■武豊線の話題-お寄せいただいた情報-

●急行編成の間合い仕業   02.10.05 NEW

相互リンクしていただいている「DISCOVER JAPAN」にはキニ26が急行「紀州4号・かすが6号」の先頭で亀山を発車する画像(マスターのラビットさん撮影)があり、この列車が名古屋到着後、車内整備を受けて武豊線の946D(1978.10改正後は948D)になったのではないかという疑問点を掲示板の話題にさせていただきました。参考までに写真を掲載した1979.7.8の948Dの編成を記します。ちなみに当日乗車した普通車扱いのグリーン車、キロ282314は「7号車」でしたが、「紀州4号・かすが6号」の号車番号と一致するそうです。


名古屋←キニ281+キハ575+キハ65508+キロ282314+キハ5710+キハ5871+キハ65510+キハ571→武豊

運用に関する情報を募集していたところ、神奈川県のおさじーさんから自ら調査された情報をお寄せいただきました。


間合い運用の件ですが私も気にかかり、ちょうど先日交通博物館の図書室へ行きましたので一緒に調べてきました。参考にした資料は国鉄本社発行の1978年版の「特急・急行気動車編成順序表」及び「同、運用図表」の2冊です。
 結論から申し上げまして、管理人さまの推測どおり「紀州4号・かすが6号」は948Dに充当されてました。車輌は「名ナコ」で仕業番号は「名11」と「名32」です。編成は上記と同様でした。

←名 キニ26-キハ57(58)-キハ65-キロ28-キハ57(58)キハ57-キハ65-キハ57 [名11]+[名32]

運用のつながりは下記の通りです。

[名11]・905D(紀州5)→925D→906D(紀州4)→948D→953D (*925Dは新宮〜紀伊勝浦の列車)
[名32]・920D925D→201D(かすが1)→236D→241D→4206D(かすが6)→906D(かすが6)→948D→953D 
(*925Dは武豊〜名古屋の列車)

また参考までに高山線急行の間合い運用ですが、朝方に一往復「922D〜927D」として走っていました。これは「うなづき号・のりくら1号」の本仕業前の運用で、車輌は「名ミオ」と「名ナコ」で仕業番号は「太7」と「太13」、「名41」で編成は下記の通りです。

←岐 キハ57(58)-キロ28-キハ28-キハ57(58)キハ58-キハ28-キハ58キハ28-キハ57 「太7」+「太13」+「名41」

おそらく高山線を基準にした岐阜方向なので、名41側が武豊方向でしょうか?運用のつながりは下記の通りです。

「太7」 ・922D927D→701D(のりくら1)→704D(のりくら8)→533D
「太13」・922D927D→701D(のりくら1)→704D(のりくら8)→533D
「名41」・922D927D→701D(うなづき)→6721D(うなづき)→6726D(うなづき)→706D(のりくら10)

以上が資料より読み取れたこと全てです。つたない調査ですが、貴殿HPの充実に手助けできれば幸いです。これからも益々のご発展をお祈りいたします。(02.10.4)

文: 神奈川県 おさじー様

「紀州4号・かすが6号」の編成が武豊線に乗り入れていたことの裏付けが取れました。出典が国鉄本社発行の資料であることも心強いです。朝の1往復は「うなづき号・のりくら1号」前仕業でしたか。確かにこの列車は名古屋到着後、サボを入れ替え、グリーン車のシートカバーを取り付けて高山線の「急行」になっていたと記憶しています。貴重な調査結果を提供いただきましたおさじーさんにお礼申し上げます。
 編成を見ていて残念に思うのが、キハ57が指定されていたのに個別の撮影をしていないことです。同車は横軽通過の際にばねをパンクさせるためでしょうか。空気ばね台車を装備していました。当時はそこまでの関心がなく、外観はキハ58と変わらないと割り切ってしまっていました。(碧)




●乙川駅付近のスクラップ工場に関する情報

02.6.12 NEW

乙川の客貨車解体工場は下の藤井さんがおっしゃるように輸送機工業の事です。乙川駅から左にカーブして、国道247号線も横切って工場の中に入っていました。工場の一番西に線路とホームが有って、そこで解体をしていました。国道247号線からも見えたと思います。今は線路跡も踏切の跡も有りません。線路の跡は大型ス-パーと病院が出来ました。
 今では貨物の解体は衣浦臨海鉄道の半田埠頭駅で行なっています。貨物列車の回送は火曜日と木曜日の夕方のコンテナ列車に付けて回送しています。大府を18:00頃に出ると思います。タンク車、セメント車などを解体しています。何時でも廃車の貨物が止まっています。(02.6.12)

文: 半田の吉田様

今も昔も武豊線は役目を終えた貨車が最後に通る本線ということでしょうか。以前は衣浦臨海鉄道へ直通する貨車もバラエティーに富んでいましたが、今ではフライアッシュのホキとコンテナのコキに限られているようです。もしそれ以外の車種が乗り入れてきたら・・・その貨車は二度と帰って来ないということになるのでしょうか。吉田様、ありがとうございました。(碧)


僕が今勤めている会社の鉄道好きな部長が話してくれたのですが、乙川駅南側に、輸送機工業(株)という会社があります。今はトラックを作っている会社ですが、その会社の中に乙川駅から引き込み線が入っており、その工場内で貨車の解体をしていたそうです。
 その引き込み線の廃線跡ですが、乙川駅西側へ行くと、別のスクラップ工場があります。その工場の敷地が鉄道曲線を描いてます。そして輸送機工業側へ大通りを渡った踏切はありませんが、工場の壁に一ヶ所使われていない門扉があり、そこが引き込み線の入口だったと推測できます。
 ついでに、乙川駅東側の会館に、C11が保存されていますが、(→その後、半田駅前へ移転)そのC11が輸送機への入れ替え機で、その会館への保存の際、乙川駅の側線から保存場所へ線路を引き、C11を設置したと言う話も聴きました。(01.5.25)

文: 愛知県知多市 藤井様

大通りを渡る踏切・・・。ありました、ありました。たしか、警報機ではなく、道路信号機が設置されていたような気がします。展示したスハネ16もおそらくこの踏切を渡ったのが鉄道車両としての最期の姿となったのでしょう。
 藤井さん、部長さん、ありがとうございました。(碧)

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