「被団協」285号  2002年10月


主な内容
1面 原爆症認定申請運動 相談所講習会 
2面  「人生かけて訴える」   安井原爆裁判  米、18回目の臨界前核実験  「核かくしかじか」  
3面 都道府県だより(各地の原爆展など) 海外で被爆の実相普及
4面 相談のまど「介護保険サービスの利用料と被爆者対策の関係」

原爆症認定申請運動大きく広がる 15都道県63人が第2次申請
 

 日本被団協がよびかけている原爆症認定を求める集団申請運動で、9月6日、15都道県の被爆者63人が第2次集団申請をしました。7月9日申請した第1次分76人をあわせ申請者は139人となりました。第3次申請は、12月6日に行なわれます。声明
 今回の県別申請者は、北海道3人、宮城2人、東京4人、埼玉1人、千葉3人、神奈川13人、長野1人、静岡2人、愛知1人、三重1人、石川3人、広島6人、長崎12人、熊本6人l、鹿児島5人となっています。
 申請者数がのびただけでなく、参加県も第1次は8都道県でしたが、今回新しく宮城、埼玉、千葉、神奈川、長野、静岡、三重、鹿児島の8県が加わり15県に。運動は大きく広がりました。
 なかでも神奈川県は、3500人に調査票を送り、その集計をしながら今回は13人が申請。今後もまだ多くの申請者がつづきそうです。
 宮城では、7月の第1次申請を新聞報道でみた非会員(広島被爆、軍人で翌日から救援作業)が「一般市民の被爆は補償されるが軍人は戦争で負傷しても当然と思っていた、対象となるなら申請したい」と名乗りでたもの。はじめて取り組んだ鹿児島でも、一気に5人の申請者が出ました。

 7月9日の認定申請に審査決定でる

 7月9日に原爆症認定いっせい申請をした被爆者に対して、9月9日付けの厚生労働大臣の審査決定がでています。
 本紙の「認定あれこれ」を見ると、申請から決定までの期間が、全体的に以前に比べるとかなり早くなっています。
 一方、1996年に認定申請をして、翌年却下となり、異議申立てを行ない、2000年6月に口頭審査が行なわれた子宮体癌については音沙汰なし、という状況もあります。
 すでに2回にわたって集団申請をした申請も続々決定が出されると思われます。いよいよ集団提訴運動も本格的スタートとなります。



講習会はじまる

 今年の被爆者中央相談所の講習会がスタート。被爆者としての生き方、原爆症認定集団提訴などについて学習し、交流を深めています。

 中国ブロックの講習会が9月26〜27日、岡山市内で開催され、230人が参加しました。
 坪井直相談所理事・日本被団協代表委員の主催者あいさつで始まった講習会は、肥田舜太郎理事長の「一人きりになる日に備えて」の講演。肥田理事長は、「被爆者は黙って死んではいけない。核兵器をなくすために生き、被爆者は大事な人だといわれる生き方をして欲しい」と話しました。
 伊藤直子相談員は、原爆症の認定申請運動を中心に相談事業の課題について報告。
 徳岡宏一郎弁護士は、「被爆者との出会いが私を弁護士にした」と語り、「集団訴訟運動は、非人間的な厚生労働省の機械的な制度運用を変え、被爆者の人生の最後を幸せに全うさせる訴訟」と集団訴訟の意義を語り、「是非協力させてください」と訴えました。
 山本英典日本被団協事務局次長は、最近の核兵器使用を含むアメリカの核戦略に触れ、被爆者として更に核兵器廃絶の声をあげていくことを強調しました。
 参加者は、「肥田先生の話しに感動した」「集団提訴の大切なことがよくわかった」などの感想を寄せていました。

 東北ブロックの講習会が9月4〜5日、青森県三沢市内で開かれ、33人が参加しました。
 肥田舜太郎理事長が「一人きりになる日に備えて」と題して講演。つづいて伊藤直子相談員が相談事業の課題について、原爆症の認定問題を中心に報告。小西悟事務局次長が被爆者運動の課題について報告し、各県から報告を受けて討議を行ないました。
 初めて参加した若い被爆者もおり、被爆者数が少なく、活動にも困難がある東北ですが、医療機関や支援団体からの参加もあって、活気のある講習会でした。今後認定申請者も増える見通しが出ています。



原爆症認定 人生かけて訴える
 

 甲状腺機能低下症で、平成13年に原爆症認定を申請。ことし4月却下され異議申立て中です。
 木山さんが広島市吉島町(1.6km)で被爆したのは、生後2カ月のとき。母スミヨさんが授乳中でした。母子とも吹き飛ばされ気づいたときは全裸。逃げる途中全身に黒い雨を浴びます。意識不明だった木山さんは、体を逆さにして振ったら目をあけました。でも乳を吸う力もありません。
 翌日から母は子をおんぶして爆心地近くへ配給を取りに通います。母は洗面器一杯も下血し、娘は脱毛、下痢、うまく消化できないなどの症状がつづきました。
 「どんどん衰弱してこの子はもうだめだといわれたそうです。でも私の生命力でしょうか、なんとか生きて」
 母が一番心配したのは緑色のゼリー状の下痢をしたこと。「腸をやられたんですね。放射線では臓器をやられ、免疫系がやられ、中から弱っていく。まして私は影響を一番受けやすい乳児。命のもとをやられたんです」。
 いつも脱力感があり無理をすると嘔吐や頭痛に悩みます。24歳で結婚、夫と九州に移って二人の男児を出産しますが体調は悪く、「女がいつも寝ていて家のこともできないのがつらい」。
 一昨年、ひどい疲労と脱力感、脱毛の症状が出ました。「更年期と思っていたのですが、甲状腺腫瘍が確認され、寒いといったら医師はぴんときました」。医師はいいます。「腫瘍は悪性、原爆の影響を否定できない」と。
 原爆症認定申請をすすめられた木山さんは迷います。「母から『認定はむずかしい、あれをもらうときは最後』ときいていましたから」。
 申請が却下されたときも、「もういいと思いました。体がきついから。母がいうとおり『国は却下するのが仕事か。あきらめよう』と」。
 しかし、「私はまだ幸せかもしれない」と思い直したのは、14人の弁護士が集まって「大分原爆症弁護団」が結成され支えてくれたから。「母がいうんです。『ここまでしてもらえるなら、あんたやっぱりもらいなさい。間違いなく死ぬといわれ苦労したあんたが(審査に)通らんようなら、国の方がまちごうとる』と」。
 木山さんは「原爆で死んだ方が楽だった」と思ってきたといいます。「でも、そんなことをいったら原爆でなくなった人のばちが当たりますね。もっと苦しい被爆者の人たちのためにもがんばろうと思いました。ぐちるのはやめて、これが私の人生だと、自分にいいきかせてるんですよ」。

原爆症認定裁判 安井原爆裁判

 北海道の安井原爆訴訟の第14回口頭弁論が8月28日、札幌地裁で開かれ、名古屋大学名誉教授(物理学)で被爆者でもある沢田昭二さんが、原告側証人として法廷に立ちました。
 法廷には、あらかじめプロジェクターが設置され、沢田証人はスクリーンに映し出される図やグラフをもとに広島原爆の特質、原爆放射線の種類、人体への影響と線量の関係などを詳細に証言。国が依拠するDS86が中性子線の影響を過小評価していること、いまだに未解明の問題を「原因確率」などで機械的に線引きしていることの非科学性を指摘しました。
 その上で、原告の安井晃一さんが受けた放射線量は、国が判断した線量よりもはるかに大きい可能性があることを試算してみせました。
 国側の反対尋問は、弁護団が事前に提出した書類の細部に説明を求めることに終始。裁判長から何度も注意を受け、傍聴席から失笑が起こる場面もありました。
 この日は、被爆者15人を含む110人が傍聴。署名2340筆(累計10万816筆)を提出しました。
 次回弁論は10月7日、原告側証人尋問です。

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