自己紹介...

 伊藤文緒と申します。1929年生まれ、71歳になりました。自営業、男性です。スポーツは基本的に苦手としますが、妻と共に、野球は巨人、スポーツ人はウルフ由伸、引退した横綱若乃花の大ファンです。俳句を始めたのは比較的遅く、65年、36歳でした。66年、同志と計らって、俳句雑誌「坩堝」を創刊、編集・発行に当たり、76年からは主宰・編集・発行人として以後も15年間関わってきましたが、91年、事情有って、26年間手塩にかけた俳誌坩堝を振り捨てるようにして一切の関わりを断ちました。勿論、多くの友人たちに迷惑を掛ける結果になったのですが、せめてもの詫びのしるしにと考え、以後、俳壇、他の俳句結社などとは関わることなく、作品の発表活動もしないことを心に誓い、俳人協会・現俳協などの会員も辞し、もっぱら独り、俳句を詠み、読む楽しみを続けるようになって早くも9年が経ちました。言うなれば、まったく無所属の隠れ俳人です。そんな私が電脳とはいえなぜ再び俳句に手を染めることになったのか。この欄を借りて、かいつまんで述べます。暫くお付き合い下さい。私たち夫婦には二人の男児がおります。成長し、遊学の為家を出ます。20年前の事でした。以来、妻と二人の生活が続きました。シンネコでは有りません。最早50才の大台に乗っていた我らです。俳誌発行に躍起になっていた私には寂しいもへったくれも有りませんでしたが、果たして妻はどうだったでしょうか。
 妻は俳句に余り興味を示さぬ人でした。しかし、私が家業をないがしろにしてまで俳句に、俳誌の経営にのめり込んでも、一言たりとも不平不満を口にしたことが有りませんでした。お父さんの俳句が一番好き、などと煽るようなことさえも。亭主の好きな赤烏帽子、仏様のような心で私を好きにさせてくれていました。私はそれを良いこととして好き放題を尽くして居たわけですが、二人住みになって10数年経ったある日、ふっと来し方を振り返って愕然としたのです。今まで俺はこの人に、息子達に一体何をしてやったんだろう、と。それまでにも思わぬ事は無く、何となく己に都合の良い答えを出してお茶を濁し続けてきた私でしたが、なぜかこの時ばかりは深刻に考えこんだのです。大切な子育て、そして費用のかかる習学の時期。すべて私の俳業と同時進行でした。知らぬ間に、とは言えません。さまざま、辛い部分を妻にまくしつけていたのです。
 母思いの息子達、やさしい二人の嫁、孫らに纏わられて幸せそうな妻を見て、反って私は胸が痛む思いに囚われました。私の俳業は妻と子らの犠牲の上に成っていた、とまでの慙愧の念でした。かなり大袈裟ですが、その時はそうとしか考えられなかったのです。俳句を止めよう、もう遅すぎるかも知れないが、せめて妻とだけでも、残った短い年月を睦む為の時間にしたい、と切望するようになり、25年に及ぶ手作りの俳誌を捨て去る方向へ遮二無二突き進んだのでした。
 かくして思いを果たした私に妻は素直に喜んでくれましたが、神様は意地悪で、いい年こいていつも口喧嘩ばっかり、他愛も無いものでそれはそれで楽しいものでは有りましたが。睦みの日々はやっと8年という一昨年秋、病を得た妻は9ヶ月の闘病の末、昨年の夏、世を去りました。
 私は腑抜けに成りました。もうどうでもいいや、という心境です。そんな折り、長男から、
    俳句をやりませんか、今更と思うだろうが、やるんだったらホームページを作ります
    誰にも迷惑掛けず楽しめるよ
 という申し出が有りました。この時私は、25年に及ぶ手前勝手が妻からも息子らからも許されていることを感じました。それでも数ヶ月、考えに考えました。妻にうかがいを立てたかったのです。ようやく、やってみたら?折角あの子が言ってくれているもの、という声が聞こえるようになり、今日、こうして一歩を踏み出すことになりました。
 過ぎた日、アメリカに居た長男夫婦との電子メールのやりとりを、私に顔をくっつけるようにしてコンピューターを覗き込み、驚いたり楽しんだりしていた妻を思い出します。今もきっと私に並んで画面を見ているに違い有りません。