9月16日(土)

瀋陽へ移動。北京空港へ向かうバスで高橋哲郎さん(中帰連本部 事務局長)と隣り合わせる。改めて自己紹介したり、雑談するうち、中国はほんとに言葉の国ですよ〜、とおっしゃって、新しいコンピューター用語なども日本語なら、そのままカタカナに置き換えるが、中国語では、「電脳」や「黒客」など発音も意味も英語のオリジナルに近い新しい「単語」を作るのが上手い、と。車窓から見える道路脇の看板の文字、面白いですよ〜、と、ほんと面白かったです。

瀋陽までの国内線では、大阪組の井上俊夫さんと隣り合わせて、乗っている時間もわりとあったので、興味深くいろんなお話を伺うことが出来た。井上さん(78)は従軍体験のある、現在も現役でエッセイの書き方や、詩論を教えておられる詩人で、独特の感性をお持ちのようだった。物事の本質を見据えて、とらまえて、感じて、考えて、表現しておられる、という印象。昭和17〜21年頃まで、中国の華中(武漢など)と華北(北京など)で従軍された後、帰国して、約50年間は、ヨーロッパやアメリカに旅をしたことはあっても、戦後は自分が侵略軍の一員として行ったことのある中国へ行くことに抵抗感があり、香港まで行ったが、中国本土へは行かなかった。井上さん曰く「しかし、中国のことを忘れていたわけではありません。どうして忘れることができましょう。」3、4年前から、中国と向き合って、次第に再び訪れたい気持ちになって、友人の橋本さんと南京の「大虐殺記念館」を訪れ、以降、戦争に関して、講演したり作品を書いておられるとのこと。南京大虐殺に関しては、昭和17年当時、井上さんは南京に駐留していたけれど、その当時でさえ、そんな大事件があったという話はなかったそうだ。戦後、帰国して数年経ってから、南京での虐殺事件が明るみに出てきて初めて知ったほど、日本軍は決して痕跡を残さなかったのだとも。自分の視点で書かれたものもあるが、今は戦死した人たちの視点でみる、「戦死した連中は、とてもこんな日中友好なんて、日本と中国が握手するなんて、そんなこと夢にも思わんと死んで行ったんですわ、私はそういう人から今の世の中を見ていきたいんです」

「戦争」という理屈では規程できない不思議な出来事。精神の高揚。苦しいだけじゃ行かない、楽しいこともあったという井上さん。具体的には?「行進している時」「敵を攻撃して、みんなで手をつないで逃げる時」「作戦が成功して万歳三唱した時」そこには、仲間との本物の励まし合いや連帯感があったという。現在の「中帰連」の会員の人たちのような意識を持っている人たちはほんとうに稀だとも、おっしゃった。

でも最終的に行き着くところは「こんなばからしい事で命を落としてはいけない」という事、と井上さんは結んだ。

「極刑に値する戦犯が許されて、しかも50年後にこうして、またその管理所を訪れるなんてことは、世界でも例がないでしょう」とも。

瀋陽に着いて、空港内のトイレに行ったら、ドアを開けたまま、おばさんが用を足していて!びっくりする。その後、専用車3台に分乗して、撫順へ向かう。あたり一面、地平線のなんとのどかな風景。。。が1時間くらい続き、みんな車中でぐっすり、、、起きると、埃っぽい街中を走っていて、アジアの他の街とはまた違う、こういう雰囲気の街は初めてだなぁ、という印象だった。窓から何となく、見ていると、立ち並ぶアパートの窓やベランダから、こちらを見ている人たちがいた。道行く人たちも何となく、私達のバスを見ているので、前方を見ると、パトカーに先導されていた。そういえば、高速道路の料金所も、信号もパスだった。空港から止まることのない、何とスムーズなことか!撫順市が気を使っているのがよくわかる。







50年前には管理所の周辺は何もなかったという。現在はアパート群や商店が建ち並びにぎやかな界隈の中にある、という印象だった。











戦犯管理所を見学。戦犯のいた部屋を見て、会員の山岡繁さんが「これを見てどう思いますか?」と腰掛ける高さの板の間を指してきかれた。え、と答える間もなく、山岡さんは続けて、「これはなぁ、周恩来の人道的配慮なんや。こんな板の間自体、粗末なもんに見えるけど、当時としたら、考えられへん待遇ですわ。ふつう、刑務所いうたら、コンクリートの冷たい床でしょ。でも、戦犯は人道的に扱わなければならない、と、人間性を取り戻すには、まず、生活習慣からと、日本民族の生活環境を整えるという配慮から、このような板の間を作り、その上に畳を敷こうとしたのだという。(残念ながら、当時、畳の入手はむづかしく敷くのは無理だった)「あの、理容室、見ました?あれかて、今、見たら、簡単なもんに見えるかもしれんけど、当時としては、考えられん上等な設備ですよ」そして、コンクリ−トの低いプールのようだけれど、これが浴槽。これも、お風呂につかる習慣のない中国では、異例の配慮で作られている。その他、ゆきとどいた保健関係の対応や、食料の調達。当時、管理所の職員は、コーリャンや粟などの貧しい食事をしていたが、日本人戦犯は、この点でも配慮され食事は日に3食、なるべく日本食に近いものをと、白米が支給され、3回に1度は肉や魚の副食も与えられたとのこと。現在の東北地方を見ても、北京などとは経済格差が感じられ、貧しい印象だった。50年前となれば、もっと貧しかっただろうと、想像できるし、日本戦犯は、本当に丁重に、扱われていたのだ、と実感。優遇されていた印象だ。








改装され新しくなった総合陳列棟内部