Night Birds
Shizuka Otohime
◆Chapter 1◆
−The Psalm † 聖歌−
天地創造の6日間の中で生まれた10億を超す数の天使たち。
その中で神への反旗を翻したサタンが破れてから、はるかな時が流れた。
かつてはサタンがその名を代名詞のように語られ、今は新たな皇帝・ベルゼビュートが見事なまでの手腕でおさめる帝国。
その時の殆どを闇に包まれ、ある者は嘆き、ある者は野望を胸に抱く。
気の遠くなるような時間の果てに、いつかは天界へ帰ることを切望する堕天使たちの戯れる場所。
人はその暗黒の世界をこう呼ぶ。
Monarchie Infernale−地獄の帝国・・・と。
†††††††
「うっ・・・あっ・・・」
深く貫かれる度、頭上でひとつに結わかれた手首に、皮のベルトが食い込む。
スチール製の見事な細工が美しい、天蓋付きのベッド。そのベッドの背に押し付けられるように、アスカロトの身体は幾度も激しく揺さぶられた。
「はんっ・・・あっ・・んっ・・・・」
魔界へ来てからどれくらいの時が経ったのか。アスカロトはネルガルの部屋に移されたものの、こうして身体を重ねる以外に何をすることも許されない。顔を合わせるたびに意識がなくなるほど弄ばれ、いまでは薬の力を借りずとも、自然にネルガルの愛撫に反応するほどになった。
「やっ・・・んんっ・・・あんっ・・・あ・・」
ベッドが激しく軋み、アスカロトの前髪が跳ねるように揺れる。大きく開かされた足は、ネルガルの黒い服にしがみつくようにからんでいた。
ネルガルの手が、ベルトでつながれ冷え切ったアスカロトの手に触れる。身体をつなげたまま、向かい合うアスカロトを見つめると、アスカロトが突然動きを止めたネルガルを、薄く開いた目で見つめ返した。
「っ・・・・な・・に・・・・?」
幾度身体を重ねても、ネルガルは決して自分の肌をさらすことはなかった。アスカロトに見えるものは、輝く金色の髪と、深く紅い瞳だけ。言葉の少ない分だけ、アスカロトはしばしばネルガルの瞳を読もうとした。
その瞳が、じっとアスカロトを見る。しかし、アスカロトの問いかけに答える筈もなく、ネルガルは視線をそらすように目を閉じると、更に深く身体を押し進めた。
「んんんっ・・・・あっ・・っは・・」
アスカロトの細い身体が、折れんばかりに抱えられる。声も枯れ、痛む喉を反らせるとその喉元に、ネルガルの舌が這った。
「っ・・っ・・・」
速く小刻みな揺れに、アスカロトがきつく目を閉じる。前で高ぶったモノに手がかかると、アスカロトが鼻にかかった声を上げた。
「っ・・・んんっ・・・んあっ・・・も・・・もう・・・」
胸の突起を吸われ、甘い疼きに髪を振り乱す。
内側の秘肉は、吸い付くようにネルガルのものをしめつけている。
白濁していく意識の中で、自分の声さえもが、遠くに聞こえた。
扉の閉る音が聞こえる。
アスカロトはほどかれた手首を引き寄せると、疲れた果てた身体を丸めて目を閉じた。
整わない熱い息。この部屋にアスカロトが軟禁されてから、ネルガルは別室で寝ているようであった。
すると、再び扉が開く。まさかネルガルがまた来た訳ではあるまいと、アスカロトが瞬時に目を開けた。
部屋に入ってきたのは、中肉長身の若い女性。ネルガルにも負けない立派な金髪を、後頭部で結い上げている。顔には、細い金縁の眼鏡。黒いシンプルなドレスを身に纏っていた。
「よろしいでしょうか?」
見たことのない顔。いままで食事をもってきた召し使いとも違う。彼女の持つ雰囲気が、そこら辺の侍女とは違うことを、明らかに物語っていた。
「・・・・・・誰だ?」
「ネルガル様の御言いつけで参りました、マリー・ダントンと申します。以後、アスカロト様の身の回りの御世話をさせて頂きます」
「俺の・・・世話?」
アスカロトがベッドの上でゆっくりと起き上がる。大きな瞳が見開かれ、彼女をじっと見返した。
「さようでございます。アスカロト様は、まだ魔界に来られて間もございません。ですので、不自由のないように、私が呼ばれたのでございます」
きびきびと滑舌も良くマリーが返す。アスカロトはまだ何と答えていいのか分からないまま、ぽかんとマリーを見た。
「で・・・でも・・・マリー・・さん」
「マリーとお呼び下さって結構です。アスカロト様」
ネルガルに対しての勢いの良さはどこへいったのか、アスカロトがベッドの上でシーツを手繰り寄せる。
似ている・・・ような気がした。
「マ・・マリーは・・・・堕天を・・・・したのか?」
すると、マリーが小さく首を傾げる。その仕種は、一瞬彼女を十代の少女のように見せた。
「私は、人間です。もっとも、人間界にいた時間は、ほんの十数年でしたけれども」
そして、アスカロトがそれに答えるよりも早く、小さく手を叩く。数人の侍女たちが現れ、アスカロトの身体に手をかけた。
「最初に、湯浴みをして頂きます。明日には、宮殿へ行かなくてはなりません。身だしなみを、整えて頂きましょう。お話は、それからです」
陶器のような笑顔を見せて、マリーが言うと同時に、アスカロトの身体がガウンに包まれる。無言の促しにアスカロトがよろよろと歩き出し、マリーが静かに付け加えた。
「今晩からは、ご自分のお部屋がもらえますわ」
†††††††
「様子はどうだ?」
ルシフェルは言うと、呼び出したネルガルの冷たい顔を見上げた。
公務の時間は過ぎている。明らかに、仕事の話という雰囲気ではなかった。
「いえ、何も変わりはありませんが」
表情を変えずに、ネルガルが答える。すっと伸びた背筋が、その高さをより目立たせた。
「そうか・・・」
ルシフェルは微笑を浮かべたまま、面白そうにネルガルの表情を眺めている。
背後には、燃えるような赤い空。手すきガラスが射し込む光を微妙に歪めていた。
「時に・・・・例のモノは見たのか?」
含みのある言い方に、ネルガルが視線を落とす。それが何を差しているのか分かりながら、あえてネルガルは口を閉ざした。
悪魔の刺青から広がった、大きな天使の羽。あれ以来何度となく肌を重ねていながら、見ることのないもの。今までに見たどれよりも、清らかで美しかった、アスカロトの翼。
「ネルガル?」
ルシフェルの声に、ネルガルが目を上げる。それがもはや答えになっていることを悟ると、ネルガルは静かに語った。
「・・・・・見ました。おっしゃるとおり、あれは問題になるかと思われます」
「そんなにすごいものなのか?」
「それは・・・・」
すごい、と一言で言えるものなのだろうか。あんなに清楚で汚れの無い翼を、そんな一言で済ませてしまっていいものだろうかと思う。ネルガルは自分の黒い翼を思い出し、皮肉な笑みを浮かべた。
「まぁいい。聞けば、自分でも翼を出すことが出来ないというではないか。ならば、出さないままでいられる限り、問題は先延ばしにできるということか」
「逆に言えば、自分の意志に関係なく出てしまう・・・ということでもありますが」
「そうか」
のほほんと言って、ルシフェルが椅子を回す。ネルガルに脊を向けた形でルシフェルは呟いた。
「まぁ、焦ったところで解決できないのであれば、放置するしかあるまい。手は、尽くしたのであろう?」
それには答えない。答えないことが、答えになっていた。
「それでも変わらない・・・か。面白い・・な」
最後の方は自己への呟きのように掻き消える。ネルガルは黙ってルシフェルの背を見つめた。
「お前の相手で・・・・か」
そして、再び椅子を返してネルガルを見上げる。その瞳の言わんとすることに気づきながら、ネルガルは黙ってルシフェルの青い瞳を見つめた。
「アスタロト殿には挨拶に行くように。あとは明日からお前の元で好きに働かせるがいい」
「かしこまりました」
短く返し、ネルガルが一礼する。そのままネルガルが退室すると、ルシフェルはさも面白いといいたげに、喉の奥で笑った。
†††††††
アスカロトの長い髪が、石造りの湯船の中でゆったりと漂う。疲れた身体に染み渡るように、熱い湯が心地よい。立ち昇る湯気の向こうにマリーの姿を見ると、アスカロトが湯船の中から言った。
「ねぇ、マリー」
「はい。何でしょうアスカロト様」
返しながら、マリーが侍女に指示を出す。すると侍女がアスカロトの髪の毛を湯船から救い上げ、静かに洗い出した。
「俺は・・・どうなるの?」
それは、アスカロトがこの魔界へ来てからずっと抱き続けてきた疑問。この魔界へ送られるなり、日々ネルガルの相手をしている。只の奴隷になるのかと思いきや、明日は宮殿に行くといい、この待遇だ。天界でも感じたことのない不安定さに、当初の意気込みは影を潜めていた。
「どうなる・・・とおっしゃいますと?」
マリーは傍らに立ったまま、冷静に答える。アスカロトは髪を洗われながら、視線を巡らせた。
「俺、このままここにいるの?」
髪をあげられたアスカロトの背中に、深緑の刺青が見える。マリーは数歩湯船に近づくと、よく通る声で返した。
「はい。アスカロト様は、このままネルガル様のお屋敷に住まわれると伺っております。この数日の間に、アスカロト様のお部屋も用意いたしました」
きびきびとしたマリーの声に、アスカロトの長い睫毛が伏せられる。
「それで、他には・・・どうなるの?」
「はっきりとお答えはできませんが、ネルガル様の元で、宮殿の仕事をされるようになると思います。ネルガル様から、お聞きになってはおりませんか?」
マリーの言葉に、アスカロトが顔を上げる。が、すぐに再び俯くと、湯の音に消えそうな声で言った。
「俺の翼が、災いの元になるって言われた・・・・」
すると、マリーが侍女に指示をし、浴場から出て行かせる。アスカロトはマリーと二人になったことに少なからず動揺した。
「な・・・なに・・・?」
マリーが湯船のアスカロトに近づく。アスカロトが顔を上げると、マリーはその黒い瞳を大きく開いて言った。
「そのことは、お口にされぬようにと、ネルガル様がおっしゃってました。お気を付け下さい」
「どうして?」
「理由はお聞きになってる筈ですが」
きっぱりとしたマリーの口調。アスカロトが小さく首を振った。
「聞いたけど、そんな理由なんて分かんないよ。黒くなればいいって・・・あんな・・・。でも、黒くならなかったし・・・・」
「それはまた別ですわ」
アスカロトの言わんとすることを理解したのか、マリーがすぐに返す。
「別?」
「はい。伽のことをおっしゃるのでしたら、アスカロト様はいついかなる場合でも、ネルガル様の要望にはお応えしなければならないのですから」
マリーが言った言葉に、アスカロトの表情が固まる。湯船の縁に手をかけて、アスカロトが身を乗り出した。
「それって、いつでもどこでも、あいつがしたければさせろってこと?」
「ネルガル様のことをあいつと呼ばれるのは感心しませんが、おっしゃることはその通りです。それが、仕えるものの務めですから」
微笑を浮かべてマリーが言う。アスカロトは乗り出した身を静かに戻すと、湯の中に身を沈めながらため息をついた。
「大丈夫ですわ。アスカロト様なら、ネルガル様のご期待に必ずや沿えると・・・」
「どうして?」
「それは、いまこうして私と話をされているということがその証拠です。いずれお分かりになるでしょう。ご質問は、以上でよろしいでしょうか?もうすぐネルガル様がお帰りになられます。それまでに、湯浴みを終えなければなりません」
「うん。・・・わかった」
有無をいわせぬマリーに、アスカロトが肯く。すると、席を外していた侍女たちが再び戻ってきた。
「では、私は先の準備に失礼させて頂きます」
一礼をしてマリーが去る。アスカロトは、小さくため息をつくと湯船の中にゆっくりと顔を浸した。
†††††††
「お帰りなさいませ」
ネルガルが私邸に戻り、長い廊下を優雅に歩く。
「あれは?」
歩きながら傍に仕えるマリーに短く問う。するとマリーが主人の予想通りの質問に笑顔で答えた。
「整いましてございます」
するとネルガルは、常に一歩先の用意を怠らない有能な使用人に満足したのか、その紅い瞳を三日月形にゆがめて返した。
「すぐにでかける。アスタロト様のところだ」
「かしこまりました」
そしてマリーが下がり、ネルガルが自室の扉を開ける。
ほんの数時間前までの享楽を微塵も感じさせない、行き届いた整理にいつもながら感心する。換えられたシーツの感触を手のひらで確かめると、ネルガルは窓から庭を見下ろした。
赤い空の中に、オーロラのように広がるベール。彼は、庭に立てた時計台を自室から眺めるのが好きであった。
「ネルガル様。アスカロト様の支度が整いましてございます」
「ご苦労。入れ」
扉が開いて、アスカロトが一人で入ってくる。背後で扉の閉る音に、アスカロトが一瞬身構えた。
「服は合ったか?」
アスカロトは新しく貰った服に身を包んでいる。背中の抜けた黒い服は、他の者と違った短い丈。革のベルトを巻き上げたサンダル。腰のベルトには短刀がつけられていた。
「あ・・・あぁ」
振り返るネルガルに、アスカロトがぶっきらぼうに答える。ネルガルが一歩アスカロトの方に歩み出すと、アスカロトの身体がビクンと震えた。
「では、でかけるぞ」
「え?」
ネルガルはそれ以上近寄らないままに続ける。アスカロトが眉をひそめると、ネルガルがカフスを留め直して言った。
「大公爵アスタロト様のところだ。せいぜい失礼のないように。分かったか」
「あぁ」
ふてくされたように短く答える。すると、ネルガルが付け加えた。
「言っておくが、その短刀で身を守れると思うなよ」
†††††††
うねるように揺れる虹色のベールの下を、一台の馬車が行く。
アスカロトはネルガルの隣りでマントを身に纏い、身を固くしていた。
自らの呼吸の音さえも耳障りな沈黙。規則正しく聞こえる馬の蹄の音と、車輪の音。アスカロトは居心地の悪さの中、外へ目を向けたきり口を開かないネルガルの横顔をそっと盗み見た。
非の打ち所の無い、端正な横顔。それは二人が肌を重ねている時も変わらない。最初の日以来、話らしい話をしていない。アスカロトの方が萎縮している、というのもあった。
「アスタロト様は、この魔界の中でも知らぬものはいない実力者だ」
突然、ネルガルが口を開く。アスカロトは瞬時にして目を伏せた。
「また、魔界の財政の管理をする役目もしておられる。本来なら、お前のような者がお目通りかなう相手ではないが、事情が事情なのでな・・・」
しつこいほどにこだわられている自分の翼のことが、鬱陶しくさえある。しかし、それが今のアスカロトにとってどれほど大事なものか、彼にはまだ分かっていなかった。
「とりわけアスタロト様は礼儀に厳しくていらっしゃる。口の利き方には、気をつけることだ」
「・・・・あぁ」
うなだれるようなアスカロトの声。ネルガルは視線をアスカロトに移すと、ぶっきらぼうに俯く彼の顎をつかんで自分に向けさせた。
「誤解の無いように言っておくが、私はお前を助けたりはしないぞ。お前の身に降りかかる災いは、お前の手で振り払っていくのだ。この魔界で誰かが助けてくれるなんて甘い考えは通用しない」
アスカロトは強くつかまれた顎の痛みに、眉を寄せる。きつい瞳がネルガルを見つめ返した。
「誰も、あんたが助けてくれるなんて思ってやしねぇよ。誰が、お前なんかに・・・」
この数日に植え付けられた絶対的な力の差と立場の差。それを分かっているがゆえに、アスカロトは声を絞り出すように言い返す。ネルガルは濁り無く輝く紫の瞳に、薄く笑った。
「いい度胸だ」
言って、顎から手を離す。アスカロトは離された顎に自分の手をかけると、ネルガルの手の感触をぬぐうように、顎を撫でた。
乾いた蹄の音は軽やかに流れ、黒い蝶の紋がついた鉄製の門の中に吸い込まれる。アスカロトはひとりでに閉っていく門を目で見送ると、馬車の窓から身を乗り出して、前方へ視線をはせた。
鬱蒼と茂る木々の間に、見え隠れする大きな館。来るものを威嚇する荘厳な造りに、その周りを飛び交う蝙蝠が、否応にもアスカロトの恐怖を煽った。
ピカッ
何かが光ったような気がして、アスカロトが空を見上げる。いつのまにかオーロラは消え、低く雨雲が垂れ込めていた。
次の瞬間、轟く雷の音。大木を割るようなその音に、アスカロトがビクリと身を震わせた。
「怖いのか?」
「・・・・別に」
アスカロトの強がりを、ネルガルが鼻で笑う。アスカロトが驚いた自分に舌打ちすると、その舌打ちをかき消すように、大粒の雨が激しい音を立てて降り出した。アスカロトが、叩き付けるような雨に、着ているマントの下で身を竦める。寒くはなかったが、雨は嫌いだった。
次第に馬車の進みが緩やかになる。大きな飴色の扉の前でその動きを止めると、外側から恰幅のいい初老の男が馬車の扉を開けた。
「ようこそいらっしゃいました。足元にお気を付け下さい」
底響きするような低い声。アスカロトは促されるままに馬車を降り、続くネルガルを振り返る。
「どうぞ、ここは濡れますので中にお入り下さい」
ネルガルが降りるよりも早く、男に言われ、アスカロトが館へ足を踏み入れる。そして、中に入った途端、再び襲う雷の音。弾けるように振り返りながら、アスカロトがその場にしゃがみこんだ。
すると、後から玄関に足を踏み入れたネルガルと目が合う。マントの水滴を払いながら、優雅に自分を見下ろす相手に、アスカロトの顔が紅潮した。
「べ・・・別にっ・・・」
何も聞かれていないのに、そう呟いてアスカロトが立ち上がる。執事が二人のマントを預かると、ネルガルが執事に言った。
「突然申し訳ありませんが・・・」
その声が広い館の中いっぱいに反響する。大理石の床が冷たく光った。
「いいえ。ルシフェル様より先ほどお使いが参りました。お話はお伺いしております。どうぞ」
と、執事が先を促す。ネルガルはどこへ行くべきか分かっている足取りで、奥へと歩き出した。
アスカロトはそんなネルガルの後を追うように歩きはじめる。ネルガルとアスカロトの固い靴音が、冷えた空気の中に響き渡り、時折、遠くに雷の音が交じった。
壁のように見えるネルガルの黒い背中を、アスカロトはじっと見つめる。
一体ネルガルが何を考えているのか、アスカロトにはさっぱりといっていいほど分からない。それ以前に、一寸先の自分の姿さえ、全く予測もつかない。ただ、この暗黒の世界は、自分が想像していたものとは大きく異なっている気がした。
天界にいた頃、地獄とはすなわち無法地帯であるようなことを教わった。秩序立った天界とは違い、法も倫理観もないただの吹きだまりだと。そこに存在すること自体が、恥ずべきことである場所だと。しかし、魔界に連れてこられてからというもの、天界のそれとは違うながらも、なにかしら秩序のようなものを感じられなくも無い。先ほどの執事にせよ、ネルガル邸のマリーにしろ、とても理知的な雰囲気を感じる。なにをもってしての天界で、何をもってしての魔界なのかを、アスカロトは分かりかねていた。
ドスッ
顔に衝撃を感じ、自分がネルガルの背中に突っ込んだことを悟る。アスカロトが目を見開いて顔を上げると、振り返ったネルガルと目が合った。
何をしているんだと言いたげに、立ち止まったネルガルがアスカロトを見下ろす。見ると、ネルガルの目の前には大きな木の扉があった。
「いくぞ」
短く言って、ネルガルがノックをする。アスカロトが、小さく息をついた。
キイッ
扉が内側から開いて、身長1メートル程の小柄な少女が顔を出す。メイド服姿の少女は行儀良く膝を折ってお辞儀をすると、身を横に引き、ネルガルたちを中へといざなった。
廊下とはうってかわった暖かな色彩。贅沢なドレープ使いのビロードのカーテンはワインレッド。室内のいたるところにはランプが灯され、穏やかな光を放っている。そのため室内は、外の雨雲とは対照的に、かなり明るかった。
アスタロトは、正面のソファの上に座っていた。カーテンと同じく深いワインレッドのソファ。その上に置かれた毛足の長い毛皮の上で、優雅に足を組んでいる。全身を包む黒い総レースのドレスに、血のように深い赤のレースでできたガウンが、その艶やかな黒髪と見事な対照を成している。豹のように輝く猫科の瞳が、ネルガルをゆっくりと見返した。
「突然の訪問をお許し下さい。アスタロト様」
一礼をして、部屋の中へと進む。部屋の中には他にも同じ年頃の少女が数人仕えており、アスカロトもその少女の一人に促され、奥へと進んだ。
「お前も飲むか?」
上品に微笑んで、アスタロトが金のグラスを掲げる。ネルガルが猫足の椅子に腰を下ろすと、それに微笑んで返した。
「いただきます」
その言葉に、少女の一人が金のグラスを二つ用意する。アスカロトも、差し出されたグラスを当惑の面持ちで受け取った。
ひんやりと冷たいグラスの感触。それはそのままアスタロトの微笑みの冷たさのように感じられる。
皺もしみも無い白く美しい表皮。密度が濃く長い睫毛の下に輝く瞳は、左右で異なる。緑の目の穏やかさと金色の目の射抜くような鋭さが、そのままアスタロトの持つ二面性を表しているようだ。そして、溢れ出る気高さ。誰にも屈服することなどありえない絶対の尊厳を、アスタロトは無言で感じさせた。
「・・・で?」
二人にワインが振る舞われると、アスタロトが小さく聞く。ネルガルはその美しい大公爵を静かに見返すと、その視線をゆっくりとアスカロトへと移した。
「これが堕天をしましたアスカロトにございます。私の元で働くことになりましたので、アスタロト様にごあいさつをと思いまして」
「ふうん」
片眉を上げてアスタロトがアスカロトを見る。アスカロトはその冷たくも艶っぽい瞳に、視線を外すこともかなわず、ただ無言で相手を見返した。
「それで、話のものは見せてもらえるのか?」
柔らかいアスタロトの声に、アスカロトが目を見張る。まさか、こんな所で・・・。
「申し訳ございませんが、それはできません。アスカロトの羽は出すことを禁じられました」
ネルガルが、低いながらもきっぱりとした声で返す。するとアスタロトはつまらないというように、小さく息をついた。
「ルシフェルか。どうしてあいつは、物事を退屈に退屈にしようとする」
ソファの袖に肘をつき、アスタロトが自分の顎に細い指をかける。アスカロトが内心ほっと胸をなで下ろした。
「しかし、下級天使でありながら・・・か。不思議なものだな」
アスタロトの呟きに、アスカロトが顔を上げる。アスタロトは怒っているようでも、まして不満を感じているようでもなく、静かに続けた。
「禁じたところで、隠し通せるものでもあるまい。なにか、考えはあるのか?」
「できるだけ、魔界を離れての仕事をさせようかと・・・」
「ふぅん」
整った柳眉が微かに持ち上がる。アスタロトの長い爪が、金のグラスに触れて、カチリと鳴った。
「お前も・・・共に行くのか?」
金色の瞳の問い掛けに、ネルガルがアスタロトを見る。ネルガルは敬意を失わない穏やかな表情のまま、ゆっくりと返した。
「そうせざるを得ますまい。ルシフェル様の命とあれば・・・」
その言葉の裏に何を見るのか、アスタロトは音を楽しむようにカチカチと爪でグラスを叩く。紅く濡れた口唇が美しく歪むと、緑色の瞳が可憐に微笑んだ。
「お前は本当に、忠実な男だな」
それがどんな意味を含んでいるのか、ネルガルは薄く微笑み、丁寧に返した。
「お誉めいただく程ではないと、思っておりますが」
「そうかな」
アスタロトは言うと、グラスをメイドに渡し静かに立ちあがる。アスカロトが、その動きを静かに目で追った。
「ならば、私の頼みを聞いてみないか?」
「アスタロト様の・・・頼みですか?」
アスタロトは振り返り、優雅に肯く。アスカロトが黙って見つめると、アスタロトがそんなアスカロトを見つめ、言った。
「ルシフェルにも既に話してある。魂の回収を頼みたいのだ。その過程がどうなろうとかまわない。私は貰えるものさえ貰えればいいのだからな」
たかが魂の回収にネルガルを使うなど、本来ならありえないことである。しかし、ルシフェルに話してあるということは、ルシフェルも承知していることなのだろう。ネルガルはもはや反論の余地のないことを悟ると、楽しそうに微笑むアスタロトを見上げた。
「魂の回収ですか。アスカロトにも、いい勉強になるでしょう。で、どこへ・・・?」
「アキラのいう事を聞けばいい。向こうにはあいつもいるだろうから、話は奴から」
「マルコキアス様ですか?」
ネルガルが口にした名前に、アスタロトがふんと鼻で返事をする。少し、不愉快そうにアスタロトが息をついた。
「全く、人間界が好きだかなんだか知らないが。相変わらず物好きな男だ」
アスカロトは二人の会話を全く理解することなく聞いている。意識が他に向きかけると、そんなアスカロトにアスタロトが言った。
「どこまで出来るか知らないが、ここで生き延びようと思ったら誰も信じないことだ。たとえ、それが今、隣りに居る相手でもな・・・」
薄笑いのアスタロトを、アスカロトが真剣な瞳で見返す。外ではひときわ大きな雷が、大地を割るような勢いで鳴った。
「つけ込まれる心なら、開かぬが利口ということだな・・・・」
†††††††