トップ画像集
2008.01.01
熱田神宮
2008年新春の画像は
熱田神宮。
皇位継承の象徴、三種の神器のひとつ、「草薙剣」がご神体である。
国家護持の武の顔である。
残りの二つのうち「八咫鏡」は伊勢神宮に奉られている。熱田と伊勢、東海地方を代表するふたつの神社に神器がふたつ。
東海、侮るべからず。
(3つ目の神器、「八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)・・・読めん)は皇居にあるので、そこのところは、ひとつ。
2008.01.05
クエスチョンマニアの方への新年のサービスショット。
9枚の画像の中に紛れ込んだ異質の1枚はどれ?
8枚の共通点を探し、異質の1枚を炙り出せ。9枚すべての名前、あるいは路線名まで答えられれば、あなたは鉄A級。
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2008.01.15
仁和寺昨年5月、帯状疱疹罹患のためフレッシュ画像が欠乏した際とった苦肉のシリーズ。それが『美の京都、世界遺産シリーズ』
・・・すいません、今思いつきでタイトりました。おまけにパクリも入ってます。(関東圏の方は知らんでしょう。毎週日曜日朝6:15に毎日放送が『美の京都遺産』ちゅう、いい番組をやっとるんですわ)
復活の今回は、仁和寺。
9世紀末、宇多天皇が建立した門跡寺院。かなり広い。そして美しい。
2008.02.01
金閣寺『京都世界遺産シリーズ』も第6弾に。
いよいよ鹿苑寺金閣の登場。
京都観光最大の目玉物件である。
京都と言えば、ゲイシャガールとキンカクジ。日本に観光に来たからには絶対に見て帰らねば末代までの禍根を残す。
そして、金閣寺は、事前に刷り込まれた画像イメージを裏切らない。
たいがいの観光名所は、思っていたほど大きくないし、広くもない。(龍安寺の石庭やマーライオン、人魚像、しょんべん小僧。(見たことないけど海外物件))
あげぞこ物件が多い中でここは正味で勝負ができる。
2008.02.01
金閣寺
ロールオーバーの画像。
既知の方も多いと思うが、この金閣は2代目である。
オリジナルは、昭和25年、同寺の僧侶により放火され焼失した。三島由紀夫や水上勉に題材を提供した事件である。犯人は病死、その母親は自殺している。。
さて、いかにも西洋人の発想だが、途中で手が入った物件は、なかなか世界遺産に認定しないという話を聞いたことがある。金閣寺はすんなりと認定されたのだろうか。



 
2008.02.11
醍醐寺『京都世界遺産シリーズ』第7弾。
醍醐寺。
京都市伏見区(誇り高い京都っ子は『京都府伏見市』じゃないかと心の中で言い換えている)にある真言宗醍醐派の総本山。無論筆者は真言宗にいくつの派があるのかまったく知らない。
開祖は空海の法孫、聖宝(しょうほう)。お山(高野山)を開いた空海は山岳密教の親分である。法統を守れば、やはり山上に寺を建てるのは必然か。標高450mのこの寺域を上醍醐(かみだいご)と呼ぶ。
秀吉の醍醐の花見によって知られる醍醐寺は山下にある下醍醐(しもだいご)である。
2008.02.16
八郎潟秋田から北上する奥羽本線は、男鹿線と分岐する追分を過ぎると、進行方向左手が八郎潟方面となる。
干拓により縮小してしまったが、かつては日本第2位の湖だった。(今では残存湖として十位台後半)
ただでさえ広大な平面が、冬期は雪が積もり(ただし県内では積雪量が少ない地域らしい)フラット感が増幅される。ず〜っと先まで平たい。
2008.03.01
津軽路弥三郎
弘前の郷土料理屋「津軽路弥三郎」
放浪する男のための店である。
帆立の貝殻の上で味噌と溶き卵で帆立を焼き、豆腐・まいたけなどをあわせた「貝焼きみそ」が旨い。
津軽の郷土料理と店の酒「弥三郎」で、津軽の夜はしみじみと更けてゆくのだ。


2008.03.02
最勝院五重塔ロールオーバーの画像を増設。
弘前は寺社が多い。
一国一城の制度下、戦時を想定した外様大名は、部隊駐屯地や砦の役割を寺社に担わせた。
川による防衛ラインのない城下南部に2本の防禦陣地が設定されている。参道上に並ぶ禅宗の寺数が凄い。最勝院はその防衛ラインの東側、川むこうの前哨基地のような位置にある。
2008.03.14
杵築「坂のある城下町」
杵築。
読みは「きつき」。
松平氏3万2千石、国東半島の静かな城下町。
「酢屋の坂」から「志保屋の坂」を臨んだ1枚。
九州豊後路の旅であなたもちょっと寄り道を。
2008.03.23
小倉JR小倉駅にはモノレールが直結している。
何も知らずに駅構内を歩いていると、低いモーター音が頭上から降ってくる。ふと見上げるとモノレールの足が見え驚愕すること請け合い。
かなり新鮮な光景である。ビルからニュッと飛び出すモノレールに、小倉駅がサンダーバード基地と化す。
2008.03.23
小倉ロールオーバーの画像。
朝の小倉駅。
ステーションホテルはその名の通り駅上階にある。
客室の窓から発着するモノレールが見下ろせる。正面にはもう次駅のホームが見える。駅間が短い。
画像左のビルが伊勢丹である。

2008.04.02
永平寺曹洞宗大本山永平寺。
開祖は道玄禅師。
寛元2年(1244年)開山。
七堂伽藍を修行の場として200名を超える雲水が修行に励んでいるのであった。
2008.04.02
永平寺ロールオーバーの画像。
福井からえちぜん鉄道で20分強。
「永平寺口」で下車。
駅前から永平寺行バスで約10分。
深山幽谷の中、冷涼な空気と共に寺が待っている
2008.04.06
千鳥ヶ淵大阪は東京より暖かいはずだが、なぜか毎年、桜の開花は東京が先。今年も東京では4月2日頃が満開だったようだ。京阪では6,7日頃がさかりだろう。画像は、九段の江戸城北の丸千鳥が淵。東京の桜の名所である。
2008.04.13
カツ丼筆者の認定するレアフード、カツ丼部門の4強が揃った。
どこの、どんなカツ丼か?
あなたはわかりますか?




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2008.05.02
坂本

近江坂本は日吉大社の1枚。
4月29日昭和の日、新緑に染まりに比叡山坂本へむかった。
桜が終わり、季節は春から初夏にむけて装いをかえつつある。
カエデの若葉を通して降り注ぐ陽光は、命の煌めきが宿っているようだ。
2008.05.02
坂本ロールオーバーの画像
七尾の狛犬である。
尻尾が七つに分かれている。
日吉大社は山王七社を擁し、御祭神七柱、桃山時代のものとされる日本最古の神輿も七基。七が基本らしい。
この狛犬、けっこう愛嬌のある顔つきである。日吉東照宮、日吉大社の西本営、東本営を問わず、多くの社殿で番をしている。
2008.05.08
金沢金沢城公園に大手門から入ったのは始めてだった。
兼六園の対面の重文、石川門から入城するのが常のこと。
今回の訪沢は「始めて」が多かった。
常宿する片町界隈の反対側、大手町に宿をとると、見慣れた街も別の顔を見せることに気がついた。
20年以上の昔、初めて金沢を訪れたときの想いが蘇った数日。
2008.05.14
金沢_浅野川金沢市街を南北に挟んで川が流れる。
南の「犀川」
北の「浅野川」
度重なる氾濫に「犀川」は男川と呼ばれ、たおやかに流れる「浅野川」は女川と愛された。
川幅の寛闊さを愉しむなら犀川のほとりが望ましい。独り、静かに刻の流れを川面に映し、忘れ得ぬ面影を求めてたたずむには浅野川がふさわしい。
2008.05.14
金沢_梅ノ橋浅野川にかかる七つの橋。
彼岸と盆の中日、真夜中になると人々が数珠を握り、橋を渡り始める。
無言で七つの橋を渡る。
「七つ橋めぐり」と呼ばれる儀礼である。
梅の橋は、浅野川大橋を挟んで中の橋の上流にある。
卯辰山を背景にその袂には東茶屋街が広がり、城下町金沢の艶めいた顔がそこにある。
2008.06.03
万博記念公園
38年前のエキスポ70(万国博覧会)会場跡地は今や、広大な緑地と様々な施設を配したアミューズメントパークと化している。当時9歳の筆者は関東にいたがゆえにあの巨大な祭りの輪に入ることが叶わなかった。
40年近くの歳月を経て見上げる太陽の塔は、しかしまったく色褪せてはいない。天才岡本太郎のなせる技の故だろうか。
2008.06.03
万博記念公園ロールオーバーの画像
園内は幾つかのゾーンに分かれている。太陽の塔の西側には自然文化園があり、広大な芝生に覆われた広場と人工のものとしては思いのほか深い森がある。森の中には「ソラード」と呼ばれる「空中観察路」が走っており、
一方通行のそのウッディな空中歩道の先には遠見の丘が待っている。まるで緑の海に浮かぶ小島のようだ。
2008.06.30
釧路湿原釧路湿原駅は無人駅である。
駅舎はログハウス風。
マニア垂涎の鉄道路線、釧網本線(せんもうほんせん)にある。本線名はつくが、特急・急行は存在しない。釧路駅から快速「しれとこ」で20分、「ノロッコ号」では23分程度。
夏になると、駅のそばで繋留気球があがる。これに乗って釧路湿原を上空から見下ろすこともできるのだ。
2008.06.30
釧路湿原ロールオーバーの画像。
釧路湿原の展望台は何箇所かあるが、これは細岡展望台からの眺め。
「大観望」との別名のとおり、釧路湿原を見晴るかす最も良い位置にある。
湿原内を蛇行する釧路川や西側対面の丘陵までの湿原のすべてが見渡せる。人工の工作物などがほとんど見当たらないところが北海道である。
2008.08.10
沖縄沖縄は那覇空港沖からの1枚。
画像中央より左上が那覇空港のあるあたり。急激に発達した積乱雲からのスコールに空港が包まれている様子。画像右側にくっきりと見える市街との対比が鮮やか。ランディングアプローチを中断し、着陸復航のため旋回中の1枚。
2008.08.18
七ツ釜(呼子)7つの海食洞が高さ20m、幅40mの玄武岩の断崖に穿たれている。
奇観である。
狭いようで日本もなかなかに広い。
場所は佐賀県、唐津市、呼子。
港から遊覧船「イカ丸」に乗って20分程の航走で到着。
潮と波の状態がよければ「イカ丸」は洞窟の中にも侵入するらしい。
2008.08.18
七ツ釜(呼子)ロールオーバーの画像。
外海に出て、奇岩、奇勝を眺めたのは、小浜(おばま)の蘇洞門(そとも)以来だ。この七ツ釜もなんとなく蘇洞門とテイストが似ている。
小浜は鯖で知られているが、呼子(よぶこ)はイカがつとに有名だ。
「萬坊」の「イカしゅうまい」を耳にした人も多いのでは?
2008.09.02
名護屋名古屋ではない。名護屋。
とは言え、名古屋が何県か?と問われて「・・・名古屋県」と応える人もいるくらいだから、どちらも所在地は曖昧かもしれない。(ちなみに名古屋は愛知県。え?知ってる?失礼しました)
名護屋は、佐賀県である。
佐賀県唐津市、東松浦半島の突端にある。(どこだか地図で指せますか?福岡博多から左に海岸線をすーっと指でなぞってゆくと見つかります)
安土桃山の昔、豊臣秀吉の晩節を汚すことになった朝鮮出兵(侵略の言い換え)の前線基地となった名護屋城の天守台跡からの眺め。玄海灘が一望でき、遠く壱岐が見えることもある。
2008.09.13
会津若松筆者を東北好きにした発端の地
それが会津若松
日本人が失って久しい武士の精神風土の薫りが、燻しこまれたように街中に漂うところ
土地の支配者は、しかし江戸期の松平のみならず、そうそうたるもの
名門葦名氏のあと、伊達、蒲生、上杉、蒲生、加藤嘉明と続いている
2008.10.05
鶴岡(山形県) 「海坂藩」
 それは時代小説の大家、藤沢周平氏が好んで使った架空の藩名。
 風景描写に独特の筆致を揮う氏の作風の中で、読者はそこに藩政時代の小藩とそこで営まれる藩士の日常生活をありありと想いうかべる事ができるのである。
 日常の中の非日常、それもまた日常の中に取り込まれてゆく。そんな物語が藤沢ワールドの特徴。
 海坂藩のモデルは氏の故郷「鶴岡」と言われている。(筆者は「飫肥」や「秋月」であってもそれはそれでいいなと密かに思っているが) 鶴岡は、まさに日々の営みに折り目のついたような、そんな気配を感じさせる街であった。(駅前は駄目だよ。ちょんと時間をかけて散歩しましょう)
2008.10.26
酒田(本間家 山形県) 奢侈にすぎると、庄内藩藩府の候補地から外されてしまった酒田。
 北前船の寄港地としての繁栄が、武家からは厭われた。
 酒田か鶴岡が藩府の候補地だったが、三河の土豪感覚の抜けない酒井家は質素倹約の家風の赴くところ、鶴岡に藩庁を置いた。
庄内藩は、正式には鶴岡藩である。
 やがて、藩経営は苦境に陥る。
 大赤字の財政を救うのは酒田の豪商本間家。
あるいは日本一の大地主であったかもしれない。
 本間家は幕末から明治期の藩の窮地をも救うことになる。
 官軍への巨額な賠償金を引き受け、賊軍、鶴岡藩は思いのほか早く旧領に帰ってくることが叶ったのである。
2008.10.26
酒田(本間家 山形県)ロールオーバーの画像。
本間家別邸2階からの眺め。
清遠閣と名づけられた本館は、藩主巡視の際の休憩所となっていたが、明治末に大正ロマンが偲ばれる洋風建築に改築された。
2階の窓のほとんどが手漉きガラスである。
微妙な屈曲率のひずみがガラス越しの光景に味を出している。
手漉きの技術はすでに失われて久しい。ガラスが割れ、補修した部分は現代の透明ガラスとなっている。
電気が酒田市中までしか通っていなかった時代、自家発電装置により明かりを灯した電灯は100年前の骨董品である。
昭和天皇が皇太子の折、この屋敷に泊まったのである。

 
2008.11.09
法隆寺 奈良、斑鳩の里。
聖徳太子により建立された世界最古の木造建築が法隆寺。
日本最古でなく世界最古である。
607年に建てたと、747年の縁起文に書かれているらしい。
140年くらいなら、まだ正確に記憶を記録にできるということか。4世代くらいは経過していると思うがが・・・
1400年ものである。
世界文化遺産への登録はもちろんここが日本初。
2008.11.09
法隆寺(夢殿)ロールオーバーの画像。
旧1万円札(聖徳太子の札)のすかしの図案となった夢殿。
懐かしさと、なぜかしらんが不覚にも
「おお、これが!」という権威性を感じてしまったのは、1万円のせいだ。
八角形の独特な構造である。
政争の都、平城京から距離を置きたかったのか、聖徳太子が住んだ斑鳩宮は、ここにあった。
夢殿は、聖徳太子の没後、その威徳を偲んで建立された。
2008.12.27
岩屋城跡(福岡県太宰府市)5万の大軍が周囲の山野に満ちていた。伊集院忠棟を主将とする島津の大友領進攻軍である。
 大宰府の北面を守る四天王寺山の支峰、標高281mの岩屋山。そこに築かれた本丸で750名の城兵を率いる守将は、高橋紹運(じょううん)。
 大友宗麟の重臣吉弘鑑理の子。1584年宗麟に叛いた高橋鑑種の名跡を継ぎ、岩屋城を任されていた。
 夜明けとともに総がかりをうけた城方は昼過ぎまで果敢に抗戦。そして全滅した。
2008.12.27
岩屋城跡(福岡県太宰府市)ロールオーバーの画像
岩屋城本丸跡に「嗚呼壮烈岩屋城」の石碑がある。
 そこに広がる太宰府市の眺望。
なかなかのものだ。
 紹運の墓は、山を登る車道によって本丸跡とを隔てられた、九州自然歩道沿いの二の丸跡にひっそりと佇んでいる。
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過汲フトップ頁に使用した画像集。
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