9月17日(日慶祝大会


7時朝食。今朝の食事は、塩辛い〜。インスタントコーヒー(ほんとにインスタント)で我慢。中国茶を飲みたいけど、何故か?紅茶しかない。7時40分出発。皆さんの集まりが悪い。平頂山へ行く途中、市内を通る。あちこちに労働者が首から「自分に出来る職種名」を書いたプレートをかけて、仕事を待っている。市内を抜けて、山を登っていく。途中、犬と犬が笑い顔で抱き合っている面白い看板を見る。笑えない〜、犬肉専門の食堂だった。この看板の写真を撮りそこなったことを後悔する間もなく、車窓から露天堀を観る。圧巻!!全体からしたら、グランドキャニオンよりは小さいと思うけど、それでもNorth rim くらいの迫力はあった。

その後、平頂山へ:正味20分くらいしか見学の時間がなく、残念だった。半日くらい、時間をかけて見学したい意味のある歴史的な場所だった。記念館を出たところでの父との会話。「。。。すごいとこやなぁ」「うん、凄すぎる。。」父:「結局、戦後、日本兵が口をつぐんでしまったことが問題だわなぁ」とぽつり。いつも、お父ちゃんのぽつりはこわいのだ〜。



目を覆いたくなるような日本軍の残虐行為を今に残す平頂山惨案遺祉記念館
1932年夏、日本軍は平頂山村民3000名を虐殺した累々たる屍の川。
生存者はわずか8名であった。


掘り起こされたそのままに保存されている








平頂山の秋空に建つ殉難同胞記念碑

















何ともいえない気分のまま、市庁舎での慶祝式典へ向かう。21世紀を記念して建てられた21階建ての新しいビル。でかーーい。貧しい町並みとはうって変わって、このあたりは近代的な雰囲気。でも、大きい建物が点在しているので、強風がまともにあたる。ここはいわゆる市役所らしいが、1階に、オフィスや市民のための窓口はなく、いきなりホールになっている。建物に入る際にホールの入り口で、胸に付けるコサージュをもらう。この広い会場で慶祝式典。中央幹部、遼寧省代表、撫順市市長より挨拶などが続き、中帰連の大河原副会長の挨拶に続く。後方の列には、高校生らしき生徒がずら〜っと座っている。(男子学生のみ)式典の最後には、京劇の鑑賞もあって華やかな楽しいひとときだった。最初に京劇の、様々な典型的な動きやキャラクターの説明と披露があり、面白く観た。中でも、子坊主くんのひょうきんな動きと表情がとても愛らしかった。続いて、京劇の有名な場面のダイジェストを鑑賞した。京劇については、ほとんど知らないが、舞台の雰囲気からして、トップクラスの劇団の印象だった。思いがけず、美しい中国の芸術のひとつを見せてもらって感謝でした。お土産に、「戦犯管理所」文字入りの腕時計、撫順市友好協会の文字入りトラベルバッグ、撫順市の鳥「富貴鳥」マーク入りの帽子、中国茶の詰め合わせまでいただき、ほんとに中国側に歓迎されているんだなぁ、と感じた。

午後から、撫順戦犯管理所にて、座談会。100名が入るには、ちょっと狭い部屋のまん中に置かれた長テーブルに、花、花、花の迫力。今回参加の元戦犯20名を中心に座り、金元元所長の挨拶から開始。この中で金元さんが今回初めて言われた内容として、「中央政府からの急な命令で、戦犯1000名分の被服を揃え、3日間で戦犯を安全にハルピンまで移送しなければならなかったこと、「罵ってはいけない、殴ってはいけない、戦犯でも人格を傷つけてはならない」というあくまで日本人戦犯の人格を尊重した人道的措置に対して、どうしても納得出来ず、仕事をやめたいと訴えてきた、中国人管理所工作員(職員):こうした職員の多くは、家族を日本兵に殺された被害者)がいたこと。又、ある職員は、あまりの日本人戦犯の管理所での反抗的な態度に、手を出すことが出来ず、家に帰ってから、あまりの怒りに、自分の頭を叩きながら、泣いた者がいたこと。「どうして自分達がコーリャンを食べているのに、罪人の日本人がいいものを食べるのか!?」と陳情してくる職員。「これは本当にあの毛主席の政策なのか?今から、これが本当に正しいことなのか、本人に問いただすので、北京行きの切符をくれ!」と訴えてきた職員等など。今だから言えるエピソードの数々。金元元所長は、朝鮮族出身で、戦中は、朝鮮を日本軍に追われ、乞食までしたことがあるそうだ。それが、戦後、立場が逆転し、日本人戦犯を教育する仕事をするとは、、、人生はわからない。




*左が元所長の金源さん 右が元指導員で日本語が堪能な崔さん




夜は、戦犯管理所の中庭にて、歓迎晩餐会。特設ステージに電飾。とても素朴。イスもプラスティックの簡単なものだけれど、市庁舎の歓迎とはまた、ひと味ちがう温かいもてなし。ネイティブアメリカンの居留地でのもてなしともまたちがう素朴さと気配り。テーブルの上にはバットに平たく並べられた、ハムや果物。こういう盛り付け方も圧巻!ふと、見ると、取り箸は、一瞬トングに見えるけど、ちりばさみ!だった。しばらく、亡呉先生(日本人戦犯から特に慕われた指導員だった方。戦犯が帰還した後の1957年から戦犯管理所で日本人を指導した件で22年間投獄され(映画「ラストエンペラー」の終わりの場面にこうした模様が出てくる)後に名誉回復された)の息子さんと歓談し、P子ちゃん(母)と夜の管理所内へ。。。ここに6年もいはったんかぁ、夜はやっぱし怖いよな〜、とか、言いながら、所内をもう一度ゆっくり見学。(後日の、「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」でも提案のあった、ここに泊まって、管理所を体感するツアーというのも良さそうだ。。)所内を出て、会場に戻ると、いきなり、金元さんの奥さんが「これ、食べて!残して捨てるのはもったいないから〜」と言って、割り箸でつかんだスイカを顔面に持って来られた。ありがたく頂いたけど、奥さんは誰かれかまわず、これをやってはって、みんな、その迫力に面喰らっていたけど、「え、いいです〜」って断れない、奥さんの「ほんとに捨てたらもったいない、このために準備した食べ物なんやから、食べてって」みたいなあったかい純朴さがあった。なので、おじさんやおじいさんも照れながら、奥さんから口に入れてもらい、甘いスイカをほうばっていた。10年前、北京で度々食べたスイカはこんなに甘くなかったな。。。


*亡呉先生の遺影に感無量で感謝の言葉を語りかける広島県在住の中帰連会員