65年 栗生純夫門 斎藤臥龍に就き俳句を始める
66年 師臥龍と共に俳句月刊誌「坩堝」を創刊 編集・発行人となる
75年 俳人協会・現代俳句協会・長野県俳句協会会員となる
77年 臥龍没後を享けて主宰となる 編集・発行人を兼ねる
俳句作家連盟会員 連盟選者 連盟主催の各地俳句大会選者を勤める
83年 姨捨観月祭全国俳句大会創設の企画に当たり 以後同大会選者となる
89年 NHK俳句教室主催 安曇野俳句大会選者を勤める
句 集 文緒句集 85年刊行
発表活動としては 綜合俳句雑誌「俳壇」・「俳句とエッセイ」誌・各地結社誌等に作品・
エッセイを寄稿
理 念 俳句に就いては伝統派に属するが俳句の近代化を計って枠を設けぬ姿勢を堅持
指導に就いては個性の尊重と伸張を主眼としてそれなりの成果を見た。
俳句人の心得としては 実利を伴わぬ俳句故にややもすると名利に走りがちにな
るのが通例であるので、努めて 俳句人は謙虚で有るべきと説いてきた。 俳句界
から身を引いて四囲を見まわし、改めてその姿勢の間違って居なかった事を再確
認し得た。桑原武雄の俳句第二芸術論は、辺りに存在する俳句人に取って、格好
の反省資料たりうると考える。
91年 家庭の事情(私の事情)により、俳句結社坩堝の主宰を辞し、俳句雑誌坩堝の編
集・発行人を降りる。同時に俳人協会等からも脱会し俳句との総ての関わりを断
った。
長野県出身 現住地 長野県 商業 七十一歳(2000年4月)