平成12年5月7日

なぜ新仮名遣いなのか

「俳句とエッセイ」3月号の編集後記の一文。

 …前略…老齢者向きの趣味があってもいっこうに差支えないが、俳句を勉強すると、抹香臭いという印象から、若い人でも老人扱いされるというのは認識不足であろう。
 俳句がなぜ若い人々の間に歓迎されないかということのなかには、原則として、旧かなづかいを使用するという問題が大きいのではないかと思われるが、…中略…今こそ俳句は、おおかたの既製概念から脱しなければならない。たださきにあげたように、俳句にとっての一つの問題は、旧仮名に対する処し方であろうと思われる。…

この問題は、何も今更のものではありません。たいへん大切な句界の命題として、実は真剣に取り組まなければならない筈なのですが、事柄の複雑さについウヤムヤのうち当たりさわりの無い遣り方に拠って、それぞれ自己満足を得ている、というのが現状の様な気がします。

韻文に旧仮名は本当に不可欠なのだろうか。ケースバイケースで答えが出ると言ったら保守派の方々は不満足だろうと思います。しかし、現代人に、中世的な形式、心情そのままの作句を強いる事は時代錯誤としか言いようがありません。言葉は生き物、時代とともに消滅し、新生もします。そんな中で、中世の模倣に憂き身をやつしていたのでは、フォークソング世代から背かれるのは当然の事でしょう。

坩堝は新仮名遣いを採用しています。理由の一つとして、新かな世代が増えつつあるということが挙げられますが、大衆に迎合しようと言うのではなく、実は、新時代にふさわしい俳句の作出への、模索の一つなのです。カイより始めよと言いますが、坩堝は先ずそれを仮名遣いに絞ったわけです。

伝統性の堅持は何もかなづかいによって左右されるものとは思いません。殊に俳句の場合、きわめて独特な日本的な心情を濃密に篭めた季語が既に伝統そのものであり、定型のリズムも季語の情趣が生み出す必然と思われるのです。この辺り、何程旧仮名が介在して力あるものでしょうか。「あぢさゐ」、この語感が素晴らしい、などと言われても、新世代にはツーもカーもないでしょう。ある種の言葉は新かなでは記しようもない、なども聞きますが、笑止な事です。たとえば「てふ」。「といふ」の約ですが、平安時代の歌ことばです。何も現代に無理して使う事もありません。

古典様式のいたずらな模倣は現代俳句の道とは思いません。古典・伝統は大いなる遺産として尊重し、現代性に満ちた俳句の花を咲かせることこそ急務、その手段の一つは、心情的なものより先にかなづかいにあり、と信じています。そしてこのことは、俳句の伝統性を損なうものでは決して無く、句界若返りの特効薬でさえあろうと思うのです。

 以上は昭和57年の坩堝4月号・火格子の私の一文です。18年前のものです。句界から遠ざかって、今はどうなのかは解りませんが、まさか未だに、原則として旧仮名使用、などと言ってる俳句結社は無いものと信じたいのですが。  


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