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アスカロトは秘密屋の前につくと、整わぬ息のまま扉を開けた。
「いらっしゃ〜い。って、またお前か」
恥ずかしさまぎれの全力疾走で、薄らと汗ばんだ肌。アスカロトは託された手紙を差し出すと、目の前で焼いた餅を食べる虎狼丸ことマルコキアスに言った。
「これ、ネルガルから・・・」
「ネルガルが?」
餅を皿に戻し、マルコキアスが手紙を受け取る。指先で素早く封を切ると、アスカロトの目の前で手紙を読み始めた。
アスカロトはその間もマルコキアスの前に立ちながら、きょろきょろと周囲を見回した。でもやはり気になるのは餅。見たことも無い白い物体が網の上で膨らむのを、不思議そうに見つめる。
「食べるか?」
手紙を読みながらもアスカロトに視線を投げたマルコキアスが、面白そうに問い掛ける。アスカロトはそんな誘いに一瞬心を躍らせたものの、ネルガルの冷ややかな視線が心をよぎり、ブンブンと首を横に振った。
「すぐに帰らないと、ネルガルが怒るし・・・」
「あぁ、それなら大丈夫。今日はこのままここにいろってさ。松平邸には明日の朝帰れって」
数枚ある手紙のうち一枚を抜き取って、自分の言葉が正しいことを見せる。アスカロトは確かにその旨が手紙にあることを確認すると、首を傾げて呟いた。
「そんなこと・・・何も言ってなかったのに・・・・」
「手紙を読んだら俺が言うと思ったんだろ?実際そうだし。・・・・・お前さん、ネルガルのことをどう思ってる?」
読み終えた手紙をしまい、マルコキアスがアスカロトに向き直る。アスカロトは唐突に投げかけられた質問に、思わず口を閉ざした。
どう思ってるといわれても、そんなこと考えたことも無い。出会い頭にあんなことをされて、おまけに奴隷のようにこき使う。当然、良く思うはずも無い。けれど、これが悪魔というものだと言われてしまえば、それまでだという気もするし・・・。
「別に、上司の悪口言ったからって、俺は下級悪魔を罰したりはしねぇよ。そういう上級悪魔がいるのも確かだけどな。ほれ、言ってみなよ」
畳の上であぐらをかきながら、木の床の上に立ちつくすアスカロトを見上げる。アスカロトは戸惑いながら、呟いた。
「でも・・・・」
不思議なことに、威圧感の無い侯爵である。アスカロトも、ネルガルよりもずっと話し易いマルコキアスに、内心驚きながらも安心していた。灰色の髪も、笑うと口唇から覗く八重歯も親近感を湧かせる。
「びびってんの?ネルガルを」
ためらうアスカロトを笑いながらマルコキアスが言う。すると、それに少しカチンときたのか、アスカロトが声を荒げた。
「びびってなんかいねーよ!ただ、ネルガルなんてやな奴のこと、話すのも嫌だっただけだ」
「ふーん。やな奴なんだ、ネルガルって・・・・」
頭をポリポリとかきながら、マルコキアスが返す。アスカロトは素直に返されたことに調子を良くしたのか、さらに息をまいた。
「あったりまえだろ。あんなやな奴いねーよ。すぐ命令するし、すぐ怒るし、おまけに俺に・・・・・」
そこまで言いかけて言葉を切る。マルコキアスはその言葉の先を察し、アスカロトを見上げたまま小さく息を付いた。
アスカロトは幾度も繰り返される陵辱の記憶に、黙って口唇を噛む。すると、マルコキアスがまるで何でもないことのように言ってのけた。
「あ〜あ、死んじゃった。だめだなぁ〜こりゃ」
「え!?」
畳の上で、脛もあらわに脚を伸ばすマルコキアス。アスカロトは話の真意が見えず、ただ目を丸くした。
「上司の悪口は御法度。上司じゃなくても自分よりも身分の高い者、自分よりも強い者への反抗的な態度のアピールは、そのまま自分に死刑の宣告をするようなものだと思った方がいいな。お前、アスタロトに言われなかったのか?」
「何を・・・・・?」
「魔界で生き延びる術」
あ・・・と、アスカロトが気付いた顔をする。マルコキアスはアスカロトの表情に、顎を上げて先を促した。
「誰も・・・信じないこと・・・・・・」
「正解。何で俺に言っちまうんだよ。せっかくアスタロトがお前に教えてやったのに、お前さん全然分かってないじゃないか」
淡々と言いながら、マルコキアスが畳にあがるよう手でアスカロトを促す。アスカロトは不満気に口唇を突き出しながらも、己のあさはかさに少ししょんぼりとした。
「ごめん・・・なさい」
畳にあがりながら素直に謝るアスカロトに、マルコキアスが目を丸くする。
別に謝る必要などどこにもない。自分が後で困るだけの話なのだ。なのに真剣に謝るアスカロトを、マルコキアスは不思議な気持ちで見つめた。
「・・・・・と、いうわけで。今日はマリーの代わりに、俺が簡単に仕事のルールを教えるから。しっかり覚えるように」
「どうして・・・・マル・・・あ、虎狼丸が?」
慣れない正座に、脚をもぞもぞと動かす。マルコキアスはあぐらをかきながら、それを楽しそうに眺めた。
「それは内緒」
ニカッと笑うマルコキアス。アスカロトは再び首を傾げて、返答に困った。
「でも、ひとつ言えるのは、別に俺はお前のことをどうしようとも思ってないし、それをネルガルは分かってる。これは、お前さんも分かっといた方がいいと思うよ」
ということは、とりあえず身の安全は確保されてるということか?でも、信じるなって言ってるのは当の本人達だし。マルコキアスの本意がアスカロトには分からない。
全くもってどう答えていいのか分からないまま、アスカロトは口唇を突き出した。
その間にも、マルコキアスは何やら資料を取り出し、いそいそと説明の準備をしている。そんな楽しそうな様子を見ながら、実はただ単にそういうことが好きなだけなんじゃないかと、アスカロトは思った。とりあえずそれは、口に出さずにおいたけど・・・。
「では、領収書の書き方から」
うきうきと切り出すマルコキアスに、「やっぱり、こういうのが好きなんだと思う・・・」とアスカロトは確信した。
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椅子の背を握る指が、細かく震える。ネルガルの薄い口唇が明の胸の上の突起を含み、その指にさらに力が込められた。
「っ・・・んっ・・・・ああっ・・・」
椅子に座ったネルガルは、自分にまたがる明の身体を幾度も突き上げる。その度に、明の白い脚が力無く揺れた。
「っは・・・・す・・っ・・・すご・・・・」
肩から滑り落ちたシャツを腕に絡めたまま、明が向かい合うネルガルの頬を両手で愛しげに包む。熱に己を失いかけた瞳の色。ネルガルは冷ややかにそれを見返しながら、更に深く明の身体を突き上げた。
「んあっ・・・・っ・・・・」
喘ぎの中、明の口唇がむさぼるようにネルガルのそれに重なる。舌を絡め、より多くを吸い取ろうとするような明の態度に、ネルガルの瞳が更に一層冷えた輝きを放った。
繋がった部分は息づくようにネルガルをくわえ込んでいる。濡れた歓喜の音に満たされた室内。明はネルガルの口唇を解放すると、酔った様な瞳でネルガルを見下ろした。
「どう・・してさ・・・・・っ?」
奇妙な薄笑いを浮かべる明。ネルガルは身体を繋げたまま、そんな明を見上げる。前をわずかにはだけただけのネルガルの胸に、明の指が滑った。
「こんなに・・・・熱くさせといて、どうして君の目は・・・・・・そんなに冷たいの・・・・?」
血のような紅い瞳でありながら、温度を感じさせないネルガルの瞳。ネルガルは、明の瞳の奥に白濁し始めたものを見て取ると、負の感情をたたえた目を細め、静かに返した。
「そうだな・・・・・どうして・・・だろうな・・・・?」
その間にも、明はネルガルの胸をさらに広くはだけ、そのシャツを脱がそうとする。と、ネルガルがその明の腕を取り、明の身体を持ち上げた。
「っ・・・んんっ・・・・はっ・・・っ・・・・」
明の身体を床に横たえ、両腕を床に押し付ける。そのまま再び動き出すと、明の脚がネルガルの腰に回された。
「っあ・・・・っ・・・・もっ・・・・もっと・・・・」
ネルガルの激しい動きに、明の喉が反り返る。貫かれるままに声をあげながら、明が力無く首を振った。
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宮殿が揺れるかと思うほど激しい雷の音に、埋め込まれた手漉きガラスが反響する。音と同時に、暗闇の中、浮かび上がる二人の姿。
ルシフェルはいつもの薄笑いのまま彼を振り返り、言った。
「というわけで、堕天後も羽が変わらないアスカロトは現在人間界にて業務を遂行中にございます。翼の出し入れさえも自分でコントロール出来ない以上、ここに置くのは危険かと・・・」
彼は椅子の袖に肘を乗せたままルシフェルの話を聞いていたものの、ルシフェルが言葉を切ると、ようやく終わったかと言わんばかりに大きく息を付いた。
「で、天界はなんと・・・・?」
低く張りのある彼の声。それでいて不思議な柔らかさを時に感じさせる。しかしその柔らかさこそが曲者であるという事をルシフェルは良く知っていた。
「いえ、いまだに天界からの連絡はございません。・・・・ベルゼビュート様・・・・」
ひときわ激しい雷の音。見事な軍服を纏った彼の姿が、その光の中に鮮やかに浮かび上がる。
皇帝・ベルゼビュート。今や魔界の実権を握るものと言っても過言ではない彼は、静かに立ち上がり真紅のカーペットの上を歩いた。そのまま雨が打ちつけ不規則な光を放つ窓際に立つ。少し離れた窓際に立ったまま、ルシフェルはベルゼビュートの次の言葉を待った。
「連絡が・・・ない?」
「はい。アスカロトの羽の件で心当たりはないものかと伺いを立てましたが・・・・」
崩れることのないルシフェルの微笑み。ベルゼビュートはそんなルシフェルを振り返らずに、荒れ狂う窓の外に視線を投げた。
「連絡が・・・ない・・・か」
一人で繰り返し、ゆっくりとルシフェルの方へ首を向ける。ルシフェルがベルゼビュートの視線を真っ向から受けとめると、ベルゼビュートが言った。
「ルシフェル・・・・・・それが、答えではないか?」
下瞼が持ち上がり、嫌な微笑みをベルゼビュートが作る。それはルシフェルの微笑みとは明らかに違う種類のものであった。
「・・・・と、申しますと・・・」
「心当たりがないか・・・と、聞いたのであろう?」
「はい・・・・」
ルシフェルは微笑みを絶やさぬままに答える。
「では、無ければ無いと言ってくるであろう。心当たりがあるから、なにも言ってこないのだ・・・・」
ベルゼビュートの言葉に、ルシフェルの目がわずかに広がる。企みの予感を感じさせる皇帝の笑み。ベルゼビュートは喉の奥で笑うと、更に瞳を輝かせて続けた。
「羽の秘密か・・・・・ミカエルの慌てる姿が見えるようだぞ、ルシフェル・・・・」
笑っているのに、空気はどんどん凍り付いて行く。雷の音に交じるベルゼビュートの笑い声に、ルシフェルの瞳が微かに陰った。
「・・・で、そのアスカロトはいま、誰の元にいるのだ?」
「はい閣下。いまはネルガルの元に・・・。それでも、変わらなかった・・・ということです」
意味を含ませたルシフェルの言葉。瞬間、ベルゼビュートはぴたっと笑うのを辞め、ルシフェルを見返した。
「ネルガル・・・・だと?」
「はい。なにか、問題でもございましたでしょうか?」
「ネルガルの元にいて・・・変わらなかっただと・・・・?」
「はい」
途端に、ベルゼビュートの瞳が何かを得たような輝きに変わる。ルシフェルはその意味を分からぬまま、じっと黙る皇帝の姿を見つめた。
「・・・・・・それは、一度見てみたいな・・・・・その、堕天使を・・・・」
「では、今の任務が終わりしだい呼び戻しましょうか?」
「任務などどうでもよい。すぐに連れて来い」
獲物を待つようなベルゼビュートの目。ルシフェルは一呼吸をおくと、静かに返した。
「お言葉ですが、この任務はアスタロト公爵依頼の任務にございます」
すると、ベルゼビュートは冷ややかな瞳で窓の外を眺め、そのままその視線をルシフェルへと流した。
「では、時期はお前に任せる。ただし・・・・分かっておろうな」
背筋が冷えるような低い声。その声に一歩も引かず、ルシフェルの薄い唇がゆっくりと動く。
「御意」
ルシフェルのアイスブルーの瞳が、静かに閉じられた。
†††††††
「っつーわけで・・・・・」
マルコキアスはそういいながら振り向き、そして固まった。
「おいっ!お前さんっ!」
言うよりも早く、マルコキアスの手が俯いたアスカロトの頭をこずく。瞬間、アスカロトの身体が跳ねた。
「っ!えっ?」
ぱっちりと目を開けて、左右を見まわす。マルコキアスは腕を組んでため息をひとつついた。
「居眠り厳禁」
しかし、外では鳥が鳴いている。白々とあけてきた空に、アスカロトが大きなあくびをして見せた。
魔界では夜は明けない。常に暗い空、人間界で言うところの夕方から深夜の空の色をしている。その間に活動時間があり、休息時間がある。人間界にきたらどうなるのかな?とアスカロトは思った。
「確かに、ここでは夜寝て朝起きるのが普通だけどな。お前も悪魔の端くれなら夜中に目のひとつも光らせてみな」
「でも・・・・・・」
マルコキアスの言葉に口唇をとがらせて抗議をするアスカロト。するとマルコキアスは再びため息をついて言った。
「そんなにネルガルが恋しいのか?」
「ばっ!・・・・んなわけあるかよっ!!」
思わずあげる反論の声。瞬時にしてアスカロトの目が覚めた。
「あ・・・んな・・・・・」
奴・・・と続けそうになり、半日前のマルコキアスの言葉思い出す。
誰も信じるな。誰にも本心を語るな。
そうして口を閉ざしたアスカロトの頭をマルコキアスがぽんぽんと撫でた。
「よっしゃ。じゃあ松平邸に帰るか。多分、時間的にもちょうどだろうし・・・」
こんな時間にとアスカロトは思いながら、自分よりも状況をよく分かっているであろうマルコキアスの言葉に従う。二人は秘密屋の外に出ると、松平邸に向かって歩き出した。
「あ・・・のさ・・・」
並んで歩きながら、アスカロトは言いにくそうに言葉を紡ぐ。マルコキアスがアスカロトを振り返ると、アスカロトが上目遣いに言った。
「時間的にちょうどいいって・・・どういうこと?」
まっすぐにマルコキアスを見てくる紫色の瞳。マルコキアスは一瞬その瞳に見とれながら、肩をすくめた。
「ったく、面倒な説明は全部俺の仕事にしやがって・・・・」
一人でぶつぶつと呟き、マルコキアスが天を仰ぐ。アスカロトが黙っていると、マルコキアスは腕を組んで微笑んだ。
「まぁ、それはもうすぐ自分の目で見ることになるから、焦りなさんなって」
「俺の、目で・・・・?」
「そうそ。ほら、松平邸だよ」
挨拶も何も無いままに玄関を開ける。軋む廊下を進み、当然のように二階へ上がるマルコキアス。それについて行きながら、その先に待ってるものがなんなのか、心が騒ぐアスカロト。
ネルガルの部屋につくと、薄く扉が開いていた。マルコキアスに言われてアスカロトが先に部屋に入る。すると、シャツの前をはだけ、窓辺に立っていたネルガルが無言で顔を向けた。
乱れたベッドには人の影。それが明であることは、アスカロトにもすぐに分かった。
「早すぎたか?」
アスカロトの背後からマルコキアスが言う。
「いえ・・・・送っていただいてありがとうございました」
アスカロトはネルガルのその言葉を聞きながら、それが自分のためにマルコキアスに告げられた礼であることにしばらく気がつかなかった。自分のためにネルガルが礼を言うなどということが想像もつかなかったというのもあるかもしれない。
それよりも、アスカロトは目の前に横たわる明の方が気になっていた。寝ているのかと思ったらそうでもない。明は裸でベッドに横たわりながら、虚ろな瞳でアスカロトを見返した。
訳の分からない胸騒ぎ。アスカロトは泣き出しそうな顔でマルコキアスを振り返った。
マルコキアスはそんな思った通りのアスカロトの反応に、小さく肯きで返す。アスカロトに並んでベッドの脇に立つと、悩ましげに横たわる明を見下ろして言った。
「これが、ネルガルの能力・・・というか体質のひとつ。ネルガルの体液には麻薬の効果がある。涙、血液、汗などなど、あいつの体液を身体に入れたが最後、こいつみたいになるのさ。人間でも、悪魔でも・・・・な」
淡々と語るマルコキアスに、アスカロトが目を見開く。ネルガルを振り返ると、聞いているのかいないのか、ネルガルは黙って窓の外を眺めていた。
「で・・・でも、俺は・・・・・・・」
アスカロトの脳裏を、繰り返された忌まわしい行為がよぎる。キスこそされていないものの、体内に幾度も注ぎ込まれたモノの記憶は消そうとしても消せない。
「だから、みんなが不思議がってるんだろ。ネルガルに手をかけられてなお、正気でいるお前さんのことは、いまや魔界の謎だ」
マルコキアスの説明の間、何度もアスカロトの頭をよぎる疑問符。
−−それは、いまこうして私と話をされているということがその証拠です。いずれお分かりになるでしょう。
そして蘇るマリーの言葉。そういうことかと、アスカロトの眉が寄せられた。
マルコキアスは明の口唇を軽くめくると、小さく息をつく。アスカロトの目が、マルコキアスにさらなる質問を投げ掛けた。
「あ?これか?これは、確認しただけ。ほら、この口唇の内側が赤くなってるだろう。これはこいつがネルガルと口唇を重ねた証拠。あいつの体液の中でも一番効力があるのが唾液らしいからな」
再びアスカロトの胸の中に浮かぶ疑問符。一番効力があるのが唾液?ならばなぜ、ネルガルは自分にくちづけなかったのだろう。
最初に肌を重ねた日、ネルガルはアスカロトが変わらないことに驚いていた。ということは変えるつもりでいたということだ。
それなのに何故?
いままで幾度も行為におよんだものの、口唇を重ねられたことは一度としてなかった。
どうしてだろう?
アスカロトの中で小さな核を持ち出した疑問符。ネルガルを振り返っても、その謎は一向に解けようもなかった。
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