺麗に歪めると、いつも通りの冷たく、そして整った笑顔を浮かべてネルガルが言った。
「それが、ベルゼビュート様の望みとあらば・・・・」






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