朝になる前に、俺は自分の部屋に帰った。きっと由宇さんは健祐だと思っているのだろうから、それを壊したくはなかった。
もう、自分がどうなろうと構わなかった。病いが移ろうと、親にどう思われようと、そんなことは関係なかった。そしてふと、健祐もこんな風に感じたのだろうか・・・と思った。健祐も、そんな風に由宇さんのことを想っているならいいな、と思った。
部屋に帰ってからも、なかなか寝付けないままに朝を迎え、俺は家の仕事を済ませた。
仕事中も、由宇さんの容体のことが常に頭のどこかにあった。
そして、仕事が終わるや否や、すぐに由宇さんの場所に駆けつけた。
「今日はどうだい?」
俺がいうと、由宇さんはしばらく何も言わずに俺の顔をじっと見ていた。
見えているわけはないのだけれど、どうしても見えているように見えた。
「由宇さん?」
「い・・いえ。今日はちょっと具合が良いみたいです」
いつものように首を傾げて、由宇さんが微笑む。その微笑みが、嬉しかった。
「それは良かった。何か美味いものでも買ってこようか?何がいい?」
「そうですね。でも、宗祐さんのその気持ちだけで嬉しいです」
哀しげに微笑んで、由宇さんが呟く。
「本当に?遠慮しなくていいんだよ」
「いいんです。それよりも、謝らせて下さい」
「謝る?何を?」
心当たりがない。どういうことだろう?
「お世話になってる身でありながら、宗祐さんに手をつかせるようなことをしてしまって・・・」
どうやら昨日のことらしい。俺は思わず笑ってしまうと、手をついて謝ろうとする由宇さんの肩をつかんだ。
「やめてくれよ。ここに来てもらったのだって、俺のわがままなんだ。そんなに気を使われると、こっちの調子が狂う」
「でも・・・」
言いかけた由宇さんが顔をあげる。が、あげた場所が俺の顔の間近だったので、咄嗟に俺は目をそらした。
「い、いいから・・・。そんなにいろんなこと気にしてちゃ、養生できないだろ」
鮮やかによみがえる、昨晩の記憶。でも、今は抱きしめるわけにはいかない。あれは、健祐なのだから。
「な。もういいから」
俺が言うと、由宇さんは布団の上で正座をしたまま、俺を静かに見つめた。
「・・・?」
俺も黙って見つめかえす。すると、由宇さんが俺の顔に手を伸ばしてきた。
「由宇・・さん?」
両手で包み込むように、細い指で確かめるように、俺の顔の上をなでる。あますところなく手が這い回ると、大きな瞳が真正面から俺を見た。
「宗祐さん・・・福耳ですね」
「はぁ?」
俺のあげた間抜けな声に、由宇さんが微笑む。初めて見せた、年相応な笑顔だった。
「ふふっ。良かった」
満足げに呟いて、由宇さんが両手を膝の上に置く。俺は一瞬ぽかんと由宇さんを見て、それから思わず吹き出した。
「何を突然言い出すのかと思ったら。由宇さん、変なの」
彼も、それに応えるように微笑む。心なしか、顔色も良いように見えた。
その日も、いつもと変わらずに、他愛のない会話で日が暮れた。
*****
しかし、事態は二日後に急変した。
熱が下がらず、吐血を繰り返す。俺は両親に小屋への出入りを禁じられた。
それでも、俺は夜になるとこっそり小屋の外に座った。由宇さんが、静かな寝息を立てていることを確認できるだけで、安心できた。
日中は親の目を盗んで、由宇さんを見舞ったが、もはや話すことすら辛そうだった。
どうしようもない自分を、本当に無力だと思った。
「由宇さん・・・本当に、ごめんな・・・」
「どうして・・・謝る・・?」
熱に浮かされた声で、由宇さんが返す。
「由宇さん、こんなに辛そうなのに・・・俺には何も出来なくて・・・」
声が震える。近い将来由宇さんに起こるであろう出来事が、心の底から恐かった。
「宗・・さん。たくさん・・・してくれた。淋しい・・感じ・・なかった」
涙が出そうになるのをぐっとこらえた。由宇さんが頑張ってるのに、俺が泣くわけにはいかなかった。
「ありが・・とう・・・」
彼の微笑みは、いつもと変わらずに優しかった。
*****
さらに数日後、朝食も終わるか終わらないかの時間に、女中が慌てふためきながら走ってくるのを見た。
由宇さんが、消えた。
*****
俺は走っていた。
広い庭の端から端まで、草むらさえもかき分けて探したが、由宇さんはどこにもいなかった。消えたものは、俺のあげた羽織だけ。金も何も持たずに、由宇さんはどこかへ行ってしまった。
行くところなんてどこにもない筈。俺は走って、健祐と住んでいた小屋へ行ったが、そこにも彼はいなかった。
花街。川辺。いない。いない。どこにもいない。
陽は無情なまでの速さで暮れていく。あんな姿で、夜が越せるわけがない。咳が止まらなくなるだろうし、食事だって取ってない筈だ。
「由宇さん・・どこだっ・・・」
つぶやきながら走りつづける。家に帰って確認しても、彼は戻ってはいなかった。
俺は由宇さんの小屋に行くと、誰もいない布団に膝をついて、力なく座り込んだ。
どこに行ってしまったんだろう。どうして・・・行ってしまったんだろう。
うす紫の空が、刻々と濃さを増していく。もう夜だった。
「由宇さん・・・」
薄い布団に手をついて、握り締める。痛いほどに目をきつく閉じると、拳の上に頭を打ち付けた。
どうして最期まで、委ねてくれなかったのだろう。健祐じゃなければ、駄目だというのだろうか。叫び出したい気持ちで何度も頭を打ち付ける。
「俺じゃ・・・駄目なのか・・・?」
肩が震える。気が狂いそうなほどの喪失感。
「由宇・・さん・・っ」
・・・・・・・と、耳に届いてくる太鼓の音。
これは・・・・。
俺は思い出すと、再び小屋を飛び出し、走り出した。
*****
息が切れる。墨色の空に浮かぶ灯り。
雪洞が無数の光を放つ場所に、彼はいた。
初めて彼を見たのと同じ、川岸。
「由宇さん・・・」
呟くと、彼は振り向いて、微笑んだ。
「宗祐さん」
祭り。俺が一緒に来ようと言った・・・。
「どこでやるのか聞いてなかったから、探してしまいました」
微笑んで、彼が首を傾げる。
「由宇さん・・・」
俺は歩み寄ると、有無を言わさずに細い身体を抱きしめた。
「どうして、一人で出てったりしたんだ!本当に、本当にっ!心配したんだからなっ」
「宗祐さん・・・」
川の向こうには、祭りの賑わい。由宇さんはそれを遠くから眺めていた、一人で。
折れるほどに抱きしめられたままじっとしていた由宇さんの腕が、ぎこちなく俺の背に回される。
「すみません」
言いながら、由宇さんが俺の肩に頭を乗せた。
「もう、由宇さん・・・どこにも行かないでくれ。もう、俺なんてどうでもいい。由宇さんが健祐でなくちゃ駄目なら、健祐にだってなるから。俺なんていらないから、由宇さんがいてくれるなら、何も・・・いらないからっ・・・」
叫びながら、涙がとめどなく溢れてくる。
「由宇・・さん・・・っ」
涙で途切れる声。由宇さんは、俺の着物の背を、ぎゅっと握り締めた。
「宗祐・・さん・・・」
見ると、由宇さんの瞳からも、大粒の涙がこぼれている。抱きしめる腕をゆるめると、由宇さんが俺の額に浮かんだ汗を指でたどりながら、切れ切れに呟いた。
「宗祐さんは・・・宗祐さんじゃなきゃ・・・駄目・・です・・・」
俺たちは、そのまま川岸に腰をおろして、対岸の雪洞を眺めていた。由宇さんは、気が抜けたのか、俺の身体に体重を預けて寄りかかるようにしていた。
「横になるかい?俺の羽織を敷いたらいい」
「いえ、この方が・・・」
この前のように言葉を切る。しかし、今度は続けて言った。
「この方が、宗祐さんの傍にいる感じがするんです。声も、良く聞こえますし・・・」
そういうことだったのかと、俺は少し照れくさくなった。
「綺麗ですね・・・光がたくさん・・・」
由宇さんには、細かいものはもう見えない。それでも光だけは感じられるのかもしれない。
「宗祐さん」
「ん?」
「覚えてますか?私が言った、花街の話」
俺の肩に頭を乗せて、着物の袖をつかむ。
「あぁ、覚えてるよ。夜が特に綺麗なんだろ?」
「そうなんです。なんか、この光が、とても似ているような気がします」
「へぇ。こういうものか」
素直に由宇さんの言葉を信じる。これが、花街の灯りに似てるのか。正直いうと、もっと綺麗なものかと思っていた。
「寒くないか?」
返事が、ない。
「由宇さん?」
と、由宇さんの手に触れた。
・・・熱い。
「由宇さん!?」
俺が身体を引いた瞬間に、支えを無くした由宇さんの身体が、がくんと前のめりに倒れた。俺は、かき抱くように由宇さんの身体を抱き起こす。
「由宇さん!!由宇さん!!」
「宗・・祐・・さん」
重たげに瞼が上がる。身体は燃えてるように熱かった。
「由宇さん、すぐに医者に連れてくから。ちょっとだけ辛抱するんだぞ」
「宗・・祐さん・・・」
いやいやをするように、由宇さんがゆるくかぶりを振る。
「え?」
「もう・・・いいです・・」
かすれるような、彼の声。
「いいって・・そんな」
「医者に行っても・・・もう、駄目です」
言って、彼が微笑む。何も、言い返せなかった。
「だったら、もうしばらく・・・このまま・・・」
ぽたっ・・・ぽたっ・・・っと由宇さんの顔の上に、俺の涙が零れる。
「駄目じゃない!駄目・・・なんかじゃ・・・」
言葉が続かない。由宇さんが俺の頬に手を添えると、白い指先を熱い涙が伝った。
「宗祐さん・・・泣か・・ないで・・・」
「いやだ、由宇さん。俺・・・っ・・」
何を言おうとしてるのか、自分でもよく分からない。由宇さんはただ黙って、俺の濡れた頬を撫でていた。
「本当に・・・困るほど、優しい・・人ですね・・・」
嬉しそうに、でも少し呆れたように由宇さんが微笑む。
「でも・・・今日は、夜明け前に・・・帰らないで下さい・・ね・・」
「え?」
「朝まで・・・一緒に・・・」
由宇さんが気付いてる筈はない。由宇さんがあの時夢見ていたのは、健祐なのだから。あの夜、由宇さんを抱いたのも、健祐なのだから。
「由宇さん・・・何・・を?」
この期に及んで認めようとしない俺に、由宇さんは細い首を傾げるような仕種をする。
「健祐さんは・・・・私の、花街での・・・名前しか・・知りません」
「・・・あぁ・・」
小さく肯く。
何を言おうとしてるのだろうか?由宇さんは軽く咳込むと、俺の着物をつかんで続けた。
「由宇は・・・親がくれた、本当の・・・名前なんです」
目を見開いたまま、時が止まった。
瞬時に、言わんとしていることの全てが分かる。健祐は、由宇さんのことを・・・由宇とは呼ばない。
「ふ・・・ははっ・・・ははははっ・・・」
馬鹿馬鹿しくて、笑えてくる。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、涙が、出た。
俺は、何を一人で・・・。
「ふふっ・・・」
由宇さんも、一緒に笑っていた。
全て、由宇さんは知っていたのだ。
知っていて、それで・・・。
「ははっ・・は・・っ・・」
涙で笑顔が崩れていく。二人して、涙でぐしゃぐしゃの顔になりながら、十三夜の月の下で口唇を重ねた。
心が千切れてしまうほど、離したくないと思った。
このまま一緒に逝けたらと、本当に思った。
「宗祐さんに会って・・・はじめて・・・健祐っ・・さんと会ったこと・・・後悔・・しました・・っ・・」
俺の背をかき抱いて、由宇さんが呟く。
「宗祐さんに・・・先に会ってたら・・・こんなに、宗祐さんのこと・・・傷つけずにすんだのに・・って・・・」
「由宇さん・・・」
「ごめんなさい・・・宗祐さん・・ごめ・・っ」
繰り返す口唇を口唇でふさぐ。川の向こう側で揺れる雪洞の灯りが、ホタルのようにきらめいた。
「由宇さん・・・由宇・・・」
きつく抱きしめて彼の名を呼ぶと、彼は泣きながら、それでも嬉しそうに微笑んだ。
*****
彼は、朝が来るのを確認するように、日の出の光と共に眠りについた。
それから数年して、健祐がやくざ者の小競り合いに巻き込まれて死んだとの知らせを受けた。その頃には、家族のものも冷静にそれを受け止めるまでになっていた。
俺は、あのあとすぐに、彼の言った花街の夜を見るべく、足を運んだりした。祭りの雪洞とは比べ物にならない光の洪水に、目が疲れたのか涙がにじんで仕方なかった。
しかし彼の言葉通り、それはたとえようもなく美しく、ともすれば、街角から彼が現れるのではないかという錯覚まで起こさせた。
今では十三夜の頃になると、ふと、夜歩くためだけに花街へ足を運ぶ。
蒼い月が冴える夜、声が聞こえる十三夜。
月のような彼の人は、いまは、もういない。
−了−
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