平成12年6月25日掲載

 

ふ し ぎ の 目

   雪がとけ顔出す熊があくびする   埼玉 ふしぎダネ
  なんだろな、ねエ、これなアに?なんで?どうして?ふしぎダネ
子供は好奇心いっぱい、知識欲旺盛です。そんな子供が俳句を作りました。生まれてはじめての十七音詩です。出来上がったものは平生の 何だろな?ふしぎダネ の姿勢が影を潜めてしまったように見えますが、実は、この詩によって 何故なの?どうしてこうなの? と問い掛けを発している筈なのです。私は今、この ふしぎダネさん にどうやって応えていこうかと真剣に悩んでいます。大人として人間として、もういい加減、汚れてくたびれていますから。

子供の感性をすばらしいと言って誉めそやす向きがあります。実際に、不思議な感性を持つのが子供。私にもそういった時期がかつて有った筈なのですが、今は雲散霧消しています。人として進化を遂げるうち、どこかへ置き忘れて来てしまっている、と言っていいでしょう。
3歳の長男が、春の山の膨らみを見て、 鬼がプウッと吹いて膨らませたんだよ といいました。1歳半の次男は月食を見て、自分を含めた家族みんなで ヨオッ と引き割ったと主張しました。子供の世界は曰く言いがたいものが有りますが、こんなことを言われると親はつい、将来、感性豊かな人間になるだろうな、と誤解し、期待を寄せてしまうのです。実は、乳幼児期の子供はほとんど自分を中心とした世界を気ままに生きており、そこには疑問も恐怖もないのです。ですからこの時期は鬼もさほど怖い存在でもなく、どこにも居り、月も手に取ろうと思えば捕まえることが出来ました。トトロに乗って山野を自由に飛びまわれるのもこの時期。この三つ子の魂、百までと言われるもののなかなか、とても何年も持ちこたえられるものでは有りません。大人がこれらを素晴らしいこととして羨ましがるのは無いものねだりに似た大人の身勝手としか思えなかったのです。所が、年を食うにしたがってこの三つ子の魂こそが大切なのではなかろうかと、事あるごとに感じるようになりました。ピカソは
  幼少時すでに高名な画家に並ぶ絵を画いた 歳老いて漸く童児の心で描けるようになった
と自ら語ったといいます。無いものねだりではなかった、努力して我が物にしたのです。童児の心、自由奔放で怖いものなし、疑うことを知らぬ独断の世界、そんな三つ子の世界が今手に出来たら凄いなと思いますが、凡人には到底無理なことなのでしょうね。
やがて三つ子は脱皮して ふしぎダネ 世代に入ります。数年は髪の後ろに三つ子の独断をチラチラさせながら、愛らしく 生意気 に。
私は取り立てて子供大好きということは有りません。特に、三つ子の場合、その構築された自我の世界に興味はあるのですが、何かというと自分の城、母の懐に駆け入ってしまうのに参ってしまいます。面白いのは ふしぎダネ さんたちです。何でだよウ、という突っ掛かりも対話の導入として適当なものとなりますし、何よりも三つ子の魂の片鱗を持ち合わせているのが興味深々。こんな私が彼らに好かれたら言うことなしなのですが、現実はなかなか。良寛さんの器では絶対無いのです。

とにかくそんな性格からか、むかし、子供らに書道の手ほどきをしていました。或る日のこと。
習い事に飽きてきた子供たちに言いました。
 俳句、作ってみるか?
お品のいい子供たちばかりではありません。多く健康で元気な、いわゆるガキどもです。でも、目が、いっせいに、ふしぎ大好き、になります。まず形の如く季語と五七五の説明。たちまち辟易する子供。季語はともかく、五七五がなかなか。今の子は七五調になじんでいないのです。それでもはじめます。自分の世界を持っていた幼児期を脱して ふしぎダネ の域にいる彼らにとって、思うことを五七五に纏めるのは至難のわざというべきです。言いたいことがいっぱい有るのですから。
 何でもいいよ、思ったこと見たこと、いってみな…春だもん、花も咲いてるしイ…
たすけぶねに乗って女の子が
 うちの庭お花が咲いてきれいだな
観念の中で現れるのは 家の庭 でしかありません。いいでしょう。何で春、何で花なのか、心中疑問が沸騰しているのでしょうが、自分なりの答え、だからきれい、を発見し、しかも表現し得てホッとしています。力を得た元気者が
 オラんちも芝生が生えてきれいだな
あっちでもこっちでもあれがきれいだな、これがきれいだな。どうやら、小さな観念風景の中の疑問は きれい で消えてしまった模様でした。そろそろ題の替え時。
 頭ン中で作った景色だよな。外見て。良い天気。電信柱。ツバメが飛んでら。
直ぐ、電信柱、ツバメと指を折りはじめます。すかさず一人
 電線に ツバメが三羽 ならんでる
どこかで聞いたような。まあいいでしょう。
 それでいいよな。でもなんで三羽?なんで電線に並ぶ?
 友達
 親子
 しゃべってら
 草臥れたんだな
そして
 電線に ツバメが三羽 親子かな
いいじゃないですか。かなが?なら可愛い疑問の世界がどんどん膨らんでいきます。もし、哉だったら、俳句的な断定の仕方としてなかなかのものです。
 電線にツバメが三羽 一羽逃げた
 うん、字余りってんだよ、一羽逃げ でいいよ。
 電線にツバメが三羽 一羽逃げ二羽逃げ三羽逃げて字余り
これで収拾がつかなくなります。
 あのな、今晴れてるよな、もし雨が降ってきたら、降ってたらどうかなあ
 雨降ってたらツバメ飛ばないよ
 飛んでるよ雨ん中でも
 濡れるからヤダなァ
しばらくは静かになります。そして遠慮っぽい女の子の声が
 あのね、雨降りのォ でんせん 風のォ 休み場所
凄いものです。不思議世界。遊んでいるうちに目に見えないものが見えてしまいました。
勿論少女に良いも悪いも分かりません。ただ出来ちゃったのです。こういう場合、激賞は禁物でしょう。素直な感性の発達は普通の生活の中で図る事としたいものです。
とにかくこんな凄いのを聞かせてもらったらもう充分、休憩時間は終わり、つまり、最初で最後の私の子供俳句教室を閉じたのです。

俳句を有季定型の感動律として、作句に当たって感動を不可欠のものと論じもしますが、なんだろな、ふしぎダネ・エイジには感動などお呼びでないかのように無頓着、物事に対して、直接、見て聞いて触って確かめて見なければ納得出来ないのです。その希求が強いだけに、大人が逆立ちしても見えないものが、三つ子の魂の残滓をまだ脳内に相当量止め置いているであろう子供たちには、比較的容易に見ることが出来るかも知れません。
そしてまた、私ども大人の目から見れば平凡この上ない事柄であっても、子供の目には不思議で新鮮で驚きであるわけで、その執拗なまでの何故?なぜ?ナゼ?に大人は答えるすべを失ってしまうことがしばしばです。また、子供の気持ちを汲み取る姿勢がなければ当然子供の なぜ? の信号も見落とす事になります。それらは大人の重大な不勉強・怠慢で、将来の、恐るべきハイティーンを作り出す要因ともなるべきものと考えられるのです。こどもの目を大人はいつも注意深く意識すべきでしょう。

さて、子供の俳句熱がこのところ各地で高まっている、とまあ、これは大人が意図的に高めているわけですが、それはそれとして、俳句愛好者の私としてはありがたい事としています。とにかく子供の俳句は文句なしに楽しいし、嬉しいものです。その気があれば、子供の作品に触れることによって、自身を童心に還すことも可能なのです。ただ、大人の対処の仕方によって、みすみす、貴重な子供の正常な好奇心の芽を摘むようなことも起こりかねず、注意が必要でしょう。大事なことは、子供を虚名好きな嫌味ったらしい俳句人に育てるのではなく、社会にとって有益な一般人に育て上げるための子供俳句運動であって欲しいということなのです。

私は、かつて46時中俳句に埋もれていた頃、思いながらもついに果たせなかった子供俳句との触れ合いを、ふしぎダネさんから貰った俳句作品をきっかけに、この電脳坩堝上で果たすことにしました。俳句ギャラリー内に こども十七音詩「ふしぎの目」 をもうけました。

ここへお立ちよりのお父さんお母さん、お兄さんお姉さん方にお願い致します。
子供さんに少しだけ手を貸して頂き、当俳句サロン 電脳坩堝 ギャラリー「ふしぎの目」欄に作品を出品させてあげて下さい。大切に扱わせて頂きます。
目的とするところは、子供自身の自由な発想による作品発表の場の提供です。いわゆる俳句教室とは違います。ランク付けとか指導とか、大人の手は一切入れない方針です。
ご理解頂き、協力して下さるよう、願い致します。

 

戻る