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明(アキラ)は目の前の光景に呆然と立ち尽くすと、そのまま床に膝を付き、力無くその場に座り込んだ。
「アキラッ!」
部屋に飛び込んできた相手をゆっくりと振り返り、アキラが揺れる瞳で何かを語る。
「兄さん・・・。こんな・・・・」
板の間に広がる血の染み。少し乾きはじめたそのどす黒い液体に、アキラの兄、聡(サトシ)が思わず目を背けた。
「兄さん。次は誰なんだ・・・?誰が・・・こんな目に会うんだ・・・?」
「アキラ・・・大丈夫だから。お前のことは、僕がきっと守る。お前には、たとえ誰であろうと、指一本触れさせやしない」
座り込んだアキラに寄り添いながら、サトシが部屋の真ん中に横たわる物体を凝視する。
「アキラ・・・お前にだけは・・・・」
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通された自分の部屋は、綺麗に片づけられていた。ネルガルの部屋よりは幾分小さめでありながら、十分にくつろげる広さがある。アスカロトは腰の短刀を外すと、それをベッドの上に投げた。
大きな窓、かけられた深緑のカーテン。ベッドリネンも同じような深い緑をしていた。
「お気に召されましたでしょうか?ご希望があれば、お好きなようにお替えいたしますが」
マリーのはきはきとした声。アスカロトは振り返るとしばらくの間を置いて、静かに言った。
「いや・・・いいよ。これでいい」
「左様でございますか。それではなにかございましたらお呼び下さい」
マリーが一礼をして出て行く。パタリと扉が閉まると、大きく息を付いてアスカロトがベッドに腰を下ろした。
「どうかしたのか?」
瞬間はっとしてアスカロトが立ち上がる。するとそこには、マリーと入れ違いに部屋に入っていたネルガルの姿があった。
「なっ・・・なんか・・用かよっ・・」
自分でも震えているのが良く分かる。アスカロトは後退ろうとして、自分がベッドの前に立っていることに気が付いた。
「明日の宮殿行きは取りやめだ。すぐに、人間界へ行くぞ」
「・・・わかった・・・」
話が終わったらさっさと消えろといいたげな、アスカロトの上目遣いの視線。その態度が気にくわなかったのか、ネルガルがアスカロトの腕を掴みあげた。
「痛っ!・・・・なにっ・・・すんだよ!!」
「少しは言葉づかいを改めようとする気はないのか?それとも、お前には学習能力がないのか?」
ぎりぎりと腕を締め上げられ、アスカロトの顔が痛みに歪む。
「わかった時の返事はそうじゃないだろう?違うか?」
紫の瞳にじんわりと涙が浮かぶ。それでもアスカロトは、声を押し殺してじっと痛みに耐えた。
「痛みでは従えないというのなら、他の方法を取るが・・・・」
その言葉に、アスカロトがキッとネルガルを見据える。ぎりぎりと口唇を噛み締め、口唇にじんわりと血がにじむ。それでもネルガルが冷ややかにアスカロトを見返すと、アスカロトの口唇がゆっくりと動いた。
「分かり・・・ました・・・っ・・」
屈辱がアスカロトの表情いっぱいにひろがる。ネルガルは相変わらず冷ややかな眼差しでアスカロトを見ると、アスカロトの身体をベッドの上に押し、腕を放した。
「・・・・・・いいだろう・・・」
倒れ込むように、ベッドの上にアスカロトが横たわる。その刹那、アスカロトの肩に、さっき投げた短刀が鞘に入ったまま触れた。
「では、明日はすぐに出かけるぞ」
ネルガルがアスカロトに背を向けて部屋を出て行こうとする。アスカロトは肩に触れた鞘を、怒りに任せて掴んでいた。
「抜いてみろ」
アスカロトに背を向けたまま、ネルガルが立ち止まる。アスカロトが、迷わず短刀の柄に手をかけた。
力強く握り締め、一気に抜こうとする。・・・が、その短刀の本体は、まるで鞘と一体化しているようにピクリとも動かなかった。
「言っただろう、その短刀で身を守れると思うなと・・・私からはな」
薄く笑ってネルガルが振り返る。アスカロトがそんなネルガルを憎悪の目で睨み返した。
「その短刀は、私の意志で抜けるようになっている。もしくは、本当にお前の身に危険が迫った時でもない限り、使えることはないだろう」
「お前相手にはただのクズってことかよ」
アスカロトが短刀を床に投げ捨てる。ネルガルは足元に転がったその短刀を拾うと、スツールの上にそれを置いた。
「抜ける短刀があったところで、今のお前には何もできない。さっさと学習しろ」
それだけを言い捨て、ネルガルが部屋を出ていく。アスカロトは閉められた扉に枕を一つ投げつけると、やっと一人で眠れるベッドで毛布に包まった。
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彼は、もう一人の、自分と全く同じ顔の彼を抱きしめると、暗くよどんだ空を狂気の瞳で見上げた。その瞳に浮かぶのは、歓喜と当惑・・・そして愛憎。
一陣の風が撒き散らす桜の花弁。
その白く舞い散る渦の中で、
彼を惑わせた春の香りの中で、
彼は微笑んだ。
この世の全てを手に入れたように・・・。
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アスカロトはメモを片手に街を歩くと、一件の古ぼけた建物の前で立ち止まった。歴史の波に飲まれても焼けることのなかった木造の一軒家。『秘密屋』と看板の掲げられたその扉を押すと、木の軋む音と共に、フワリとどこか焼けたような匂いが鼻腔をくすぐった。
コツリ、コツリと足を運び、時を止めたように薄暗い店の中へと入っていく。高い天井の店内には、価値があるのか無いのかさっぱり分からない、ただの古ぼけたモノが並んでいる。埃をかぶったその骨董品を左右に眺めながら、用心深くアスカロトが店の最奥までやって来た。
店の奥には一段高くなった畳の間。全体的に洋風な作りでありながら和の要素も十分に備えている。その当時に流行った建物の典型であった。
アスカロトはそこに静かな人影を見て立ち止まる。座敷の上で片膝を立てて、片手にキセルを持っている。裾の割れた着物姿で、彼はキセルでポンと七厘を叩いた。
「秘密屋でござ〜い」
アスカロトと目が合うや否や、その男はにやりと笑ってキセルをふかす。肩には付かないながらもまとまりの無い髪に着流し姿。右腕を太腿の上にだらりとたらし、左には使い古したキセルを持っている。プハーっと美味しそうにキセルをふかすと、色素の薄い瞳で、立ち尽くすアスカロトを見た。
「お客さぁん。俺に見とれに来たの?それとも、なにか買ってくれるの?」
飄々と言う相手をアスカロトがじっと見返す。相手が横目でアスカロトを見ながらキセルをふかすと、アスカロトが意を決したように言った。
「あんたが、マルコキアス?」
その言葉に、彼が「なーんだ」と言いたげに、煙を上向きに吐く。
「俺はアスカロト。あんたを尋ねるように言われたんだけど・・・」
「誰に?」
「アスタロト・・・様に・・・」
とりあえず敬称をつけ、相手の反応を見る。マルコキアスは右手を懐に入れて胸を掻くと、キセルの中身を七厘の中に落とした。
「あんた命拾いしたねぇ。俺はどうでもいいけど、アスタロトのことも呼び捨てにしてたら、この場で魔界にとんぼ返りしてもらうところだったわな」
「じゃあ・・・」
アスカロトが嬉しそうに口を開く。するとマルコキアスは立ち上がって店の方に出てきた。
「確かに俺がマルコキアスだけど、ここでは一応『秘密屋の虎狼丸』って言われてるから、そう呼んでくんな。それが守れなきゃ、なんにも話さないよ」
目の前で大あくびをしている相手を、アスカロトがぽーっと見つめる。確かマルコキアスは魔界では侯爵の筈。とても、そんな風には見えないが。
「分かった。じゃあ、虎狼丸。アスタロト・・様に、アキラのいう事を聞けばいいって言われたんだけど、アキラって・・・誰だ?」
「アキラ・・・?」
「松平明・・・っていうらしいけど」
「あぁ」
腕を組んでマルコキアスが大きく肯く。目の前に立たれると、ネルガルと変わらぬほどの長身であることが分かる。アスカロトは優に頭一つ分以上は大きい相手を、黙って見上げた。
「松平明か。そいつなら、この通りを真っ直ぐ行った先にある、大きな屋敷に住んでるぜ。あの明がどうかしたのか?」
本当にいい加減としか思いようが無い管理状態の品物を、マルコキアスの指先がつつく。指先に埃がたんまり付くと、いや〜んという表情でその埃を息で吹き飛ばした。
「けほっ」
舞い上がった埃をもろに吸い込んで、アスカロトがむせる。マルコキアスはそんなアスカロトに両手を合わせて謝ると、手近にあった壷を持って微笑んだ。
「これ、買わない?」
「へ?」
咳でにじんだ涙を指の背でぬぐい、アスカロトが答える。マルコキアスはその壷をアスカロトの手に押し付けると、商人の顔になって続けた。
「これ、あんたに買ってもらいたがってるわ。いらなかったら、買うだけ買ってアスタロトに上げてもいいから。情報料代わりに募金するような気持ちで」
「ええ?」
なんでそんな訳の分からない壷をと、アスカロトが眉をひそめる。マルコキアスは媚びるような笑みで、じりじりとアスカロトを店の隅に追いつめた。
「今なら初買い特別価格。なに、あんたは領収書にサインして、宮殿経理係のメルコムに回しゃあいいんだから。あんた一銭も損しないんだよ。ネルガルだったらすぐに買ってるって。それが警察が情報買う時のルールってもんだよ。こりゃ覚えといた方が良いなぁ、今後のためにも・・・な」
うーんとアスカロトが唸る。
「せっかく良いこと教えてあげようと思ったのになぁ」
ちらりと振られるマルコキアスの視線。
「うーん」
アスカロトが眉を寄せて更に唸った。
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「・・・・で、そんな壷を持たされた・・・と」
冷ややかな視線でネルガルがアスカロトを見下ろす。アスカロトは返す言葉もなく、下唇を突き出した。
「マルコキアスが『ネルガルだったらすぐに買ってる』って・・・」
「私がすることならなんでもするのか?」
背筋を伸ばしたまま腕を組む。ネルガルのもっともな意見に何も言えないまま、アスカロトは壷の入った箱を抱えて小さく息を付いた。
「まぁ、そんなことはどうでもいい。相手の家に行くぞ」
「え?正面きって訪ねるのか?」
アスカロトの大きな目が、ネルガルを見上げる。ネルガルは眼鏡を少し上げると、強い風の中で髪をかきあげた。
「向こうは、私達が来るのを承知しているからな。問題はあるまい」
そう言って、さっそうと歩き出す。まだ外国人の姿が珍しい街の中で、ネルガルの金髪がいっそうきらびやかに輝いた。
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明は濡れたタオルを絞ると、ベッドに横たわるもう一人の彼の身体をゆっくりと拭く。
穏やかな午後。窓から入り込む風が、高い天井にかかるカーテンを優しく揺らした。
「寒くないかい?今日は温かくなって良かった。顔色も良さそうだ」
既に日課になっている彼の世話を、かいがいしくしながら、返事をする筈の無い相手に話しかける。静かに上下するだけの胸板を拭き終わると、明は彼の服を着替えさせた。
コトッ
隣りの部屋から聞こえる音。揺れたカーテンが花瓶でも倒したのだろうかと、明は横たわる彼の身なりを整えると、静かに席を立った。
重い扉を開けて、中へと入る。もとより、敷き詰められた絨毯が足音を吸い取るため、外で風にざわめく樹々の音しかしない。
一陣の風が吹き、部屋の中で大きく白いカーテンが揺れると、明はそのカーテンの中に二つの大きな影を見た。
「誰だ?」
怪訝な顔で聞く。すると、いままで風に煽られていたカーテンがゆっくりとおさまり、その中にいた人物が静かにその姿を現した。
神父のような姿をした金髪で長身の男と、その隣りに立つ黒髪の少年。特にその少年はまるで外国の絵画に出てくるような変わった恰好をしている。明は、しばし見とれるように二人を眺めていたが、黙ったまま動かない二人に、自ら口を開いた。
「誰だ・・・君たちは」
「松平明だな」
ネルガルの低い声が響く。黙って明が肯くと、ネルガルが部屋の中にあるビロード張りの椅子に座った。
「大公爵アスタロト様の命を受けてやって来た。契約通り、お前の願いを叶え魂を回収しよう」
アスカロトはネルガルの声を聞きながら、部屋を見回す。他の家とは違った、見事な洋館。街中にはまだ着物姿も多いというのに、明はごく自然に洋服を着こなしていた。
「アスタロトの命を・・・ということは、お前たちは誰なんだ?」
明は動揺することもなく、冷静に返す。扉を後ろ手に閉めると、明がネルガルの正面の椅子に座った。
「私はネルガル。そしてこれは助手のアスカロト」
明の視線が、アスカロトの視線とぶつかる。アスカロトはネルガルの隣りに立ちながら、何をしたらいいかも全く分からずに、ただ黙って明を見返した。
「・・・・なるほど」
状況を理解したように、明が目を閉じて肯く。椅子の肘掛けに両肘を乗せ、胸の前で指を組む。日本人にしてはオーバーな動作も、何故か明にはしっくりとなじんでいた。
「あの夜の彼は本当に悪魔だったという訳か。ははっ。傑作だな」
「何がおかしい?」
ネルガルが、その紅い目を細める。明はそんなネルガルを穏やかな目で見返すと、少し淋しげに語った。
「何故って、これは奇跡だなと思って・・・」
「奇跡?」
「あぁ。本当に僕の願いが叶うなら、それが悪魔であろうと僕はそれを奇跡と呼ぶよ」
再び、一陣の風が部屋の中に吹き込む。アスカロトの長い髪が揺れて、その白い頬をかすめた。
「じゃあ、僕の願いを叶えてもらおうか」
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