平成12年12月24日掲載

季語のこと

名の知れた詩人が雑誌の俳句欄の選者を降りたそうです。理由は、難解な季語のためとか。本音は、文学的素養も無い素人が難解な季語を殆ど疑うこともなくあやつる、その奇怪さに就いて行けぬ、といったところなのでしょう。でもこれ、俳句人への警鐘の一つといえるかも知れません。実際、季語の中には既に死後に等しいものもあるし、合理性に欠けるものも数々有ります。用いる私どもの方の選択で他人を悩ますことも無くなるはずですが、歴史の遺産を敢えて持ち出されると他人は悩むことに成るでしょう。遺産は遺産として大切に保管、継承、或いは棚上げせよ、と非俳壇詩人たちから俳壇に対して要求書が出た、なんてことにはならないでしょうが。季語は、その一つ一つが日本的感性によって磨きぬかれ、文学的に殆ど完成された態の詩語です。私たちはその一つを借りて、俳句を構成して行きます。文学的素養とか学問的論議にかかずらわない。要は、感性なのです。西洋詩の翻訳詩に端を発してたかだか百年の歴史の詩の感性そのもので季語を理解しようとしても一寸難しいかも知れません。しかし、当代でどうにも通じぬような季語は殊更に避ける自戒が私どもに必要なのは言うまでもないでしょうね。

みみず鳴く疲れて怒ることもなし 波 郷

「みみずは発声器官を持たない。本当は螻蛄の雄の鳴き声を誤ってみみずの声とした」とは歳時記の中での説明です。今では誰知らぬこともないでしょう。有力な季語です。だが、こんなに合理性に欠けた、説得力の無い説明を何の疑念も持たずに居て言いのでしょうか。いい訳がありません。私はこの季語を大変素晴らしいものと思っています。当然、前述のような歳時記の強弁のせいでは有りません。私に取ってみみず鳴くは、夜陰、湿りぬめった泥のうちそとを動き回るミミズが立てる、かすかな水っぽい音を、発声器官を持たぬみみずの声として捉えたいのです。そう捉えるのが俳句的感性と言うものです。歳時記が、本当は螻蛄の声だと言いながら、みみず鳴くを季語としていることは誤解の元であり、みずから俳句的感性を捨て去っているとしか思えないのです。以上の理由で、私は波郷さんの作品からジィィィという地虫の声は聞きません。しじまの中で、泥中をうねりくねるみみずが立てるかすかな音だけが、疲労困憊の耳に聞こえてくるのです。

蛤に雀の斑あり哀れかな   鬼 城

雀 はまぐりとなる。秋の季語です。幻想的で凄いですね。元は日本人の感覚では有りません。明治以前の舶来学問、五経の一つ、礼記・月令中の『雀大水に入って蛤となる』を採ったものですが、器用にも俳界は自家薬篭中の物にしてしまいました。それにしても、ミミズ、蛤、ともにシュールな感覚は大いに自慢できそうです。

私は実作に当たって初学以来全くと言って良いほど歳時記を開きません。耳慣れぬ季語にぶつかった時にのみ、歳時記の知識を借りることにしています。その分、締まらない解説やつまらない例句を読まないで済みます。歳時記は、俳句人が活用するもので使用するものでは有りません。ましてや、例句の換骨脱胎のような悪用はもっての
ほかです。本来季語は、歳時記から拾うべきものでは無いと考えます。万象から感得してこその季語なので、顛倒した歳時記の用法は芳しくありません。難解な季語は充分考証した上で正しく用いるべきですが、それより先に、平易な季語を成るべくお使いになることをお勧めします。ただ、考証嫌いになって欲しくは有りません。難解を難解で済まさぬ努力は大切なものです。 

『坩堝』昭和62年・4月号・火格子より抜粋


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