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中国、四国、九州 自転車旅行記 昭和49年

西日本の地図を用意して旅行記をご覧頂きたい。

7月10日(水) 曇
出発するか、しないか迷った。しかし猛(私の弟で当時仙台に居住)も今日をおいて仙台にいないということで、午後1時頃出発。(雨が降る気配もあまりなかったので)
4時半頃仙台着。ほっと一安心。途中で向かい風に出くわし苦労する。しかし曇だったので昨年に比べて楽だった。(昨年も福島から仙台経由で東北、北陸、関西、東海、を回った)
本日の走行距離 約80キロ

7月11日(木) 雨
パチンコをやりプラス1400円。フェリーの手続きをする。
本日の走行距離 0

7月12日(金)曇
仙台新港へ行くため、9時10分頃 猛の下宿を出発 9時50分頃着。
フェリーは約1時間おくれて出発。
フェリー 小名浜か日立
写真 仙台新港から名古屋に行くフェリー 
写真 小名浜か日立かよくわからず。
フェリーがかなりゆれた。気持ちが悪いような、なんともないような、変な感じ。
風呂の湯の中に入ると少し落ち着いた。ゆれを気にするとかえって変になるので、なるべくゆれを考えないようにしたり、小説を読んだりした。「青葉繁れる」はおもしろかった。
夜は映画を見た。「ドリフの舞妓はんだよ全員集合」面白かった。しかし食事代が高くて困った。パンで間に合わせようとし、ドーナツを食べたが、気持ちが悪いというのに余計腹の具合が悪くなってしまった。それでしぶしぶカツカレーを食べた。これでなんとか腹の具合が良くなった。

7月13日(土)曇のち雨
フェリーが約1時間遅れて10時半に名古屋港に着いた。下船したのは11時。それから名古屋駅に行く。12時頃 駅に到着。駅の様子を見てから名古屋城へ行く。
名古屋城はやはり大きく今まで見た中で一番大きかった。
名古屋城
それから駅へ行き、パチンコをやりに行く。4時間ねばったが800円の損。スポーツ店に行って防水スプレーを買った時に名古屋駅、特に駅周辺は出ないと言われなるほどと思った。なぜなら俺が見たところ、あまり出ている人はいなかった。名古屋駅で寝ようとしたが、なんだか浮浪者や、目つきの良くない者がいたので、やめにして土曜日の事だしと思い、オールナイトの映画館で寝た。
本日の走行距離 約30キロ

7月14日(日) 曇のち雨
名古屋を朝6時半に出発。しばらく行くと小雨が降り出し、四日市あたりから本降りとなり、大津に行く予定が亀山止まりとなる。ここで我家で扱っているカメヤマローソクが製造されている。
本日の走行距離 約60キロ

7月15日(月) 霧のち雨
霧雨であったが、京都まではと思い、出発。途中から雨に降られた。鈴鹿峠は有名だが、たいしたことはなかった。この峠を超えてから10キロほどは快調にとばしたが、雨が降り出す。雨宿りしながら京都へ向かう。途中から雨の中を走る。大津に入る少し手前で本降りとなるも、かまわず進む。京都に着いた時、雨が夕立のように降り、全身ずぶぬれ。京都駅前のタワーホテルの地下の風呂に入る。200円の銭湯なり。着替えてやっと生き返った。京都駅南口で寝る。
本日の走行距離 約90キロ

7月16日(火) 雨
古本屋から週刊誌を買い読む。京都駅でぶらぶらする。去年京都は2日かけて見たので今年はどこにもいかなかった。

7月17日(水) 雨
祇園祭りの本祭りなので、出物を見に行く。 
祇園 出物
写真 出物
一番前にいる子供が刀で道路の両側からつるした紐を切りながら進む。
京都駅でアメリカから来たという30くらいの黒人の女性と話をした。けっこう通じた。

7月18日(木) 雨のち曇のち晴
今日こそはと小雨の中を明石へと出発。神戸へ着く頃から晴れ間が見えてくる。これに勇気づけられ、明石目標を姫路へと変更。姫路に着く頃は夏空となる。姫路城は駅から真前に見えるすばらしい城だ。 
淡路島
写真 説明 背景の島が淡路島
今まで見てきた城々とはまったく違っていた。なぜなら本丸へ行くまでの廊下や通路、本丸の中までがそっくり昔のままであったからだ。今まで見てきた城は全て鉄筋コンクリートで、中はまったく近代建築そのままで、くだらないものを展示していたり、中には名古屋城のようにエレベーターまであったりして、非常に興ざめだった。
それが姫路城を見て、初めて城がどのようなものであったかを実感としてわかった。姫路城は本当に見る価値が十分ある城であると思う。非常に感動した。
姫路城 1 姫路城 2 姫路城 3 姫路城 4
姫路城 4 の写真は 千姫が住んでいた部屋から撮影した。この部屋だけは畳敷きであった。
姫路駅で寝る。真夜中になっても人通りがたえず、安眠できなかった。
アメリカから来たという夫婦とすこし話をした。あまり通じなかった。
本日の走行距離 約130キロ

7月19日(金) 晴れ時々曇
6時半、岡山駅も又、姫路駅と同じようにうるさいと思ったので、倉敷まで行こうと決心して出発。最初の頃は快調にとばしたが、途中、船坂峠を過ぎるあたりから向かい風がふきはじめ苦労した。こうなるとなぜバイクで来なかったかと後悔したり、いろいろとくだらない事を考えたり、又時として無心になり、ふっとそれに気づいたりする。ぐっと深淵な事を言ってしまった。たまにはこのくらいの事を書かないと気持ちが沈んでしまう。まったく自転車旅行は、慣れるまでは気がめいってしかたがない。
2時頃倉敷駅に到着。駅で一時間ほど休んで大原美術館へ行く。キリコやドガやロダンやルオーなどの有名な絵が結構あった。しかし建物を3分類して、それぞれ別個に料金を払わせられたのにはまいった。しめて学生150円。これが大人なら300円だ。
日本の有名な画家、たとえば岸田劉生などや、版画家の棟方志功などの作品があった。エジプトや東洋の古代の遺品や、日本の陶芸家の作品などはあまりおもしろくなかった。
倉敷駅に泊まる。大体よく眠れた。
倉敷 蔵屋敷
写真 説明 大原美術館近くの蔵屋敷。この付近には昔の建物がたくさんある。 
本日の走行距離 約120キロ

7月20日(土)
6時半 倉敷を出発 竹原に向かう。しかし185号線はずっと遠回りになるというので、少し坂が多いが2号線の西条へと向かう。三原から西条へはかなりの坂だった。
本日の走行距離 約120キロ

7月21日(日)
6時半 出発しようとすると後輪が又パンクしている。これで3日連続パンクだ。まったく出かける気がしなくなってしまう。しかし空気をいれただけでなんとか当分もちそうなので出発する。8時半頃に広島着。しかしタイヤはもうペチャンコ。
平和公園に行ったついでに、近くのガソリンスタンドでなおす。やはり思ったとおり昨日修理した所から空気がもれている。これで同じところを3日連続修理するハメになったしまった。今度パンクしたら自転車屋に持っていくぞと誓いつつ、11時頃広島を出発。
原爆 ドーム
写真 説明 想像していたよりずっと小さい建物だった。

平和公園内の原爆資料館を見る。まさしくこれでもか、これでもかというくらいに原爆の悲惨さ、悲しさを我々に訴える。見に来ているアメリカ人らいし人も肩身が狭そうだった。とにかく残酷さを強調してあった。75年は草木が生えないだろうといわれたのが、その年の秋には雑草が生えてきて人々を勇気づけたと書いてあったところにきた時には、以前からこのことは知っていたにもかかわらず、あらためてホロリとなった。このところだけは英語の解説を読んだがまったく同じことが書いてあったのでまったく責任はないとはいえ、少しは後ろめたさを持って見ていたであろうアメリカ人もこれを読んで、少しはホッとするであろうと思った。
なぜ英語の解説を読んだかというと、時として日本語の解説と違った内容の英語の解説があるからである。
ともかく原爆、水爆はもう御免だという気持ちにさせる。これを見てなんの印象も受けない人は人間ではないと思う。又原爆をかなり近くで受けているにもかかわらず、健在でいるという解説を読んだ時には、また目頭がジーンとしてきた。

暑く日が照る中を岩国に行く。岩国に行くと左方に曲がる道があり、それが錦帯橋への通りだと標識にあったので行くか行かないか迷ったが、どうせ遅れついでだと思い、又後で後悔するのも癪だし、京都で話しをした山口の人も見た方が良いと言ったので、老骨を鞭打って、2号線に後ろ髪を引かれつつ錦帯橋へ向かう。まあまあの橋であった。同じ場面の写真が2枚あるのは一枚目、自動シャッターを引くのを忘れたため、我が勇士を中に入れようと走ろうとしてシャッターを押したら、むなしく、まったく当然に、駆ける間もなく、カチャリとなってしまった。
錦帯橋 1 錦帯橋 2 岩国城

写真 説明 岩国は米軍基地があるのでアメリカ人がたくさんいる。
        岩国城は写真の右上にある。14 15 錦帯橋  16 岩国城
2時頃に岩国を出発。40キロかなたの坂をいくつも超えた徳山へと向かう。空しく時が過ぎた。途中、雷で小雨が降り出した時にはこれは大変だと思ったが、又すぐこういう山の中の中で、小雨が降り出した経験があるので、案ずるよりも生むが易しと、気を取り直してペダルを踏む。まさしく、ほどなくして晴れてきた。ほっとした。
徳山へ14キロの途中でパンク。今度はかなり大きいらしく、すぐに空気が抜けてしまう。それに近くに自転車屋もなく、400円も惜しいので、先ほどの誓いもどこえやら、またまた自分で修理。すぐに穴が見つかり、陽がカンカン照っている中ほっとする。5時ちょっと前に徳山へ到着。北の湖が輪島に2回連続して勝ったのをラジオで聞くことができた。このために早いとこ徳島に行こうとして急いだ甲斐があったというものだ。
今日は徳山駅の前のバスターミナルで寝る
本日の走行距離 約120キロ

7月22日(月)曇、小雨、のち晴れたり曇ったり
徳山駅を7時に出発。曇からすこし小雨が降り出す。サイクリングには一番いいコンディションだ。快調に下関へと駆ける。途中秋芳洞へも行こうかと思ったが、2号線から20キロ以上離れているのであきらめた。唯ひたすら平均速度約25キロで飛ばす。目標の下関駅は約7キロほど横道にそれてるので、関門歩道トンネルを通って門司へ行く。今日は追い風で約110キロ、しかも曇で快調だったが、やはり疲れた。12時半頃門司駅着
関門 海峡

写真 説明 関門橋手前の海が壇ノ浦、右手が本州、左手が九州。
関門トンネルは長さ約700m。海底まではエレベーターで行くのでなんの苦労もなく渡れた。ちょっと拍子抜けした。
このところ京都での3日分をとりかえそうとややハードスケジュールだ。すこしセーブしようと思う。
門司体育館前で寝る。風があって快適な一夜だった。
本日の走行距離 約110キロ

7月23日(火)
6時半まで寝過ごしてしまい、出かけたのが7時頃。しかし疲れはほとんど取れた。
北九州市は細長く、そこを3号線が通っており、しかも坂がかなりあり、信号待ちなどもあり、なかなか距離がはかどらなかった。
とにかくどこでも一般に言えることだが、坂があり、そこを下ったあたりに必ずといっていいくらい信号があるので、一番スピードが出ているときに赤に出くわすとまったく泣けてくる。
途中大宰府天満宮による。天満宮はたいしたことはなかった。
大宰府 天満宮
ここでフィルムの巻き戻しをしようとしたが、巻き戻しができなくなった。それで鳥栖(とす)で写真屋にやってもらった。無料。有難い。
途中又もやパンク。近くのガソリンスタンドで直す。疲れていないせいかあまり苦にならない。しかし、すぐに 又もやパンク。もはや限界と思い、近くの自転車屋で後ろのタイヤとチューブを取り替えてもらう。2800円のところ2500円にしてくれた。この5、6回のパンクはみな後ろのタイヤだったので、これで安心。それからは快調に飛ばし2時少し過ぎに鳥栖(とす)に到着。さっそく駅に行くと、またここも門司駅と同じく一つ一つの座席になっていて、しかも片側に、ひじあてがある形式なので、まったく寝ようとする人を寄せ付けない。ともかく東海道、山陽道、北九州と、自分の寝ようとした駅は西条駅を除いて、人を夜寝せないという考えが、このことから露骨に表れている。まったくこちらはまいってしまう。この点 昨年の東北から北陸での駅は違っている。
今日は約100キロしか走っていないので、疲れはあまりなく、鳥栖に着いて、公園のベンチで少し寝ようとした時も眠くならなかった。今日はこの町の公園に寝る予定。明日は長崎まで(140キロ)行きたいので早く寝ようと思う。

公園や駅や有名地に、最近水飲み場がほとんど無いと言っていいのはどういうわけなのか。これは声を大にして言いたい。清涼飲料メーカーから国鉄や有名地に圧力がかかっていると勘ぐりたくなる。それにそういう飲み物はかえって口の中がべたべたしてきて、水が飲みたくなってくる。自分などは途中、店で飲み物を頼むと必ずといっていいくらい、後で水をもらって飲んでいる。
ともかくもっと水飲み場を作るように政府、地方自治体に要請するものである。これは自分だけではなく、たくさんの人々の声でもあると思う。
本日の走行距離 約100キロ

7月24日(水)曇のち晴れ
鳥栖の公園で昨夜は寝た。良く眠れた。今日は5時半に起きて6時10分に出発。快調に飛ばす。しかしコンクリートの道路は段差があり、スピードが出せないので苦手だ。又アスファルト道路も、古くなると、ヘリに波が出来て閉口する。
長崎に入る前に、ゆるやかなだが、結構長い坂があって、長崎に着いたのが12時50分。今日は今までで一番平均速度が良かった。140キロを6時間40分である。しかし暑くて疲れた。それから飯(長崎チャンポン)を食べた。美味かった。いわゆるサッポロラーメンのように、キャベツやもやしが入っていて、そのほかにチクワ、えび、などが入っていた。
暑い中をグラバー邸や眼鏡橋、寺町通りの興福寺などを見た。暑くて本当に困った。それから銭湯に行ってから平和公園へ行った。小さな公園だった。
グラバー邸の隣の大浦天主堂にも行った。教会とはどのようなものかが少しわかったような気がする。内部はあまり大きくなかった。グラバー邸やオイリー邸やリンガー邸は人がいっぱいであまり感じが出なかった。その点興福寺はほとんど人がいなかったのは良かった。興福寺には、竜舌蘭とかいうメキシコのサボテンの一種があり、60年に一回しか咲かないという花が咲いていて、しかも花が咲くと枯れてしまうという巨大な植物だった。寺町通りには昔の長崎の面影が残っていた。
興福寺 1 興福寺 2 興福寺 3 大浦天主堂
写真 解説 興福寺 3 は境内にある竜舌花 
長崎市街裏通
今日は全部で約150キロ走ったので早く寝るつもり。明日は目標八代。長崎駅の一つ手前の浦上駅でキヨスク(鉄道弘済会)のおばさんがパンとお茶菓子をくれた。金があまり余分にないのと、その行為が嬉しかった。浦上駅で快適な一夜を過ごした。
本日の走行距離 約150キロ

7月25日(木)曇のち晴れ
長崎から一つ坂を超えて茂木へ行き、そこから富岡へフェリーで行く。イギリスから来たという人と話す。英語はなんと難しいことよ。
茂木・富岡間フェリー
富岡・宇土間は海が良く見える。走っているうちに、すんだ海の中に吸い込まれそうな気がしてきて、たびたびハンドルに力が入った。結構美しい、これが汚染されているのかと思うと恐ろしくなった。
富岡から宇土までは調子よく行ったが、それからは晴れて暑くて、なかなかはかどらない。10キロ行くのに2回休息。時速15キロくらいで、のろったら行くと右手の道路の奥に駅らしいものがあり八代より1つ手前の小さな駅だと思い、かえってその方がよく眠れると考え、行ってみると、その木造の駅が八代駅ではないか。熊本県は道路標識がお粗末で困る。時間は4時。フェリーなどで時間を食ったのだ。非常に疲れた。それから銭湯に行くとなんとついに恐れていた事が起こってしまったのだ。つまりこれまで銭湯が休みの日に不思議にぶつからなかったのに、よりによってこのように疲れた時に現実になってしまったのだ。それで日がカンカン照り、尻と手と腰の痛いのを我慢しつつ、別の銭湯を探し意に出かける。幸いな事に近くに見つけることができた。やっと疲れを癒して、駅に行って洗濯を始めたら、蚊の多いこと多いこと。いくら足を動かしても喰らいついてくる。食堂に行って話しを聞いてみると、八代は蚊が多いことで有名で、とても寝てはいられない
と忠告された。しかし俺は日本中の駅で寝ているという自負があったから、あまり気にしなかったが、次の日の朝、眠い目をこするハメになってしまった。まったくひどいなどというものではない。蚊取線香にはあまり期待していなかったが、これがまったく聞かない。蚊を寄せないようにするくらいの仕事はすると考えていたが、まったくだめ。5匹も10匹も編隊を組んで襲いかかる。シャツの上からもステテコの上からも、はてはズボンの上からも刺そうとする。まったく辛い長い一夜だった。しかも牛乳を一度に500cc飲んだので下痢をしており、これまでで一番苦しかった。
天草五橋 1 天草五橋 2
写真 天草五橋から見る瀬戸の海
天草五橋は非常にすばらしかった。また美しかった。真珠の養殖が盛んらしかった。
7月25日は日記も書くのも億劫になり、7月25日は7月26日の夕方、夕立の後風が涼しく、風呂上りの最高の気分で書いている。
本日の走行距離 約120キロ

7月26日(金)
朝6時10分早々に八代駅を退散して串木野へと向かう。
まあまあのスピードしか出ない。腹が減っているからだろう。腹が空いていると口で息をするようになるからわかる。そうでなかったら、大抵の上り坂でも鼻で息をするだけで間に合う。
苦しくなると本気で、今まで上ってきた道をそのままUターンして駆け下りたくなる。そのような衝動を抑えて、ひたすら走る。走る。阿久根、川内間の海は非常に澄んでいて美しかった。このような岩のあるきれいな海がなんの指定もなく無造作にあるということが、なくとなく、日本の南の端に来たんだなあと感じる。しかしここは陽がかんかんで、小さな坂の連続。自転車をおりて写真を撮る気力もなかった。後で考えると残念。川内にさしかかった時、信号器のむこう側が夕立で煙って見えるのに、こちら側では降っていないという現象にあたった。信号が赤になっているので、左側にある電気屋に雨宿り。まったくおかしくなるように出来事だった。そこの若い女の人が出て来て10分ほど話した。牛乳をもってきてくれた。有難い。美味かった。すぐ雨が上がったので出発。
雨上がりの水たまりのある中を走る。自転車が上げる水しぶきが足に当たって気持ちがよい。しかし少し行くと、又暑くなって上り坂。もう尻が痛くて限界に近い。連日約120キロを走っているせいだ。しばらく上って下り、串木野が見えた。
1時10分串木野駅着。小さな市だ。笠間と同じくらいではないかと思う。4時までベンチで寝て、銭湯へ行く。
銭湯に行くのがまったく楽しみだ。少しの事でも、ひどく幸せを感じる。今、最高の幸せ(つまり前に書いたように、夕立あがりの風の涼しい、蚊のいない風呂上り、ベンチに腰掛けている事)の中でこれを書いている。今日は良く眠れそうだ。明日は約100キロなので、そうは辛くなさそう。
本日の走行距離 不明

7月27日(土)曇のち小雨のち曇ときどき晴れ
5時50分起床。昨晩は八代駅での悪夢によってなやまされたのか、あまりぐっすり眠れなかった。しかし蚊にはあまり刺されなかったようだ。
6時半出発。あまりスピードが出ない。上り坂だ。案の定しばらく行くと下り坂になった。ずっと下り坂のまま鹿児島へ。最初桜島が見えなかったが、3号線から10号線へ出ると見えるようになった。しかし雲で頂上が見えない。鹿児島湾は非常に美しい湾だ。島津侯がいた鶴丸城址を写真に撮る。
鹿児島湾に沿って10号線を走る。途中桜島と10号線にのしかかる山を写真に撮った。鹿児島湾沿いの10号線はほとんど平らであった。しかし都城へと行く道は、今回の旅行中、今までで一番苦しい坂であった。傾斜が8度の坂を必死になって上る。途中で自転車を降りようかとも思った。しかし上り坂は途中では自転車を降りないという執念がそれに勝ったかにみえた。というのは、坂の頂上とおぼしき地点から少し手前に食料品店があり、もう頂上までは行けると思ったので、そこで休んでしまった。するとその店の人はここからはゆるいけれどもまだ坂が1キロほどあるということだった。なるぼと行ってみると、ゆるいけれども、上り坂が1キロほど続いた。やる気になれば一気に上れる坂であったと必死に自己満足してみたものの、やはり後味が悪かった。正直いって絶対に、自転車を降りずに上りきる自信はあるのだが………頂上で写真を撮る。
それからはずっとゆるい下り坂で、なんの苦労もなく都城に1時半に到着
自転車の後輪がカタカタいうので、自転車屋で修理してもらう。2000円のところを1000円にしてくれた。本当に助かった。感謝しながら都城駅に到着。蚊がいないので良く眠れそうだ。長イスなのが助かる。しかしハエがかなりいた。
鹿児島 鶴丸城 鹿児島湾と桜島 鹿児島湾と対岸の山 牧の原台地の頂上から見た鹿児島湾
本日の走行距離 不明

7月28日(日)曇のち晴れ
5時40分起床。6時10分出発。少し行くとちょっと上り。それからはずっとゆるい下り。途中からは大淀川と一緒に走る。写真を2枚撮る。ずっとゆるい下りで宮崎へ。宮崎から追い風で快調に飛ばす。しかし太陽が照って暑い。小丸川を渡るあたりから小さな坂の連続になる。2人組みのサイクリストを追い越す。かなりばてている様子だ。良くみると5段変速だ。これではまいるわけだと思った。こちらは追い風に助けられてかなりのスピードで進む。日向の予定を延岡に変更。日向からは坂はほとんどなく、うだるような暑さもあまり苦にならない。追い風に助けられハイスピードで延岡着。12時50分。駅で休んだが疲れが抜けない。良く考えたらこの暑さのせいだ。デパートへ行ってベンチで休む。4時頃 自転車の後輪がガタガタするので自転車屋に修理に行ったら、組合で日曜日はどこの自転車屋も休みだと自転車屋までの道順を聞いた人が言った。こちらはそれでは困る。何軒かはまったく閉まっていた。最後に行った店では8時頃まで置いていくのだったらやっても良いと言ったが、それではこちらが風呂へも、洗濯もできなくなってだめだと言ったら、2、3キロ宮崎よりの辺りは自転車組合に入っていないので、開いているかもしれないと言われて2キロほど後もどりしたら、やっと開いている店があった。
絶望的瞬間から明るい光明が現れた感じだった。その瞬間、どのくらいの料金かなと思い出した。しかし、またまた嬉しいことに、ネジが緩んでいただけ。料金はいらないという事だった。感謝感激。そのでサイクリングをやるという人と少し話しをした。それから銭湯へ行き、駅で洗濯をしようとすると高校生らしい2人づれがサイクリングこれからやるというの、そのアドバイスをいろいろして楽しい一時を持った。今日は延岡駅で寝る予定。
大淀川 大淀川と愛車
写真 大淀川と我が愛車
延岡駅のベンチは例によって一つ一つ別れているベンチだった。一度はこの上で寝てみようと思い、昨晩試した。しかし12時まで寝ていたが、とうとう眠れなかった。うつ伏せになれば背中が、横になればもう片方の横腹が痛くなる。とうとうそれからは床にグランドシートを敷いて寝た。うとうとしたら人間違いされて起こされ、又うとうとしたら駅を閉めると言われ、1時に駅を追い出された。今まで駅から追い出されたのは初めてだあった。というように1時まで眠れなかった。それからは駅の前で寝たが、風が吹いて良く眠れた。
本日の走行距離 約140キロ

7月29日(月)
6時10分 延岡出発。9時20分 佐伯に着。途中峠があったが、ずっとゆるい上り坂で、楽に上れた。また上っている最中の五ヶ瀬川の水がなんともきれいで、景色が良かった。上りを忘れるようだった。写真を2枚撮る。緩い上りだったけれども、眼前に500mはあろうと思われる山々が立ちふさがり、その間をぬって道が走っている。一時はあの高い急な山を上らなければならないのかと考えてゾッとした。佐伯からフェリーで四国の宿毛へ行く。フェリーは冷房が効きすぎて寝袋にくるまって寝た。良く眠れた。
2時着。小さな市であった。そこで飯を食べて2時50分頃、中村へ向けて出発。追い風で快調に飛ばす。恐怖におののく坂もほとんど無かった。
しかし途中なんとなく孤独感を感じた。なぜなら自転車の後輪の軸は、直したばかりなのに、カタカタいうし、速度計はもう壊れかかっていて、自動車があまり走っていないし、国鉄も通っていないし、四国のハテという、まさしく考えれば考えるほど気がめいってくる。なぜこのような事まで書くかというと、後で思い出して一つの励みとしたいからである。しかしこういう時には又小さな事に幸せを強く感じる。昨日140キロ走って、延岡駅に入り、横になった時の気持ち良さ、何事にも換えがたいものである。
宿毛から中村に行く途中 い草を刈り取って干している風景がいたる所で見られる。九州でも少し見うけたが、これほどではなかった。3時40分頃 中村着。そのまま駅へ行く。ほとんど疲れない。今日はここで寝る予定。
五ヶ瀬川と愛車 五ヶ瀬川
本日の走行距離 約90キロ

7月30日(火)
中村駅を6時10分出発。まだ6時だというのに、入道雲が出ている。朝日がそれにあたって本当にきれいだ。朝早く走るのは最高だ。中村から少しの間海岸に沿って走る。途中、後輪のゆるみを自転車屋で直してもらう。
途中入道雲のわきおこる海岸と愛車を撮る。しばらく進むと緩い上りとなる。庭坂峠というちょっとした坂を超える。しかしあまり下りはない。上り下りを繰り返すうち腹が減ってきて飯。豚汁と飯180円。それからも上り下りといつのまにか七子峠の頂上に来てしまった。かなりの高さにあり驚いた。俺はほとんど下まで降りてしまったと思っていたのにである。※写真を1枚撮る。下りはすばらしものだった。約10キロ、それも結構傾斜のある坂であった。それからもまた上り下り、暑くなってきてしかも向かい風、いやになる。自転車の後輪もまた緩みだした。そのうち高知へ近づき、平らな道となり高知着。高知城を見る。昔のままの造り。しかし今度はあまり感動が沸かない。姫路城を見てしまったからだろう。それに城そのものがあまり大きくない。それからはいつものように銭湯に行き駅で洗濯。高知駅は夜閉めてしまうようだ。今日はアーケードの下で寝る。あまり疲れは無い。
太平洋と私 七子峠 高知城 高知城
本日の走行距離 約120キロ

※サイクリングをすると上りよりも下りの方が長いように感じる。これはちょっと考えると反対のように思うかもしれないが、そう感じるのだから仕方が無い。しかも自分でも信じられないくらい確信が持てるのである。

追記 今回の旅は毎日かなり走っているのだが、一向に体重が減らない。気を良くするものだ。良く食べるからだろう。今日はかなりサイクリストと出会い。女性のサイクリストが2人いた。初めてだ。なくとなく嬉しくなる。

7月31日(水)曇のち快晴
昨夜高知駅で寝ようとしたが、サイクリストで満杯。そこでここは旅なれている我輩はアーケードに行って寝る。良く寝られた。といってもいつものように、蚊取線香が切れたり、蚊にさされたりで何回かは起きたが。
朝6時出発。しかし腹がへったので高知市内で飯。実際に出かけたのは6時半。一路室戸へと向かう。少し前まで雨が降っていたので、水しぶきが少しかかる。涼しい中をまあまあの速度で走る。木陰に入るとひんやりとして気持ちが良い。道はほとんど平坦で、だんだん調子が出てきた。10時頃室戸着。ほとんど疲れは無い。
よし、阿南まで行くかと決心し、快調に飛ばす。室戸に入る少し手前から道が悪い。室戸市内も道が狭い。
室戸岬へ着く少し手前からみると、道がずっと室戸岬の山の上へ続いているので、これは大変だと思った。そこで岬へ行く途中で水を飲んで体の準備をしたら、あれは有料道路で国道55号は岬の下を通っていると言われた。ほっとしたが、一方であの上へも上ってみたかったので、ちょっとがっかり。室戸岬を回って追い風に乗り快調に飛ばす。道はほとんど平らだ。しかも出来たばかりとみえて道路瑞のうねりもない。これは楽に阿南まで行けると思ったが考えが甘かった。東洋、海部(かいふ)を過ぎるあたりから小さな坂の連続。風が追い風なのか向かい風なのか刻々と風向きが変わる。陽も強くなってきた。影に入っても涼しくない。まあこれは道路が濡れていないせいもあるようだ。スピードが除々に落ちてきた。牟岐(むぎ)で今日はやめようかと思い飯を食べる。しかしそこの人がこれからはあまり坂は無いというので出発。しかしこの人はなにを勘違いしたのか、坂がますます多くなってくる。救われるのは坂があまり急ではないということだ。日和佐(ひわさ)でやめようかとすると、ちょうどそこでパンク。パンクを直していたら疲れが取れたので阿南目指して出発。しかしかなり疲れてきた。これからはもう1日で200キロ走るのはやめようと思った。阿南から10キロぐらい手前から道が平らになり、なくとか西日の強い中 阿南に到着 コーラ500cc1本 牛乳2本 アイス一個を食べ、飲み銭湯へ直行。風呂の中でも座っているのが苦痛になってくる。今日はこれほど疲れているのだなと、明日のことが心配になってくる。しかし風呂から出て、イスに腰掛けているとなんとなく、疲れがどこかへ行ってしまうようだ。駅に行く途中自転車屋に行って後輪が少し緩んでいるので、直してもらおうと思ったが、スポークが緩んでいるだけだといわれたので、パンクの修理用ゴムを買おうと思っていたが、面白くないのでやめた。
遠方の室戸岬と私 室戸岬
写真 左 室戸岬へ行く途中の室戸岬
写真 右 室戸岬を過ぎてからの峠 中央の煙突みたいなのが灯台だと自分で決め付ける
本日の走行距離 約220キロ
本日は阿南駅で寝る予定

8月1日(木)晴れ
昨晩宮城の名取から来たというホンダの125ccのバイクの浪人中と思われる若者と話をした。10時頃寝ようとしたが、酔っ払いが騒いでしてなかなか眠れなかった。12時頃に寝る。
5時半起床。6時出発。しかし疲れはあまり無い。と思っていたのは大きな誤りだった。
尻が痛い。足はほとんど痛くなかったが、ペダルをくご力が出ない。平坦な道なのだがスピードが出ない。昨日の無理がやはり尾を引いたようだ。だらだら走る。徳島を過ぎて少し行くと吉野川が流れている。思ったよりもずっと大きく川幅は1キロ以上あるようだ。しかも川幅いっぱいに水が流れている。写真を一枚撮る。それからもとろとろと走る。
吉野川と愛車
鳴門海峡も行ってみたかったが、国道からはずれて有料道路になるし、その少し前に休憩した食料品店のおばさんが歌にもあるくらい渦はなかなか見られず、まだ自分も見たことが無いと言っていたので行くのを止めた。
道はほとんど平らだが、なにしろスピードが出ない。あせってくる。しかもますます尻は痛い。なんとか尻をだましだまし走る。しかも、また自転車のペダルを踏むごとにカチカチ音がしだした。後輪そのもののガタガタはあまり無い。とにかくサイクリングをやっている一番いらいらするのは愛車の調子が悪いということだ。いつ、走行に致命的欠陥を暴露して走行不能になるかと思うとまったくひやひやする。
あと250キロあまりだとだましだまし走る。とにかく体がだるい。これで上り下りがあったらかなり苦労すると思われた。
何とか12時頃に高松着。駅の旅行センターの中で横になるとすぐに眠りに落ちた。3時半頃まで眠って、それから洗濯。飯を食べる。カツ丼を頼んだらカツにケチャップらしきものがかかっているヤツ(ちょっと苦しい駄洒落)だった。食べて見ると結構美味かった。
駅周辺をぶらぶらしてから、6時ちょっと前に高松駅前の高松城址のある公園へ行ったが、あと少しで閉めると言われ、金も取られる上に城は無いということなので止める。9時頃寝る。
本日の走行距離 約110キロ

8月2日(金)
昨晩は良く眠れた。高松駅の待合室は夜閉めるので、小荷物扱所の前で寝る。
6時出発。途中パンと牛乳を飲み食い、6時半高松を出る。尻の痛みもだいたい取れた。快調に走ったと言いたい所だが、あまりスピードが出ない。しかし道路は平らだ。坂もあるが小さい坂だった。途中関峠と地図帳に書いてあるので、たいした坂なのかと怯えながら行くとガソリンスタンドの人が言ったように、なんという事もない坂だった。しかし旺文社の全国道路図はなにを基準に峠を書き込むのかわからない。今回の今までの最高の難所だった鹿児島−都城間の急な坂の峠が書き込んでいない。そのほか、結構大きな峠も載っていない。にもかかわらず、関峠のような小さな峠が載っている。これでは坂に挑戦する時、前もって心と体の準備ができないではないか。こちらは上り坂は休まず一気に上るという信念を持ってやっているし、今まで自分としても、それに応えてきたと思っているのに。
関峠あたりからついに速度計の走行距離計が壊れた。速度を示す針の方はなんとか動く。しかしあと何キロで西条なのかわからないのでなんとなくあせる。なかなか時間が経たない。距離計は8836キロを示したままだ。なかなか新居浜から出ない。道の両側の看板を見るが一向に西条の2文字が無い。ますます不安になる。
やった。西条市の標識が見えた。すこし行くと右へ行く道があり、後2キロと書いてある。
やっと12時頃に西条駅着(ちょっと心理描写タッチで迫ってみた)
昼飯を食べ、ちょっと横になる。3時頃目が覚める。暑い。まったく暑い。暑さの巣が体の中にあるようだ。この2日間ペースが遅い原因を考えるとこの暑さにもその一要素があるようだ。朝早くサイクリングをやり始めた頃はまったく気持ちが良い。太陽もまだ赤く大きい。これがサイクリングの醍醐味だと思う。
しかし10時を過ぎると地獄と変わる。なんという暑さだ。思わず深呼吸が出る。風が焼けている。喉が渇く。しかし飲物店は無い。こういう時が一番苦しい。しかし店を見つけて、コーラの大瓶をノドが痛くなるまで飲む。まったくこの瞬間のためにサイクリングをやっているようなものだと考える。
銭湯に行って駅で洗濯。それから夕涼み。最高の時となる。駅の前のベンチで寝転ぶ。空を見ていると自然に歌が出る。今日は西条市の夏祭りのようだ。明日は八幡浜まで行く予定。かなり坂がありそうだ。駅前のバス停留所で寝る。
本日の走行距離 約110キロ

8月3日(土)晴れ
朝5時半起床。太陽が東から出たばかりだ。6時出発。しかし西条市で朝飯。6時半西条を出る。涼しくて良い気分だ。何キロ走ったかも気にしないのでそうちょくちょくメーター見る必要が無い。しかし後で苦しくなってきた時に大変ではないかと少し心配。
少し行くと上り坂。桜三里峠と言うそうだ。あまり急ではない。しかしほとんど8キロは上りだ。途中、写真に撮りたい場所があったが止める。大きな岩の山だ。朝日が照って雄大だった。ずっと下り。最後の頃はだらけてしまった。松山に着いて松山城を下から写真に収める。一番右の黒いのが天守閣だそうだ。同じような建物がいくつかあるので最初はどれが天守閣だかわからなかった。上に登りたかったが、昼間2時3時には走りたくないので、そのまま出発。伊予を過ぎるあたりからまた登り。今度は結構急な坂で、大分距離もある。ファイトが沸いてくる。久しぶりに坂らしい坂にぶつかったので、ちょっぴり嬉しくなる。頂上付近は結構良い眺めだった。それから大洲(おおず)まで25キロがほとんど下り坂。最後は下りも向かい風で、いい加減疲れてしまった。喉が渇いたが、飲物屋が無い。みなドライブインとか食堂だ。やっと見つけて休む。また八幡浜へと出発。また上り坂。しかしあまり長くはない。トンネルが1キロほどあったが自動車があまり走っていないので、排気ガスでのどが痛くなることもなかった。
八幡浜駅に無事1時に到着

今思うとなんとなく旅行が終わってしまった感じだ。まだやり足りない思いがしてきた。まったく現金なものだ。毎日の苦しみが楽しい思い出として脳裏に蘇る。しかし今考えると、サイクリングで本当に苦しいのは午前10時以後であると思う。10時頃までだったら快適なサイクリングが出来ると思う。(つまり4時間程度約80キロが限度)
しかし1日100キロから走るとなるとそうはいかない。朝あまり早いと、かえって自動車で危険だ。夜のサイクリングは言うに及ばない。とすると真夏のサイクリングは不適当だと考えざるをえない。春か秋が気温からみても最も良いと思う。しかし春と秋は長雨がある。その点、夏なら小雨だったらまた涼しくて気持ちが良い。(但しカッパを着けないで)
とするとやはり夏休みという事もある夏にならざるをえなくなる。
今年は昨年(昨年は東北・北陸・関西・東海をサイクリングした。1日平均100キロ)と違い平均すると1日約120キロぐらい走ったので、ちょっと去年よりも苦しかった。(しかしこれは1年というブランクが去年の旅行を生温い記憶の彼方へ押しやってしまったからかもしれない。なぜなら昨年は最初の1週間で7キロ痩せたが、今回はほとんど体重が減らなかったのだから。)

旅の間中、国鉄さんの駅のベンチで座っている時、肩身の狭い思いがした。こちらは国鉄さんに利用させて頂いているだけなのに、堂々と人が立っているのに座っているのが居た堪れなくなって、よく席を立ったものだ。しかしあまり疲れてしまった時などは、そのまま座っていた時もあった。反省しよう。

今年で最後の長期旅行が今終わろうとしている。今になって思うと中国の山陰の方も、萩あたりまでは行ってみたいと思う。しかしこれはやはり終わったという安堵感、満足感がそう思わせる余裕を生み出しているからのように思える。
今度からはバイクで行こうという気持ちが強い。とても自転車では名所旧跡は見て回る余裕が無い。とにかく今サイクリングが終わろうとしている。
八幡浜駅で手荷物扱所に寝ていたら、ここではなく駅の待合室で寝ろと言われた。その人は駅員らしい。初めての経験だ。

8月4日(日)
4時40分起床 5時出発
八幡浜港に向かう。なんとか九州に渡れそうだ。しかし果たして太平洋沿岸フェリーに乗れるかどうかがちょっと不安。なんとかなると思って気楽に考えて別府着。
フェリーから見る別府
写真を2枚撮る。1枚は別府。
一路大分へ。25分ほどで大分着。しかしフェリー乗り場はあと8キロあまり。なんとか乗り場に着いてみると予約でいっぱいだと言う。がっかりした。しかし夏は予約で満員になるのだったら一週間ほど前に電話した時にそのくらいの事は言ってくれても良いのではないかと思った。しかしそこの女子事務員はすいませんでもなんでもない。ちょっと頭に来た。こっちはこれから茨城まで帰らなければならないのだぞ!
少しでもウップンを晴らそうと、ションベンをして水道の水をジャブジャブ使ってやった。
仕方がないので汽車で帰ろうとして

ここでボールペーンのインキがなくなってしまって日記は終わってしまった。
今思うと22歳のものなので恥ずかしいものではあるが、日記そのままにデジタルデータにしてみた。自転車は日通で送り、私は汽車で無事に笠間に帰ることができた。

この旅行ではいろいろな人のいろいろの温かい思いやりでやりとげることが出来ました。感謝したいと思います。

2年をかけた日本一周と、10年ほど前の100坪のドラッグストアさん(現在でも当社の最大のお得意さんの1つ)納品が私の「成せばなる」という自信を持たせてくれた人生最大の経験である。

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