銀輪       戻る
 
 走行記録

  京都行3 2018.08.20
  世代交代 2018.06.02
  灘行 2009.08.30
  京都行2 2009.08.08
  京都行1 2008.10.12
  三宮行 2008.09.20
  摂津本山行2 2008.09.14
  大山崎行2 2008.08.31
  高槻行 2008.07.27
  茨木行 2008.06.15
  万博公園行 2008.06.01
  しまなみ海道行 2007.12.06
  摂津本山行 2007.11.10
  木津川行 2007.11.05
  大山崎行 2007.04.29
  箕面行 2005.10.30
  久しぶりのチャリなのに 2005.04.05
  ますます落ち込むチャリへの意欲 2004.06.07
  自転車不毛地帯  2003.12.14
  運動不足ここに極まれり 2003.05.31
  北大阪周遊行 2002.12.23
  なにわ自転車道行(実走編) 2002.12.15
  なにわ自転車道行 2002.12.15
  大阪城へ行こう 2002.03.31
  新大阪出勤行 2002.02.16
  小金井公園編 2001.12.09
  狭山湖行 2001.11.24
  大久保行(出勤編) 2001.11.07
  羽田行 2001.11.04
  大久保行 2001.10.27
  富士吉田行 2001.09.23

 人間最大・最強の筋肉、それは太ももの大腿四頭筋。
 これを休みなく動かし続ける運動、それがサイクリング。
 ハンドルを引き付ける力を利用してペダルを回すので、全身の筋肉も使用。
 前傾した乗車姿勢は、体重をハンドルとサドル、ペダルに分散させ、全身の筋肉をまんべんなく使う。これにより長時間の乗車を可能にし、結果としてエネルギーの消費も促す。
 さらにサイクリングはエネルギー消費とともに、ストレスも発散させてくれる。
 周囲360度の景色を見回すことができ、風や音、においを直接からだで感じ取ることができ、体全体がエキサイティングな刺激を受け、心地よいスピードがそう快感を生む。
(参考:自転車博物館サイクルセンター事務局長 中村博司/日経新聞)
 どうです。なんてすばらしい娯楽の殿堂、サイクリング!
 さあ、あなたもレッツ・チャリ。
 でも・・・
 あのビスタチオの殻のようなヘルメット。
 体のラインが忠実に浮かび上がるパッツンパッツンのスパッツ。
 これでもかというくらいに派手な上着。 
 酒太りでむくんだ顔には絶対にマッチしない細身のサングラス。
 どれをとっても二の足をふませる道具ばかりが目についてしまうスポーツサイクルの世界。

 しかし、悠々チャリンコライフをおくるために必要な心構えをしっかりと身につけていれば、周囲の目を意識することなく気軽にサドルにまたがることができます。
 その心構えとは以下のコンセプトをしっかりと守ること。
「駅前の本屋へちょっと雑誌を買いに行くオヤジ」を装う。
 これです。
 どうです。気が楽になったでしょう?
 たとえ、チャリンコに乗って富士吉田まで行ったとしても、
「駅前の本屋へちょっと雑誌を買いに行くオヤジ」の格好でサドルにまたがることです。
 これですべてのプレッシャーから解放され、今後の人生をすばらしいエコスタイルでおくることが出来ます。

 愛機「羊の革をかぶったママチャリ2世号」

 1995年3月 購入
 ミヤタ自転車製 RBミキスト(ARM−775)
 スポーティなフレーム体で、基本重量が13.3kgと軽く、発売当時にはグットデザイン選定商品。
 アルミパーツを多用した軽量設計(ドロヨケ、ギヤランク、チエンケース、ハンドル他)
 タイヤ  700X28C
 7段内装変速付き (グリップ仕様)
 標準現金販売価格(消費税別) ¥58000
 2001年9月 富士吉田行のためサドルを交換(画像はこの時代のもの)
 2008年9月 サドル磨耗のため交換


 
 細身のタイヤがなんとなくスポーツ車っぽい風格なので、あえて前にかごをつけてもらいました。
 内装7段だが外装15段とギア比が同じだというサイクルスポーツ店のオヤジの言がいたく気に入り購入。しかし、内装変則機のメカニズムは今にいたるまで不明。
 ただし、停止していてもギアをチェンジできるこのシステムは非常に気にいっています。
パパナソニック「ビビ・DX ELD634」ナソニックの「ビビ・DX ELD634」
京都行3   →→back      戻る
 なにごとにつけ責任回避全盛の昨今、まさに『もの言えば唇寒し秋の風』の世の中。
『命にかかわる猛暑』『外に出るな』と謳い続ける気象庁とマスコミに『フンッ!』とそっぽを向き、いよいよ電動アシストママチャリで京都まで行くことにした。
 とは言え、事実37.7度の猛暑日ではあるから、対応は入念に。
 保冷材を保冷バッグに大量にたたきこみ、濡れタオルをそこに放り込んでおく。コンビニで冷凍ペットボトル飲料も購入。
 往復で80キロ強を1日でこぐほどの体力はないから、いつもの京都駅前エルイン京都に宿泊予約をして、夜はビストロをおさえる。
 準備は万端。
 9時25分出発。
 前回、高槻市役所まで試走をしたときよりも風の影響が少ないのだろう。
 快適な走りで、エキスポシティ到着9時50分(所要時間25分)感覚的に5分ほど早い。
 高槻市役所前10時40分(所要時間1時間15分)やはり15分ほど早いピッチだ。
 山崎駅前11時55分(所要時間2時間20分)。
 だが、ここまでで心配していた事態が発生。
 サドルがまったく合わない。
 尻の痛みが絶えがたいレベルにまでなっていた。
 もともとビスタチオの殻のようなヘルメットかぶって、パッツンパッツンのスパッツみたいな格好で車道を疾駆する走り屋ではないのだ。
 基本、歩道を走行する。
 茨木から高槻に至る14号と171号の歩道は、凹凸が激しい。
 前回の試走時に交換したサドルだったが、もはやクッションの役目は果たしえず板のような感触と化していた。
 暑さ防ぎのためのタオルを2枚、サドルにぐるぐるとまきつけ尻をだましだまし走ったが耐え難い尻の痛みに、休憩が多くなり始めた。と、言うか、ここまで休憩はとっていなかった。
 熱中症対策にもいいだろうと、ガード下の日陰で何度も尻を休める。
 かなり体力を消耗したようだ。
 東寺京阪国道口には12時40分(所要時間3時間15分)に到着。
 昔、「エルイン京都」には駐輪場がなかった。露天の駐車場の端にチャリを停めていたのだが、なんと天蓋のある駐輪場が出来上がっていた。
 駐輪し、チェックイン。
 小用を足そうとしたら蛇口の付け根が激痛に襲われた。
 前立腺を圧迫し続けていたようだ。
 真ん中に穴のあるスポーツタイプだったのだが、役に立たなかったか。
 サドルに関してはいろいろ考えねばならないことがわかった。

 夜、ビストロで『大阪から自転車で来たんですか?!』とあきれられながら酒食。
 祇園のバーに寄って夜を愉しんだ。

 翌日、帰阪。
 日中の最高気温はさらに上昇して39.5度
 前日の失敗に懲りて、ほぼ30分ごとに休憩を入れる。
 沿道のマクドナルドに、都合3回は入店。途中、信号待ちのたびにチャリを降り、トントンと軽いジャンプを繰り返す。高槻の自転車屋で、サドルの上を覆うジェル入りのサドルカバーを購入。前立腺圧迫対策の穴はなくなるが、どうせ、昨日、機能しなかったのだ。だったらクッション性重視で当座、逃げてしまおう。
 前日のような疲労感、傷みに消耗することなく帰宅。ただし、8時45分出発で13時到着(所要時間4時間15分)で往路より1時間余分にかかった。

 ちなみにバッテリーは、ハイパワー、オートマチック、ロングドライブの3段階のうち真ん中のオートマチックで通した。ロングドライブだとフルチャージで100キロ対応だが、オートマチックでは73キロとなる。帰宅時、バッテリー残量は60%で41キロとなっていた。


世代交代   →→back      戻る
 2017年3月。22年間、筆者の足として活躍していた「羊の皮をかぶったママチャリ2世号」が忽然と姿を消してしまった。
 マンション改装工事のドサクサと筆者の東京大転倒による運動不能期間が重なり、うやむやのうちに愛機は筆者の前からいなくなってしまった。改修工事の際、駐輪場に放置されていた以前の住人のチャリを処分したのだろう。そのとき混同されたのかもしれないし、盗難にあったのかもしれない。たぶん前者だと思う。空気が抜けてパンク状態であったろうし、半年以上乗っていなかったから埃も積もっていたろう。勘違いされても不思議はない。一定期間、持ち主がいたら名乗り出ろとのタグがかけられていたかもしれないが、マンションの改装工事が終わってから2ヶ月は駐輪場に足をむけていなかった。
 やむをえない。まあ、ブレーキホースに錆が浮き上がり、後輪のディスクブレーキもシャリシャリキーキーと鳴き始めていたので、老朽品としての処分は間違いなく目前だったのだ。
 新しいチャリを買わずに1年間過ごしたが、チャリの遠出という筆者の唯一の運動機会がなくなってしまい、いかんな〜とは思っていた。遠出どころか近場の買い物やクリーニング出しすらままならない不便さに耐えかねてようやくチャリを購入した。
 自宅そばのサイクルショップに出向いたら、なんと電動アシスト自転車専門店に変貌してしまっていた。
 電動アシストチャリ全盛なのだろう。ファミリーが何組も店員から説明をうけている。店頭に順番待ちのリストが掛けられていてそこに名前を記入した。待つことしばし、ヤル気のなさそうな女性店員に接客され、買う気のなさそうな客に値踏みされたようだが、テキパキと電動アシストチャリを購入することにした。
 パナソニックの「ビビ・DX ELD634」
 フル充電に4時間、アシスト距離は100キロと言う。
 京都までの50キロ(正確には42キロ)、ゆとりでアシストしてくれるのが気に入った。
 色は白と赤しかなかった。赤はかなりケバイ赤だった。
 マヨわず、赤に決定。
 嫁さんのチャリを借りて駅前にタバコを買いにいく旦那という偽装ができるのではないかと思ったからだ。

 チャリのデビューは冬物衣料のクリーニング出しというパッとしない仕事から始まった。
 搬入、搬出で都合5回、出動した。
 でかくて重いバッグを2個、ひとつは肩にかつぎ、ひとつは前籠にのせて行く。
 自宅から目的地までは、新御堂を越えて行かねばならない。名にしおう長待ち信号を2回越えねばならないが、実は、新御堂を潜っていく信号レスのコースもある。ただ、行きも帰りも急激な坂を登坂しなければならず、以前のチャリでは積載量オーバーの荷をかかえてこのコースを乗り切ることができなかった。
 それが、どーゆーことでしょー。もー、すっげーラクラクで難所の坂をクリアしてしまった。イケルと思って潜り抜けコースを選んだのだが、まったく楽勝。息もあがらず、足の疲労もない。電動アシストの実力を目の当たりにしたのであった。

 とにかく坂道に強いということがわかったので、次なる実験は、自宅から京都への途上の高槻あたりまで試走してみることにした。
 電動アシストのレベルは3段階ある。マックスレベルにすると走行距離は60キロ、ミドルレベルで90キロ程度。100キロの場合はアシスト力がミニマムでこれは逆に負荷を感じることがわかった。アシストは常にONにしておいてくれと購入時、店員から言われている。
 ミドルとマックスのアシストレベルを混在させつつ、高槻市役所前まで行くことにした。
 片道19キロ。往復で38キロ。
 自宅から万博公園まで30分
 高槻市役所前まで1時間15分
 先代のチャリと走行時間に差はなかった。
 引き返す。
 この行程の難所は、往路の万博公園前の急坂、復路の茨木駅前からのエキスポロードの登り坂、阪急山田駅前から千里南公園まで続く距離のある登り坂の三つである。
この三つの難所が難所ではなくなってしまった。
 それほど電動アシスト自転車は楽である。
 この試走で気がついたことは2点。まず、なにしろ車重が重い。先代のように停車位置からの軽々とした180度方向転換など不可能だ。なににつけ、この車重は制動、機動に影響を与える。なるほど、第二次大戦のドイツ軍の重戦車の運用もこんな制約があったのだな、と思わせるほど以前とは違う感覚が必要になった。
 サドルがママのお買い物仕様なので、長距離の走行には向いていない。尻が痛くなった。この点は帰路にある自転車屋でスポーツタイプのサドルを購入し、改善を試みた。成果は次の試走を待たねばならない。
 とにかく以前のチャリならハヒハヒになりながら登坂した急峻な坂道を難なく越えていく。
 電動アシストチャリのアシスト力は半端ない。
 もう坂道なんてチョチョイのチョイだ。
 時代の変化を感じている。
 でも・・・電動アシストって・・・なぜか、「介護」って言葉が頭に浮かんでくるんですけど…

 その後、沖縄の離島のレンタサイクルで電動アシスト自転車を借りて走行したが、アシスト力はメーカーによって(あるいは製造時期によって)顕著に違うことも知った。少なくとも、離島で借りたチャリのアシスト力は、パナソニック「ビビ・DX ELD634」に遠く及ばないものだった。
灘行  →→back      戻る
 兵庫県立美術館で8月26日から「だまし絵」特別展を開催している。
 M.C.エッシャーやルネ・マグリット、ジョゼッペ・アルチンボルド、歌川国芳など、名前に覚えがなくとも、よゐこの美術図鑑や美術の教科書で一度は目にしたはずのお馴染みの絵が展示されている。
 行っとく?
 兵庫県立博物館は灘にある。
 久しぶりのチャリ西方行である。
 美術館の開館時間10時にあわせて、自宅を7時半に出る。
 その前に衆院選の投票をポチ。
 自宅の斜め前が投票所なので夢のようにお気楽に投票ができる。
 老母を連れて投票。
 さて、出かけるか。

 自宅の裏手にある大阪府民の緑のオアシス「緑地公園」を横断する。
 北大阪急行「緑地公園」駅側から、阪急宝塚線「曽根」駅方面への出口を抜ける。
 曽根停車場線を西進すると「曽根」駅前だ。
「曽根」駅を通貨し、宝塚線の高架をくぐると、勝部寺内線が伊丹空港の滑走路突端をかすめて猪名川沿いに向かっている。この道はほぼ直線路だ。
 ゆっくりとチャリを流す背に虫の音が追いかけてくる。
 吹きつける風が爽やかだ。すでに秋の気配が漂っている。
 猪名川を渡る。 【30分経過】
 対岸に大きなクスノキが見える。
 クスノキはまるで、猪名川とその先の藻川の間にあるこの中州の一角、田能3丁目に結界を張る番人のようにそびえている。
 この一角だけ、まるで時代を逆行したかのような庄屋屋敷然とした家並が連なっている。
 道が細い。
 その細い道が毛細血管のように町内を巡っている。
 若干迷走気味に、それでも方向性だけは失わずに走っていると、首尾よく41号線に出た。
 どことなく異界の気味ある田能を抜け、なぜかほっとする。



 41号線とその先の336号線は再び長い西行きの直線路となる。
 背後の伊丹をテイクオフしたシップがバンクしながら次々と頭上前方を横切ってゆく。ちょうど出発ラッシュ時なのだ。
 JR福知山線、山陽新幹線を越え、阪急伊丹線の踏切も越える。【45分経過】
 御願塚古墳、キューピー伊丹工場を左手に眺め、やがて、直線の途絶える先、先ほどの田能ほどではないが、やや道行きが不安になる武庫之荘8丁目の町割りが待っている。 【1時間経過】
 この一角も町全体の造りが古格だ。
 何とか無事にここも通りぬける。
 1キロほどで武庫川に出る。【1時間10分経過】
 武庫川を渡る甲武橋で171号線に合流する。京都行きでも利用する旧西国街道だ。171(イナイチ)は、茨木の手前で大きく千里丘陵の裏側へ北上してしまう。その大きなループの果て、伊丹の近辺で南下してここに至るのだ。
 筆者の感覚では、武庫川のむこうは神戸圏。こっち側は大阪圏。
 本当は尼崎(あま)も含めて兵庫県なのだが、な〜んとなく大阪圏っぽい。
 関係各位の皆様、気を悪くしたらごめんなさい。
 でも、大阪圏ね。



 阪急今津線の門戸厄神(もんどやくじん)駅をかすめ、それまでまっすぐ西に向かっていた走路が南西方面へとやや斜めに下り始める。
 越水で完全に南下を始め、阪急神戸線、JR神戸線を越えれば国2に合流だ。JR西宮駅とさくら夙川駅の中間点になる。 【1時間30分経過】
 国2は走りやすい道だ。
 すぐに夙川公園の夙川橋を渡る。
 緩いアップダウンの連続。
 芦屋駅を過ぎれば、芦屋川。 【1時間45分経過】
 それと気づかぬうちに甲南山手駅、摂津本山駅を通りすぎ、12間道路と交差する。北上すれば甲南大学に至る。
 摂津本山の甲南商店街のアーケード上部の兜を見たら、緩いながらもちょっと息の長い登り坂だ。
 住吉駅前に出た。
 街道ぞいに「住吉神社」がある。その東角には「有馬道の碑」と「西国街道の碑」。 【2時間経過】



 住吉からは新都市交通システムの六甲ライナーが発着している。
 住吉から先はいかにも神戸らしいおしゃれな街並みが続く。
 JRの駅は少ないが、阪急、阪神は、御影、石屋川、など細かく駅を設けている。
 JR「六甲道」駅前には灘区役所がある。
 阪神「大石」駅を越えたところで国2が大きく南に降り始める。阪神はそのカーブの途中で国2を跨ぎ西灘駅に進入する。
 古格な神社が目についたら、それは敏馬(みぬめ)神社だ。神戸でも最も古い神社のひとつ。奈良時代の風土記にまでさかのぼり社の記載が残されている。



 JR灘駅を見て、国2を離れ南下。
 兵庫県立美術館に到着。 【2時間30分経過】

「だまし絵」展と言うが、心底納得できるアートはそんなに多くはない。精密な静物画がいっぱいという感じか。
 それでもパトリックヒューズの「水の都」に出会えたのは大きな収穫だ。
 これはオモロイ!
 ピラミッド(四角錐の頂上部近くをスパッとカットした形)を3つ並べてそのすべての面に運河と建物が描かれている。
 移動しながら見ると、遠近法で表現された街が立体的に浮かび上がってくる。
 杉本博司のウィリアム・シェイクスピアの肖像もよかった。
 蝋人形をモノクロームのフィルムに写し、あたかも実際に撮られた肖像写真のような風合いに仕上げたアート。
 この一点しか展示されていなかったが、他にもシリーズがありそうだ。ちょっと写真集が欲しくなる。

 開館時、当日券買いの行列がそこそこの長さだったが、帰るころにはごっつい行列になっていた。

 帰路、途中、食べ放題のしゃぶしゃぶで腹を満たす。
 健康診断が近いので節制した。
 そこで気がついたことがひとつ。
 克己心を試す実験。
 食い放題の店に行く。
 食い放題を注文する。
 でもおかわりはしない。
 ・・・これは辛い。
京都行2  →→back      戻る
 梅雨あけを確信させる抜けるような青空が誘っている。
「さあ!来い!」
「いく、行く〜!」
 ちゅうことでかなりひさしぶりにチャリにまたがった。
 前回、チャリで京都に行ったのは昨年10月。あれから10ヶ月もたっている。
 京都へ行こまい。ケッタで行こまい!(名古屋弁)

 チャリ後輪の空気がマル抜けしているトラブルに出鼻をくじかれたが、虫ゴムの劣化によるものと鋭く見切った筆者の対応でロスタイムは僅かだ。

 出発は9時30分。
 今日の日差しは気合いが入っている。真夏日間違いなし。SPF50、最強の日焼け止めクリームを携え、佐世保で購った海自の海将キャップを頭に乗せる。シャツはかりゆし。完璧さあ。

 最近の筆者は競わない。争わない。闘わない。
 ゆるゆると京都にむかうのだ。
 新御堂をちょっとだけ北上、桃山台と緑地公園の真ん中で東に折れると、千里ニュータウンに出る。再度北上を始め、阪急千里線と併走する。
「南千里駅」を通過し、「山田駅」でモノレールの下を東行。坂を上れば万博公園の西端に出る。
 万博公園前を通過するまでの所要時間は30分。
 エキスポランドの解体工事が始まっていた。
 中国自動車道、下りは大渋滞だ。吹田ランプはびっしりと車列が連なっている。お盆休みが始まっているのだ。
 モノレール「彩都線」に沿って「日本庭園前」まで万博公園を全周するジョギングコース兼サイクリングコースを走り、エキスポロードに乗り換える。そのまま下れば茨木駅西で14号線に合流する。
 出発から45分が経過していた。
 標識には京都まで29Kの表示。

 171号線(イナイチ)と合流する前に水分補給。14号線は、大きく右カーブをして171と合流する。その前に進行方向右側の歩道に移る。(右カーブのところで左側歩道が途切れ、171にうまく合流できなくなるのだ)
 合流部の標識では京都まで33kとある。
 さきほどは29kだったのに・・・

 高槻の手前で171は鍵曲がりの辻となる。城下町の名残だろうか。西国街道だったこの道は西国大名の参勤交代ルートだったはずだが、それ以前は京都への侵攻ルートとも言える。高槻は北摂の有力な防御拠点だ。
 高槻市役所前11時00分。

 171の左側歩道にに走路を移す。
 八丁畷で交錯する79号線171は左側にしか横断歩道がないのだ。(すでに筆者は何度かの京都方面への走行で最適ルートを掌握しつつある)

 JR高槻駅と山崎駅の間にある島本駅は筆者が大阪に移住した7年前にはなかった。JRは、島本と桂川の2駅を新しく作った。
 島本は、阪急の水無瀬駅と並んでいる。駅前のローソンは周辺の学生たちの溜まり場のようだ。ここで2回目の水分補充。氷結「お〜いお茶」もチャリの籠に投げ込んでおく。

 11時50分、大山崎町、西高田の信号で、京都まで17kとある。

 サントリー山崎蒸留所への入り口のサインがあった。
 ここで右側に移っておく。
 大山崎駅前の171は、右側にしか歩道がない。
 それまで互いに距離をおいていた阪急、新幹線、JR京都線が寄り添い始めた。山崎は、京阪間の沖積平野を狭める唯一の隘地なのだ。
 京阪間の攻防戦ではここが雌雄を決する戦場となることが多い

 大山崎の体育館を前に車線を左に移す。
 やはり歩道がこの先で失われるのだ。前回、ここで失敗した。
 名神高速の脇を走る。
 12時すぎ、「焼き肉の半太 本陣 長岡京店」で焼き肉とサービスのウーロン茶をガブ飲み。昼飯で腹を満たし、出立。

 12時30分「向日市」に入った。
「向日」とかいて「むこう」と読む。難読地名だ。
 新幹線の車窓でおなじみのいくつかの建物が目に留まる。ヤマトマネキン物流センター・日本電産・水色ストライプが妙に目立つ通販物流センター。
 桂・京都・洛西方面への大きな分岐でチャリ用歩道橋を登り、京都方面へ進路を定める。歩道橋を下り降りれば、すぐに桂川だ。

 13時05分、桂川渡河。
 ワコールのビルが見える。すでに東行き新幹線の減速ポイントだ。
 13時15分、西大路九条の交差点。その手前から171は九条通りとなっている。
 東寺の五重の塔が見えてきた。

 13時25分、東寺に到着。
 東寺の西角は「京阪国道口」と言う。171と国道1号線が交わるポイントだ。
 チャリ行のときに利用する京都駅前エルイン京都にチェックイン。チャリを駐車場に置き、祇園に行って夜を楽しむのだ。

 翌朝。
 雨。
 天気予報が裏切りよった。
 熱帯低気圧が急速に近づいている。
 今日も明日も雨。雷警報が近畿全域に出るほど大気の状態が不安定だ。
 ポンチョをかぶって汗まみれになって帰る根性なら、ない。
 フロントに電話して、チャリを引っ越し便で送ってもらうことになった。
「レアなケースでございます」
 フロントで言われた。 


南千里駅前の千里ニュータウン界隈 ・ モノレール山田駅からモノレールぞいに東行

大阪モノレール万博公園駅 ・ 高槻市役所

名神高速沿いの妙に鄙びた171号沿線 ・ 新幹線の車窓に映る建物群



桂川

東寺前の壬生通りから東寺を望む ・ 京都八条口のJR京都駅
京都行1  →→back      戻る
2008.09.28
 サドルを交換した。
 1998年、富士吉田まで同行した愛用のサドルが擦り切れて害を為し始めたのだ。
 ズボンの股の部分が真っ黒。
 高槻まで行って帰ってくる。
 もはや散歩がわりの感覚だ。
 勇ましい男性コーラスを流しながら街宣車が走っている。
 街宣車の流す歌って、右翼専用歌なんだろうか?
 職業的右翼音楽作家って存在するんだろうか?
 昔、機動隊の歌と暴力団の歌が似ているので調べてみたら、作詞家が同じだったなどいう天声人語を読んだ記憶がある。
 右翼の歌を作る音楽家はJポップも作っていたりするんだろうか。
 既存の楽曲を買ってきて大音量で流せばああいう風に聞こえるのだろうか。興味はつきない。
 高槻駅前はチャリ置き場に不自由する。有料の置き場ばかりで駅前で気軽に駐輪はできないようだ。

2008.10.12

 駅前にタバコを買いに行くオヤジ偽装でのチャリ転がしはルーティンである。
 筆者は走り屋ではない。
 パッツンパッツンのスパッツやビスタチオの殻はかぶらないのである。

 09:30 自宅出発

 空は晴れ渡っている。
 天は我に味方した。
 が、走り始めると足にかかる負荷がいつもより重い。
 向かい風である。
 どうやら風が敵にまわったようだ。

 新御堂筋を北上。
 吹田箕面線
 南千里茨木停車場線 と道を乗り継ぐ。

 10:00 万博公園 

 閉鎖されて久しいエキスポランドの前を通過し、公園の東端からモノレールの盲腸線「彩都線」下を並走する。
 南千里茨木停車場線(エキスポロード)に再開。
 茨木駅にむかってゆるい坂を下る。
 
 10:15 西駅前 交差点 

 自宅から万博公園まで30分。茨木駅まで45分。
 ここいらへんはルーティンである。
 体育の日を前にした日曜日。
 あちこちから運動会、体育祭のアナウンスが風に乗って耳元に届く。

 11:00 高槻 
 11:35 阪急水無瀬駅前 

 サントリーの山崎蒸留所の前で河川表示が「淀川」から「桂川」にバトンタッチされる。ここいらへんが関西の河川の面白いところだ。水源に近づく山中ならばともかく、市内で河川名が変わるのは関東ではあまりない。

 11:57 大山崎体育館前  

 約2時間半が経過した。
 ここから先は未走破ゾーンだ。
 右側歩道を走っていたら、歩道がなくなってしまった。ちょっとした迂回路をとり、171を横断できる地点を探す。強引に片側3車線車道を走り、171にもう一度合流する。

 12:20 JR長岡京駅前 
 12:25 ヤマトマネキン前 

 ヤマトマネキンは、新幹線のA席車窓でかなり目立つ建物だ。
 その先には24時間闘えますか的な熱血経営者で有名な「日本電産」の本社屋がそびえている。ダイハードの1作目に出てきたナカトミプラザのようなビルだ。これも新幹線の車窓ではかなり目立つ。

 12:40 JR向日町駅前 

 171号線は大きく右にカーブし、その先でいよいよ桂川を渡河する。

 13:00 東寺前 

 ここで、国1と171が合流する。「京阪国道前」という地点だ。上洛の目印にしていたところ。
 宿願の上洛を果たした。
 時にイチサンマルマル。13:00。出発から3時間半が経過していた。 
 京阪国道口から京都駅前まで1.5キロ。
 京都駅前から京都オフィスのある四条烏丸まで2.5キロ
 ちょいと寄り道をしてスタッフを驚かす楽しみができた。


画像左から 東寺・JR京都駅前京都タワー・四条烏丸の京都オフィスが入居しているビル
三宮行
 1週間前、北摂から神戸へのルートを確保した。
 進攻ルートに障害はない。
 今日は、三宮制覇の日だ。
 ちなみに、関東圏の人間がイメージしている神戸とは三宮のことである。梅田=大阪というのも意外と知られていない。
 JRの駅名は「三ノ宮」、阪急、阪神は「三宮」と表示する。
 地名表示は三宮が正しい。

 09:45 出陣。
 10:15 田能遺跡前をパス。所用30分はルーティンの域だ。

 自宅を出て30分圏が確立した。東は万博記念公園、西は田能遺跡だ。
 猪名川を越える。
 ちなみに渡河する河川は、細かいものを除いて大所だけあげれば、猪名川・藻川・武庫川・夙川・芦屋川・住吉川・石屋川・都賀川・生田川といったところだ。
 広い河川敷を持つのは、武庫川くらいだ。
 夙川以西の川は六甲山系から下り落ちる小河川だ。ただし、いずれの川も背後に山を戴き、眺めがいい。神戸のイメージはこれによって現されると筆者は思っている。
 都賀川は、08年7月、河川増水で子供3人、大人2人が犠牲になった、あの川である。

 10:30 御願塚古墳前を通過
 10:45 出発から1時間。武庫川を渡る。171号線(イナイチ)に合流。

 甲武橋で武庫川を渡り終わった171号線は、土手から下り降りる200メートルほどの間、歩道を備えていない。
 車道に乗り入れ、一気に下り下りる。

 11:15 西宮で国道2号に合流。

 以後、2国を走る。自転車用の走行帯も用意された広い歩道があり、このルートは実に気持ちがいい。 

 11:35 芦屋川渡河。
 11:45 JR摂津本山駅前通過。 神戸まであと10キロの表示。

 摂津本山から先は未踏エリアだ。
 JR摂津本山の隣駅「住吉」に向かう国2はゆるい登り坂となる。
 街の景色が神戸らしさを増す。
 阪急・阪神、両線には「御影」駅がある。JRは宅地開発に熱心でなかった国鉄時代の経緯があり、1駅間隔が長い。住吉の先は、六甲道、灘、春日野、三ノ宮の4駅となる。阪神の一駅刻みは細かく8駅、阪急は「住吉」駅はないが、御影以降5駅。
 灘区役所前を通過する頃には町は街に変わっている。
 国2が南下し阪神を潜る緩いS字コーナーは、下り坂だ。歩道を失うこの区間、一気に車道を駆け降りる。国2は阪急、JR、阪神よりも海に近づく。
 この先、三宮まで街を離れ幹線道路沿いの景色となる。
 生田川を越えるとき、上流に新幹線の「新神戸」駅と周辺のビル群が浮かぶ。

 12:35 三宮 到着。

 駅前にて写真をパシャ。
 元町まで向かう。 
 
 12:45 元町の南京町前 到着。

 神戸の南京町は横浜と比べれば小ぶりだ。
 昼食を取り、帰陣。
 途中、伊丹空港の滑走路前で旅客機のランディングを見物。東京在住時の定番チャリルート、羽田よりもランディングが身近だ。
 往復約63キロ。
 西方制覇は成った。いよいよ京を目指す。



夙川(桜の季節が美しい)・芦屋川

住吉川 

石屋川

都賀川

生田川 上流にあるのが新幹線の「新神戸」駅

三宮に到着・元町の中華街入口・大丸前の森谷商店(店頭販売のコロッケが旨い)

伊丹空港
→→back      戻る
サイクリング/富士吉田行
 2001年9月、秋分の日、富士吉田へむかった。
 快晴。空には一片の雲すら浮かんでいない爽やかな秋晴れの1日。まさにサイクリング日和。
 ちなみに日頃の行いのよさゆえか、帰路も往路と同様、ピーカンの快晴。
 富士吉田行きを誘ってくれた同行のU氏とは環八と甲州街道(国道20号)が交わる高井戸で待ち合わせ。
 6時20分。自宅を出発。秋が深まっているせいか手が軽くかじかむ。
 定刻の7時にU氏とランデブー、さっそく出発。
 行程は甲州街道をひたすら南下、
 八王子から16号線へ乗り換え、八王子バイパスを越えて神奈川県橋本から国道413号に入線。あとはひたすら終点山中湖を目指す片道約110キロ程度のコース、途中津久井湖や丹沢山塊の北辺、道志渓谷を抜けてゆく。分水嶺は山梨県側の山伏峠(標高1100メートル)
 7時46分。府中駅通過
 8時30分。多摩都市モノレールを見上げながら多摩川を渡る。
 9時30分。八王子バイパス御殿山料金所。すごい登り坂だった。多摩丘陵を越えなければいけないのだが、帰りはここは迂回しよう。
 9時50分。いよいよ413号に入線。
 しばらく走ると津久井湖を右に見ながら上り坂が始まる。
 道幅が狭いためか、山中に分け入ると大型車輌の姿が消えた。往路、復路ともに道中、トラック、ダンプの姿を見たのはほとんど数えるほどだ。これはありがたい。
 名物酒まんじゅうと看板が出ている。腹は減っていないが水分は補給しておきたい。水筒にも水を詰め込みたい。耳の遠い老爺が販売所にひとりで座り込んでいる。U氏にまんじゅうをふるまってくれた。半分もらう。これが存外旨い。この店には復路に立ちより、饅頭5個を買うことになる。
 やがて413号は人家もまれな山塊に分け入る。緑が目にしみる。
 峠をひとつ越えたところで集落が現れた。小学校の分校がある。
 校庭で休憩。ゴミを焼却炉に捨てようとしたところ、近所のおじさんに注意された。廃校になったので焼却炉にゴミを捨てないようにとのこと。
 廃校だったのか。
 突き抜けるような青空をバックに時計塔だけが生徒のいない校庭にむかって時を刻みつづけている。
 しばしの休憩の後、出発。
 このあと地獄のロードが続くことになろうとは、神ならぬ身の知るよしもなかった。
 18時30分、山伏峠を下り、山中湖手前にあるローソンに到着するまでの約6時間30分、413号の総延長72キロのうちほとんど全行程の68キロほどが基本的にはすべて上り坂だった。山伏峠は標高1100メートル。途中幾つかのアップダウンはあっても、この高さまでは上り詰めなければならない。そのことに気づくのが遅すぎた。
 地図で高低差を検討していかなかったのは不覚であった。
 道中、真ん中からは下り坂になるだろうなどと考えていたのは大甘であった。
 考えてみれば目的地は日本の最高峰、富士山3776メートルなのだ。下りなどあろうはずがないではないか。
 山伏峠にさしかかるころには日もとっぷりと暮れ、あたりは急速に暗くなってゆく。青息吐息で吐く息が白い。かなりの寒気のはずだがさすがにまったく感じない。全身汗だくである。
 途中、本日の宿を提供してくださるF先生(ドクター)が心配して車で様子を見に来てくれた。
 ありがたいことに、F先生、もはや自転車を降りて足元もおぼつかずに押しがけする筆者の背後を車でガードしてくれた。後続車のクラクションにも微動だにしないサポートに感動を覚える。
 山伏峠をこえれば、あとは下り坂4キロ程度で高低差は200メートル程であろうか。
 念のため購入しておいた、ハロゲンランプのハイビームライトが役立った。
 夜。F先生行きつけの焼肉屋「牛舎」で思いもかけず美味なるものに遭遇。
 酸味の強いマツカリ(韓国のドブロク)、キムチを巻いて食べるタン塩、これはコチュジャンを入れたタン塩用のレモンたれ?に入れて食べるとさらにうまい。鄙と侮ってはいけません富士吉田。
 翌朝9時、復路出発。
 往路で酒まんじゅうをふるまわれた街道脇のまんじゅう屋で酒まんじゅうを今度は正規に購入。U氏が耳の遠い老爺に往路の礼を言う。覚えてないかもしれないが。
 12時30分には津久井湖に到着。往路6時間40分、復路3時間30分。復路の下り坂は心の底から楽しめた。
 往路で経験した八王子バイパスの坂を嫌い、町田街道に折れ、多摩ニュータウン通りを走行。鎌倉街道でいくつかの丘陵越え、しかもあろうことか道が途切れて階段を上るはめにも遭遇。同行のU氏の嘆声があがる。ああ、ごめんなさいUさん。
 何はともあれ、5時には帰着。
 かなり日焼けをしたが、筋肉痛はさほどでもなかった。絶えずエアサロンパスを吹き掛けていたのが奏効したか。ただし、背中のこりが半端ではない。腕のひきおこしが多かったからだろうか。

<デブリーフィング(反省会)>

 サドルの変更は正解。尻はまったく痛くならなかった。
 万一のために従来サドルを持参したのは荷物になっただけ。
 万一のために購入したサドルパッドも不要であった。
 地図は5万分の1では役に立たない。413号のような1本道では十分だが都心部は最低でも2万分の1が欲しい。
 ハロゲンランプのハイビームライトの購入、正解。使わないと思っていたのだが・・・
 サングラスの購入、失敗。まったく不要。日頃使い慣れないものをかけると視界が悪くなる。
 ポータブルMDプレーヤーの持参、失敗。初めての道は景色も楽しく、音楽は不要。しかもサイクリングコースではないので聴覚も走行に使用する必要があり、安全面からもこれはパス。
 デジカメの持参、正解。
 六角レンチの持参、正解。チャリンコの部品留めは六角レンチを使用することが多い。念のための持参が役立つときあり。他にドライバーセットも持参。
 エアサロンパスの持参、正解。
 自転車オイルの不携帯、失敗。思った以上に油がきれる。オイルは常にさすように準備したほうが良い。
 スニーカーでなく、ハイキングシューズ、正解。
 ステンレス水筒の携帯と途中のファミレスでの氷と水の補充、正解。
 ICレコーダーの持参、正解。走行中のメモには効力を発揮。
 同行のU氏に頼った装備/空気入れ・パンク修理器具(長距離には必要なアイテムだなあ。自分でも用意するようにしよう) 
 
行程      →→back
◆ 行程のそこここをスライドビューで           
J  人跡未踏ちゅう感じ?
 たしかこのあたりに夫婦滝があったような?・・・
K山伏峠
 標高1100メートル。最期の難関
L山中湖
 ああ残念。ここでストップ。本当はMのあたりまで行く予定だったのだが。
◆ 夜明けの富士山をスライドビューで           
◆ U氏の雄姿 
→→back      戻る
サイクリング/大久保行 
 世田谷の自宅から新宿区大久保の勤務先へ向かう。
 自宅のそばを通る荒玉水道道路が青梅街道まで一直線に伸びている。
 縮尺が細かい道路地図では複数の頁に分割表示されるためその見事な直線が目立たないが、10万分の1だとナスカの地上絵のようにきれいな直線が浮かび上がる。一般国道や主要道ではないため、道路地図の中では埋もれた近道的存在。
 これを利用して青梅街道から新宿入りを目指す。
 ・・・予定だったが、桜上水の商店街を抜け、甲州街道を渡ったところで道に迷いました。
 途中、道なりに進んでいたつもりが水道道路を左折してしまったらしい。10万分の1では直線でも、実際は蛇行している。持参した2万分の1の地図を見ても現在地がわからない。
 神田川ぞいのサイクリングコースを走る。浜田山と永福町の真ん中あたりを迷走しているらしい。甲州街道に出ることにした。
 なんとか甲州街道に出たが、ビックリしてガックリ。よくある話だが先ほど通った桜上水に戻ってしまった。
 やはり、幹線道路を走った方が間違いはない。甲州街道を一直線に新宿へ向かう。明大前を通過、大原の交差点を越え、笹塚・幡ケ谷・初台・・・と順調にパスし、西参道口で左折。角筈市民ホールの前を通り熊野神社前から成子坂下で青梅街道に交錯。わずかに青梅街道を走るもすぐに左折、大久保通りへの抜け道を利用してホテル海洋を間近に見る地点に到達。大久保駅のガードをくぐり無事目的地へ到着。所要時間は1時間15分。
 帰路は迷うことなく走破。片道1時間のショートコースを確保した。
 これにより会社までの距離がすでに定番化した「多摩川大橋(第二京浜=国道1号)」や「石神井公園駅近辺」までのサイクリングルートとほぼ同心円上であることが確認できた。

<デブリーフィング(反省会)>
 2万分の1の地図でも、幹線道路でなければ道筋の見極めは困難と思え。


《出勤編》

 とうとう出勤に自転車を使うようになってしまった。症状が進行していますね。今度入院しますか。そんな感じ。
 週2回程度にしようとは思っている。
 朝7時頃家を出た。
 週末の昼下がりとウィークデイの早朝は街の表情が違う。
 荒玉水道道路から桜上水へ。そして京王線の踏み切りにつかまった。登り新宿方面の電車を少なくとも3本は見た。そのうち2本は各駅停車ですぜ。なるほど、これが土曜と平日、昼と朝の違いか。ということで以後荒玉水道道路はあまり使わないことに決定。環八から甲州街道に入ることにしました。
 朝がまだ少し早いのか、通勤通学の人の群れにはほとんどぶつからない。
 それよりも夜だね。
 帰り道、甲州街道沿いのカシオやドコモの社屋から吐き出される人の群れは圧倒的な縦深陣だ。しかも密集隊形。アレクサンダーのファランクスもかくありなんって感じ。迂回路を確保しました。
 
 チャリ出勤も回数を重ね、コース取りに工夫を始めた。
 笹塚・幡ケ谷・初台の京王新線駅出口の近辺は朝も夜も人が多い。
 大原の交差点で環七ぞいに左折してすぐ、甲州街道と並走する水道通りを発見。
 新宿まで通じていることも判明。爾後、この道を使っている。

◆ 出勤ルート           
→→back      戻る
サイクリング羽田行 
 河川敷のサイクリングコースは後背からの車の接近や歩行者の飛び出し、信号待ちなどに悩まされない点が気に入っている。車の排気ガスを吸わされることも無いしね。
 川幅の広がりによって確保される空間は平面的にも立体的にもゴルフコースなんぞより遥かに開放的である。
 土手下のグラウンドでは早朝の草野球や、少年野球、サッカーにバーベキューなどさまざまなレクリエーションが繰り広げられており、実にほのぼのとしていい感じ。

 野川のサイクリングコースを下ると二子玉川の多摩川河川敷総合グラウンドが広がっている。
 二子橋を川崎側へ渡れば全長18キロの川崎市青少年サイクリングコースだ。渡河点はほぼその中央にあたる。川下にむかえば第二京浜(国道1号)でコースが終了。第二京浜の多摩川大橋を東京側に渡河すれば大田区サイクリングコースが土手を羽田の手前まで走っている。
 川崎側で第二京浜をくぐり土手上の砂利道を走行すれば川崎駅そばに至る。ほんの少し一般道を走れば六郷橋で再び多摩川土手に遭遇。六郷橋で大田区に渡ってもよし、そのまま川崎側を河口まで直進しても良し(河口付近で大師橋に交錯する。ここから東京側へ渡河も可能)多摩川河川敷の羽田迄のコースヴァリエーションは多彩だ。
 
 筆者の羽田行暦は実は古い。現住所からではなく実家住まいの小学生の頃から通っていた。ビッグバードに改修される以前の羽田だ。往復で50キロ程度、これは昔も今も代わらない。
 メインゲートから離れたところに送迎者ロビーの入り口があり、チャリをそこにとめて中に入る。館内アナウンスを聞きながら発着便を眺めているとなぜかインターナショルな気分になれた。あの頃、羽田は国際空港だった。
 国賓や皇室が空港を利用するときは数日前から空港近辺の警備が厳重になる。滑走路わきをチャリで転がしていると職質をうける。警備はパトカーはもとよりチャリでも実施しているからきめが細かいのだ。
 ビューポイントのおすすめはモノレールや自動車道が新整備場前で地下に沈む寸前。上空を着陸便が通り過ぎるポイントがあり、これはかなり迫力がある(と、言うより怖い)ただし、最近使用滑走路を1本ずらしたためか、頭上を飛び越してゆくことがなくなってしまったようだ。風向きによってもやはり変わる。
 川崎側の突堤から対岸の羽田を見ても眺めはGooD! 
◆ 多摩川百景            
→→back      戻る
サイクリング狭山湖行
 野川のサイクリングコースをいつも下ってばかりでは芸がない。
 そこで川上へ遡上することにした。
 途中、野川公園を通り抜ける。小金井ドライビングスクールの脇でサイクリングコースに別れを告げ、小金井街道を走行。前原坂下から前原坂上まで登坂すれば、そこは武蔵小金井商店街の入り口だ。そのまま直進、中央本線を超えてしばらくすると小金井公園がある。園内を抜け小平口から出ると道路一筋むこうが「多摩湖自転車道」。そのまま西進すれば多摩湖・狭山湖に辿り着く。
 多摩湖自転車道は片道21.9キロ、野川の走行距離と合わせて自宅からは往復で65キロ程度だ。気軽に漕ぎ出そう。
 それにしても、狭山湖・多摩湖からはサイクリングコースの乗り継ぎで羽田まで行けるのだなあ。多摩湖→野川→多摩川(川崎)→多摩川(大田区)の各サイクリングコース、往復で110キロ弱になる。軽く漕ぎ出す感じじゃない、きちんとした覚悟が必要な距離だな。
 さて、狭山湖行。
 サイクリングコースとしては、野川も多摩湖自転車道も車止めが多すぎ、自動車道との交差も絶え間ない。軽快に走りつづけることは難しいコースだ。多摩川のサイクリングコースがいかに恵まれているかを実感した。

小金井公園編

 小金井公園内には「江戸東京たてもの園」がある。
 先般、狭山湖に行く途中なにやら懐かしげな光景を視界の端にとらえてはいた。
 それが「江戸東京たてもの園」。前回は初めての光景が多すぎたため視覚の過剰在庫に疲弊してしまい、入園を断念。
 今日は、ここが目的。
 2度目の走行なので道中すべてがスムーズに進行。
 11月24日、紅葉で野川の川辺を鮮やかに染め上げていた樹木の枝に葉はすでにない。
 12月9日の今日、あれから2週間の間に季節は足早に秋から冬へと駆け抜けてしまったようだ。
 成城の住宅地を一直線に貫くショートカットを得て、前回よりも走行時間はかなり短い。
 京王線を越えるのに17分(前回30分)、小金井公園までは1時間(前回1時間半)で到着。
 豪奢な明治・大正・昭和のモダン建築物にあまり興味はない。高橋是清亭とか三井八郎右衛門亭など、建築家でない筆者にとってはただの人の家。
 それよりも、八王子千人同心組頭の家とか昭和初期の下町中通りのほうがどこか懐かしくそぞろ歩きを楽しめる。
 休憩所でうどんやら、甘味などを喫することもできるようだ。
 
◆ 多摩湖・狭山湖へGO!     
→→back      戻る
サイクリング新大阪出勤行 
 大阪に転勤後初のチャリ出勤。ゆるゆるとデジカメを撮りながらの行程となった。新御堂筋に沿ってまっすぐ下れば職場の新大阪に辿り着く。
 大阪の道路事情はわかりやすい。南北を貫くのが「××筋」東西を結ぶのが「××通」地下鉄と地上道路が並走しているため駅の位置がわかれば方角の検討もつけやすい。大阪・京都の都市形成は大陸の都城を模して東西南北を方形に区切った町割のようだ。
 洋風の都城建築となった東京は中央に皇居を置き、放射状に伸びた幹線とそれを結ぶ環状線で街区を区切ったため、感覚的には東西南北を把握しづらくなってしまった。地下鉄を皇居の下に通すこともできないし、道路と鉄道も連携していないため、オリエンテーションにはやや難がある。
 街道ぞいの風景を愉しむ間もなく、あっというまについてしまった。普通に走れば20分程度の距離だな。
◆ 出勤風景 
→→back      戻る
なにわ自転車道行 
 ありゃりゃ、脚力に衰えの兆し。
 たかが片道4キロほどの豊中郵便局へ漕いだだけで尻が痛くて帰路の坂道が息も絶え絶え・・・これはまずい。大阪転居以来最大の危機、マジで。
 サドルにまたがる回数が激減している。
 2001年9月の富士吉田行以来、大阪転居までは月平均6.4回は出勤や休日のチャリ行でまとまった距離を漕いでいたのが、来阪以来約10.5ヶ月では月平均1.4回しかチャリを回していない。職場を新大阪から梅田へ移転させてから3.5ヶ月では皆無だった。かくはならじ。
『頭が疲労したら体を疲労させる。体が疲労したら頭を』これが筆者のライフスタイル。最近、頭ばかり疲労させてちいとも体を疲労させていなかったわな。
 8キロ漕いで尻が痛くなるのがなんともまずい。サドルは富士吉田行、片道110キロでその実力を遺憾なく発揮し、尻の痛みを完璧に押さえ込んだ一品だ。にもかかわらず尻の皮が痛むのはチャリから離れすぎたからに違いない。
 と、言うことでとりあえず河川敷を走ろうと近場の神崎川に向かう。
 神崎川・・・巨大な用水路という感じで開放感はイマイチ。河川敷がないせいであろう。河内平野はほとんど傾斜があるまい。川はおそろしくゆったりと澱んだような流れとなる。自然、水は汚れる。若干の臭気も漂う川面の横、小指ほどの僅かな敷地幅をサイクリングコースが走っている。自転車専門道かいな?と疑問もあったが、なんとちゃんとしたサイクリングロードだった。
『なにわ自転車道』
 立派な標識があちこちに立っている。
 神崎川は左門殿川と合流し、中島川と名前を変える。その河口、大阪湾へ注ぎ込む手前の出来島大橋を終点として上流、淀川との合流点まで遡上、淀川の左岸を巻き込むように城東貨物線の赤川鉄橋までを結ぶのが『なにわ自転車道』だ。その終点には『北大阪周遊自転車道』がある。サイクリングロードネットワークだ。わ〜い。やっぱ、漕がねば道は開けんもんだわ。
 ロードレポートは次回。
◆ なにわ自転車道 
→→back      戻る
なにわ自転車道行(実走編)
 緑地公園から新御堂筋を南下すれば神崎川まで3キロ弱だ。
 途中、新御堂から脇道に入り、榎木橋のあたりで神崎川に出る。橋を渡り南岸から河口にむかう。
 余談だが、新御堂は自動車専用道でチャリは走れない。神崎川・淀川を越える際、その歩道は高架となる橋を階段で登らせる設計になっている。これには来阪時かなり憤りを感じたものだ。もちろん別の橋を利用すればそのようなこともないのだが、大動脈の新御堂だけにこれは悔やまれる。
 さて、神崎川南岸を走る。わざわざ渡河してから河口にむかうのは、北岸を走っていると、この先、合流してくる猪名川に走路を塞がれそうだったからである。初めてのチャリ行は地図を見ながら慎重なコース取りをする。
「なにわ自転車道」並行する川の水位はサイクリングロードの地面とほぼフラットだ。河内平野の海抜の低さゆえか新御堂の渡河橋が高架になっていると前述したのも、水位の上昇を恐れてのことかもしれない。
 途中幾つかの幹線道路・鉄道橋を次々に潜り抜けてゆく。
 阪急宝塚線・阪急神戸線・山陽新幹線東海道本線(神戸線)・阪神本線・阪神西大阪線が河口までの間に一定の間隔で並んでいる。これらの路線はしかし、元はと言えば梅田に収束している。鳥瞰すれば梅田から扇状に各線が広がっているようにイメージしてもらえば解りやすい。
 若干奇異な感じをうけるのは、やや南下がりに東西を走る神崎川上流で東海道新幹線・東海道線(京都線)が渡河(南下)していることだ。西進するはずの鉄路が、同じ川の下流で逆方向に渡河(北上)していくのが方向感覚を混乱させる。
 両線とも新大阪や大阪に向かったあとUターンするようなコースを描いているから生じる現象だが、土地観のない人間が列車に乗っていたらよもや同じ川を2度渡っているとは思わないだろう。
 神崎川よりも南の淀川を越えない分、新幹線の方が屈曲率は低い。東海道線は淀川をすら2度渡る。完全な放物線軌道だ。高速設計の新幹線はそこまでは付き合えなかったのだろうか。
 サイクリングコースの眺めは少し単調だ。しかも、あ、最悪、川側が低いコンクリート堤で目隠しされてしまった。なんじゃこれ。やはり水位の上昇を恐れてのことだろうが、もしかしたらこの界隈はゼロメートル地帯と違うか?
 阪神出来島駅のあたりがコースの終点らしい。
 国道43号線の出来島大橋で縮退した川幅の神崎川を越える。神崎川を南岸に神崎川から分流しつつも川幅は大きな中島川を北岸にはさまれた中州が中島。ゴルフプラザや工場団地がある。その中島を河口突端までむかうと埋立地の工場地帯を結ぶ中島新橋がある。
 この橋も高架だ。しかも、半端な高さではない。橋が遠望されたときからその屈曲率の高さに驚かされた。橋の中央、頂点から対岸にむけては坂道のように下っている。
「すげえなあ」
 と思っていたら、なんとチャリで橋に登れるようになっている。左右に向きを替えながらジグザグに続くスロープが8段ぐらいもあろうか。少し怖かったですね。橋を渡り、眼下遥かに浮かぶ水鳥の群れの突然の飛翔音に平家武者のように驚きつつも、この橋で兵庫県尼崎市に入る。
「今日はここまでにしといたる」
 ということで、引き返す。
 往路と異なり神崎川の途中、新三国橋で渡河し、国道176号線を北上、名神高速と交錯する稲津町の交差点から天竺川ぞいに緑地公園の西南端まで走り、帰宅した。
 運動不足解消の第一歩は往復32キロ程度だった。
→→back      戻る
北大阪周遊行  
 筆者はこの日、緑地公園から神崎川の榎木橋に出、なにわ自転車道を遡上、大阪吹田自転車道を利用して万博記念公園に至り、旧大阪中央環状線をバイパス代わりに桃山台界隈で新御堂に合流、そのまま緑地公園に戻るという、一周約37キロ程度の北大阪周遊行を果たした。
 筆者の目的はただひとつ、「太陽の塔」を見ることであった。
 積年の想いがついに果たされる日が来たのである。
 万博開催以来32年を経て、筆者はついに万博会場の地に立ったのであった。
「がぁあ!」
 ・・・取り乱してしまいました、失礼。
 話せば短いことながら、32年前の1970年、神奈川県川崎市のとある公務員住宅で典型的都市型核家族の構成員3名による家族会議が開かれた事実を知る人は今や少ない。
 会議のテーマはボーナスの使い道。
 家族3人で万博に行くか、大型のカラーテレビを買うか、議論は逼迫し、いづれの案が採決されるかその見通しは道路公団民営化推進委員会並に立たなかった。
 万博行きを主張する9才の男の子の意見は、結局、いれられず、カラーテレビを購入することになった。万博に行くのは1回きりだけど、カラーテレビは一生モン(死語)ということで、なんかえらいゴージャスな家具調カラーテレビ、パナカラーかなんかが搬入されたのであった。家族はそれで万博中継を見ることにした。
 当時9才の男の子にとって故岡本太郎氏による「太陽の塔」に象徴される万博公園は語れど尽きぬ思い入れがあったわけです。

「なにわ自転車道」は、神崎川沿いのサイクリングコース。河口、出来島大橋からその上流へ遡上し、淀川の分流点で淀川沿いにコースを変え、その北岸を城東貨物線の赤川鉄橋まで下ったところで終了する。
 今日は、その中程榎木橋から遡上。
 神崎川はどんどん川幅が狭くなる。橋はもうめっちゃやたらとかかっている。どれがどの橋やら。JR東海道線(京都線)を越え、城東貨物線、阪急千里線、阪急京都線、新幹線を潜り抜ける。最近潜り抜けてばかりだな。そのほかにも主要幹線道や枝道の橋がところせましとかけられている。
 不意に大きな堤にぶつかる。
 淀川だ。さすがに大きい。河川敷の広さも土手の高さも申し分がない。もちろん比較の視点は多摩川しかないのだけれど・・・
 視野の広がりが開放感をいや増す。
 コースは下流にむかっている。途中で渡河し対岸で再び上流に逆行するのでもったいないが、初めてのコース走破だから、ここは忠実に走る。城東貨物線の赤川鉄橋で渡河。この橋がスゴイ。
 真横を貨物列車が走る。その脇が歩行者専用のレーンになっている。車は渡れない。あたりまえだ、橋桁がなんと木造。ところどころ補修の板切れが打ち付けられ、スタンドバイミーの世界を体感できる、しかも結構長いし、赤川鉄橋。
 淀川を再び遡上する。この自転車道が「北大阪周遊自転車道」なんだか「大阪吹田自転車道」なんだかがはっきりしない。標識がえらくアバウトなのだ。おそらく「大阪吹田自転車道」だろう。
 淀川上流の鳥飼大橋で再び淀川を渡河、そのまま陸路を北上する。鳥飼大橋からはモノレールとずっと並走することになる。
 なんとなく赤茶けたアスファルトがサイクリングコースの目安らしいが、何度コースを見失い、逸脱したことか。シルクロードのような道だ。跨線橋や駅前などに出るとサイクリングコースが生活道路と一体化するからだ。それに、サイクリングコースの標識が1本も立ってないし。
「がぁあ!」
 まあ、いい。
 新幹線をくぐり、新幹線車輌基地の前を通過、阪急京都線を南茨木で跨線、その500メートルほど先でJR東海道線(京都線)を茨木駅大阪より前方で跨線。その後、コースは大きく左折し、万博記念公園に至る。
「エキスポランドだ!」
 中国自動車道を眼下に収めた跨道橋のむこうに、丸い、金属片と白いニョロニョロ(ムーミン)のような胴部が樹木の上から顔を出している。
「太陽の塔だ!」
 橋を渡る。
 間近に迫ってデジカメをパシャ。警備員が近づいてくる。
(なんだ?なんだ?なんだ?)
 撮影禁止なのか?そんな馬鹿な。不審者と思われたのか?そんなはずはない。 
「中に入るのかね」「いえ、写真を撮るだけですが」
「ここは自転車禁止だよ。橋の入口に書いてあったでしょう」
 ありゃ。見落としてました。ゴメンナサイ。もう太陽の塔しか目に入らなくて。実は32年前の1970年、神奈川県川崎市のとある公務員住宅で・・・
 言い訳は止めた。
 千里中央の手前をかすめて桃山台のあたりで新御堂に合流。緑地公園に戻ってきた。今日は、ぐるり北大阪周遊の旅の1日でした。 
→→back      戻る
→→back      戻る
運動不足ここに極まれり  
 休みだ、休みだ。
 ここしばらくちょいと仕事漬けだったので、今日は休む、休むぞ。
 朝食を取る。寝る。そして起きる。まだ昼過ぎだ。また寝る。起きる。それでも3時前だ。頭がすっきりした。
 よし、会社に行って残った仕事を片付けて・・・いかん!いかん!仕事に毒されているな。今日は休むのだ。
 そう言えば、最近チャリに乗っていない。
 筆者の唯一の運動がチャリである。チャリに乗っていないということは運動をしていないということだ。最後に乗ったのは・・・ありゃ12月23日、と言うことは5ヶ月は運動をしていないということか。いかんなあ。死ぬな、このままでは。と、言うことでタイヤに空気を入れてリハビリがてらにチャリを転がした。
 リハビリなので1時間こいだら帰ってくる。往復2時間、たらたらこいでリハビリだ。
 何処に向かうか、ちょっと悩む。
 神崎川から淀川に出る。上流にむかってどこまで行けるか試してみよう。
 12月は寄り道が多かったが、今回はゆるゆるながらノンストップ、ノン寄り道でゴーだ。
 38年ぶりとか言う、5月の台風一過、南からの風を巻き込んでまだまだ空模様は怪しい。河川にかかる大阪の橋は新しい程橋桁が高い。
 昭和30年代、大阪は地盤沈下に悩んでいた。出来島大橋の可動式堤防壁はその頃の産物なのだと最近知った。水位の上昇を恐れてのことかと思っていたが、そのとおりではあっても、原因は地盤沈下だったらしい。
 第二室戸台風に襲われた昭和36年、大阪市は市域の四分の一が浸水。爾後、大阪の川(運河)は次々に姿を消してゆく。
 淀川河川敷に広がるロードは土手に視界を遮られるが、なかなかにのどかでよろしい。
 淀川は上流で桂川、宇治川に名前を変える。せめてそのあたりまで行きたかったが、茨木と高槻の境、淀川新橋まででタイムアウト。引き返すことに。
 同じ道を帰るのもつまらない。
 鳥飼大橋から内陸に入り、12月の時と同様、大阪モノレールと並走。
 途中、新幹線の車輌基地が茨木にある。 ふくれっつらの700系、鉄仮面の300系、呆れ顔の100系、新旧の新幹線が表情豊かに並んでいる。
 万博公園で水分補給をして帰宅。やはり帰路は上り坂だらけで手間取った。2時間半で33キロだから、まあ、ゆっくりでいいやね。
→→back      戻る
自転車不毛地帯  
 自転車は「こぐ」機械であって「かつぎ上げる」機械では決してないことを大阪府の土木行政職員は肝に銘ずる必要がある。
 許しがたし!
 自宅のある緑地公園から職場のある梅田へむかった12月中旬。
 暖冬の影響で気持ちが緩んだ。軽装備で家を出たが坂道を猛スピードで下っているときに後悔した。手がか、かじかかじかかかじかかじかむではないか。手袋をしてくればよかった。あ、そんなことはどうでもいい。問題は新御堂下を梅田にむかう幹線道路は、自転車のことをまったく考えていないということだ。
 なんと3回も高架の階段昇降をしなければならないのだ。神崎川、JR新大阪駅、淀川。以上みっつの高架で川を、線路を、跨がなければならないのだあ!しかもすべて階段のみ。自転車用のスロープなどそんなことを考える奴はいないかのようにない!障害(川と線路)にぶつかるたびにチャリを降り、階段を抱え上げ、ついでに怒声もあげる筆者。行き当たりばったりの都市計画に憎悪すら覚えるのだあ!
 ハヒハヒ言いながら高架の歩道をこぐ。高架がつきれば今度は抱え降りるのだ。くそっ!くそっ!くそっ!
「ん?」
 背後からキイキイとオバチャンがぼろいママチャリをこいできた。階段を下りようとする筆者の脇をすりぬける。ってどこを走っているのよ、オバチャン。そこは新御堂でしょ。無料とは言え、自動車専用道なんよ。びゅんびゅん車がぶっ飛ばしてる道ですよお。
 オバチャンの背中は一気に坂を下り視界から消えていった。ありか?
 いや、そんな勇気は出ない。遵法、遵法。
 今度は淀川越えだ。再び階段。えっちらおっちら担ぎ上げ、ハヒハヒ言いながら橋の歩道をこぐ。対岸に渡れば今度は抱え降りるのだ。しかもこの淀川の歩道はちょっと怖いぞ!ガードも何もないじゃないか。幅は狭いし。くそっ!くそっ!くそっ!
「ん?」
 背後からキイキイいわせながらオッチャンがぼろいママチャリをこいで橋の中ほどで筆者を抜いてゆく。ってってどこを走っているのよ、オッチャン。さっきはまだ新御から下に下りるところだったからわからんでもないが、ここは新御のど真ん中、半端じゃなく車がぶっ飛ばしてるじゃないか。オッチャンの背中がゆったりと遠ざかる。怖えぇ。後ろから見ていると3車線の外側を走る車は皆、車線変更をしてオッチャンをよけている。オッチャンは悠々とこいでいる。十何輪の大型トラックが地響きをたてながら背後から近づいてきた。オッチャンは悠々と外側の1車線の端をこいでいる。トラックがプッッシュウ!と威圧的なドラムブレーキをかけてもオッチャンは動じない。トラックが大きく膨らみ、車線変更をしていった。隣の車線を走っていたベンツのブレーキランプが真っ赤に光る。怖えええ。
 おいにはできもはんでごわす。大阪、恐るべし。
→→back      戻る 
ますます落ち込むチャリへの意欲
 かなりまずい。
 自宅周辺の坂道をこいだだけで息が上がる。
 銀輪の記録を見れば、12月にこいだら次は5月、今回は6月だ。年に2回しかこいでいないことになる。体力は落ちる一方だ。
 散歩がてらに千里山の丘陵地帯をアップダウンする。関大前に出て阪急千里線に沿って北上すれば千里山駅だ。駅前を東行してみる。
 道が入り組んでいるため現在地の把握が困難だ。
 急に眺望が開けた。丘陵地帯の頂点についたらしい。目の前に開かれた眺望が、これがまた力がこまらない。もうちょっと何とかならないのか。川とか一望の平野とか、そういうものを期待しているのだが、急斜面の下り坂の先にちょぼい窪地、その先はまた丘陵地帯。とほほほほほほほほほほほほほほほ。失礼、思わずキーボドを連打してしまった。
 あの丘陵を越えれば、JR京都線の岸辺と千里丘の間ぐらいには出るのだろうが、たとえその予測があたっていても、あの界隈を走って楽しいかと問われれば、楽しくないと答えるしかないのである。JRを越え、安威川を越え、やっと淀川にたどり着くまでの単調でつまらない道のりを考えると、ヤル気の針は最下限にふれる。
 帰ろう・・・
 ふたたび丘陵を登って、下って、登って自宅に帰る。ほんの1時間程度のチャリ行であった。まずいなあ、なんとかチャリへのモチベーションをあげるようにしないと。
 しかし、南に下れば、江坂界隈の信号地獄にはまる。東にむかえば、このていたらく。北は千里丘陵の深奥部に立ち入ることになり、西は伊丹空港を越えて尼崎にむかう住宅地、海岸沿いは工業地帯でごちゃごちゃしているだけ。
 ことチャリに関しては最低のところを居住地に選んでしまったのであった。
 ほぞをかむ筆者である。
→→back      戻る
久しぶりのチャリなのに
 車が2台も並べば、チャリの通り道もないような狭い道。にもかかわらず、一方通行ではない。
 車道より少し高く、人ひとりがやっと通れる幅の歩道が左脇だけにある。
 筆者は車道を走っていた。
 後背から車が近づいてきた。
 見晴らしの利くかなり長い直線なのだ。ドライバーとしてはアクセルを踏み込みたくなる状況である。
 前方の歩道には歩行者が背中を見せて歩いている。
 前方右脇から右折車がノーズをつきだしやがった。
 故あって実家ですごす週末、母親のママチャリで走行中の出来事だ。
 母親のママチャリである。
 筆者の「羊の皮をかぶったママチャリ号」ではない。
 サドルは最上段まで引きあげてもまだ低い。車輪の口径は限りなく小さい。ハンドルは安定感に満ち溢れ、引き起こしが難しい。
 後背からの車の走行音が大きくなった。加速してやがるのか?前を見ろってんだ。
 歩道に逃げるため重いペダルに加重をかけ加速に入る。歩行者を追い抜かねばならない。
 右折車が車道に大きくはみ出したまま、停まってやがる。何してんだおまえは!
 後方から近づく車の気配がますます大きくなる。
 歩行者を追い抜いた。
 車道から歩道にチャリを乗り上げようとした。
 ・・・乗りあがらなかった。
 ママチャリが想定より重すぎた。サドルが低すぎのである。ハンドルは高すぎだ。おまけに車輪が小さすぎる。なのにスピードは乗っている。
 歩道と車道の段差の断面に前輪をとられ、2、3メートルをドリフト状態で段差にそって滑空する。
「ジャッ!ジャッ!ジャッ!」
(まずい!)
 ハンドルをとられ、前輪が完全に逆方向を向いた。
 走行不能状態。
「ズッしゃあああああ」
 コケた。前方にむかって1回転だ。
 前方に投げ出されたわが身をかばい、左腕から受け身をとるように路上に転がり落ちた。ぶざまに一回転した筆者の上から数瞬の間をおいてチャリがさかしまに落ちてくる。
(ひさしぶりだなああ、この感覚)
 アドレナリン全開で痛みはない。
 膝頭がきれいに直径3センチの円形にズルむけた。左手のこぶしも軽いズルむけだ。見物人が集まりかけている。恥ずかしいから逃げた。
 翌日以降、胸が痛い。あざはない。こけたときにハンドルで胸をうったようだ。あお向けに寝ても痛い。咳をしても痛い。やだなあ、肋骨にひびが入っているような感じだ。皆さん、母親のママチャリにはお気をつけください。
 ひさしぶりの銀輪ネタが事故報告とは、トホホホホ、あ、胸が痛っ!
→→back      戻る
箕面行
 箕面へ行くのだ。
 チャリで行くのだ。
 運動をするのだ。
 唐突なチャリ行の決意は、決して健康診断の結果が返ってきたからではない。
 筆者の居住地、「緑地公園」から「千里中央」まで北上。「千中(せんちゅう=千里中央のこと)」は、大阪万博の際に開発されたニュータウンである。したがって、老朽化が少し進んでいる。東京で言えば、小田急「永山」とか「多摩センター」のような位置づけだ。
「箕面」は「千中」の北西方向にある。いま少し北上を続けるのだ。自宅からこの界隈まで、さらには「箕面」までは丘陵地帯である。道はアップダウンの連続だ。「千中」を通過し北上する筆者の前に再び登坂が待っている。えっちらおっちら登ると、丘陵の頂上に近づいてきた。目の前に大きく青空が広がっている。坂の頂上が近い。これを越えれば「箕面市」に入境だ。
 やがて、突然という感覚で市街に入った。船場西・船場東の街区だ。ミナミの船場とは違うが、地名相似にいわれはあるのか?かなりまとまった街である。不思議なのは電車路線がないことである。つまり他地域への移動手段は車しかない。それなのにこれだけまとまった市街というのはちょっと珍しい。
 船場西を通過し、萱野小学校を左折、閑静な住宅地をクネクネと走る。小田急で言えば「百合ヶ丘」のイメージか。(小田急ばかりで申し訳ない)
 やがて、阪急箕面線箕面駅前に出る。
 京王線「多摩動物公園前」駅のようだ。石橋駅から本線の宝塚線と分岐し、3駅で終点になってしまう盲腸線である点も似ている。
 駅そばのチャリ置き場にチャリを置き捨て、滝道を箕面大滝にむかう。
 自宅からの所要時間は1時間15分程度。9キロ強の行程にしてはかかったな。坂道と初ルートということで、そこのところはひとつ。

船場西の街区。長い下りが続く。この先は京都に向かっている
→→back      戻る
大山崎行
 1年前のことである。

「えーへっん!へ〜ん!ぐわっ!ごっ!ごっ!」
 生理的な嫌悪感をもよおすしわぶきが背後から近づいてきた。
 奴だ。
 少し前から、京都方面にチャリで走行する筆者の背後についてきたマウンテンバイクの親爺。
 その日、筆者は久しぶりにチャリにまたがっていた。
 目的地は京都。
 多くの男たちが夢見た京の都への入城。あの信玄ですら叶わなかった夢を達成せんとその日、筆者はゆるゆるとペダルを回していた。
 東京在住時には週に3〜4日は40キロ前後を走行していた筆者のチャリ体力はもはや瀕死の亀なみに落ちている。その自覚は強く、京までの52キロを走破し、帰還する自信はとうてい持ちえない。本音のところ、今日はどこまで行けるか試し運転のつもりでいたのだ。
 北東方向にむかわねばならない本来の最短コースを無視するように江坂への急坂を下り降り、新御堂筋に沿って神崎川まで完全に京とは反対方向に南下する。神崎川のサイクリングコースを川上に向かい、淀川まで出てやっと上洛の道中が始まる。淀川が分流し神崎川が西に淀んだ流れを定めるその地点で奴は現れた。
 マウンテンバイクにビスタチオの殻のようなメット。半ズボンの裾からボーリングのピンのようなふくらはぎが出ている。リュックを背負い、首に白いタオルを巻いている。歳の頃は筆者と同じと見た。髪は薄い。
「えーへっん!へ〜ん!ぐわっ!ごっ!ごっ!」
 あまり健康的とは思えないしわぶきは呼吸器系の疾患を筆者に連想させたが、今は診療時間ではない。そして筆者は医者ではない。
 淀川堤の前の交差点で以上のことを確認し、筆者はオヤジに先を譲った。
(シャァァー)
 一気に堤防を駆け上がり、奴は堤下の非常時用河川敷車両道路へ下っていった。
 筆者も距離をおきながらその後に続く。
 京にむかって淀川左岸の中流域にサイクリングコースはない。右岸にはモノレールのあたりまでなら浪速サイクリングコースがある。2年前、筆者はそこを走り、鳥飼大橋を渡河しモノレール沿いにエキスポランド経由の北摂周遊をした。
 今日は、京都に向かって淀川左岸の非常時用河川敷車両道路を走っている。
 道幅は広い。非常時に左右対抗各1車線を確保できる広さである。直線とゆるい曲線で構成されたこの道路は放置しておけば、車やバイクが乗り入れてレースでもしかねない。恐らくそれを妨げるために頻繁に車止めが道路を遮断している。その徹底ぶりはいっそすがすがしいくらいだ。チャリに対してすらペダルを水平にそろえてやっと通過できる十字型の型抜きをしたチャリ用車両止めが道路脇に据えられている。
 神崎川から淀川に乗り入れるあたりは、人も多いしチャリも多い。
 慣らし運転の筆者はゆるゆると走る。
 春の日差しは、実は紫外線が豊富だ。対策ならしていない。
 気がつけば、先をゆずったマウンテンバイク親爺がいた。かなり緩い速度で走っている。筆者は追い抜いた。
 相対速度の違いから、奴との距離は緩やかに広がってゆくはずだ。
 親爺を抜いた瞬間からその存在を忘れ去った。
 蒼天に雲ひとつない絶好のチャリ日和だった。サッカーに興じる子供たち、バーベキューを囲む若者たちの数も多い。やはり河川敷の開放感は格別だ。
 その時、あの不快なしわぶきが背後に聞こえた。
「えーへっん!へ〜ん!ぐわっ!ごっ!ごっ!」
 まだ距離はある。
 なぜか、ペダルをこぐ足に負荷がかかった。回転速度があがる。
 左右を流れる景色がだんだん赤方変異を起こし、赤みがかりはじめる(嘘)。
 次の車止めまで、我ながら大人気ないくらい快走し、その後、やや速度を落とした。
 再び車止めが近づいてきた。
 制動をかける筆者。
 そのとき!
「えーへっん!へ〜ん!ぐわっ!ごっ!ごっ!」
 先ほどよりも近づいている。
 なぜ、むきになったのか、今ではもはやわからない。
 しかし、そのとき筆者はトップスピードで疾走した。無論、背後を振り返りはしない。
 くそ!くそ!くそ!
 これでどうだ!
 ふくらはぎが過負荷に悲鳴をあげはじめた。どんなに高速を出そうと車止めのところでほぼ停止常態になる。それでも車止め間の区間距離は500メートルはあるだろう。かなり引き離したはずだ。
「えーへっん!へ〜ん!ぐわっ!ごっ!ごっ!」
 病的なしわぶき。
 しかも先ほどよりも近づいている。  
(よおし、そういうことか)
 筆者は作戦を変更した。
 チャリを止めて、屈伸運動などをしながら、親爺を先行させた。
 やはり、奴だ!
 少し距離をおいて、今度は筆者が後背から接近する。先行する奴の背が近づいてきた。
「えーへっん!へ〜ん!ぐわっ!ごっ!ごっ!」
(そのしわぶきをとめてやる!)何を考えているんだか。
 思いっきりペダルを踏み込み、一気に抜き去る。
 大人気ない追走がかかることは間違いない。
 こうなったら勝負である。
 スピルバーグの出世作、テレビ映画「激突」がなぜか脳裏に浮かんでは消える。
 その後しばらく、どこの誰ともわからぬ、七生相容れぬであろうハゲとのレースが続いた。
 4月下旬ながら夏を思わせる日差しと気温の中、不毛な意地の張り合いが続き、淀川が槍尾川と合流し、複雑な地形を描き出す前島界隈で不倶戴天の敵と筆者は、道を左右に違えることとなった。
(今日はここまでにしといたる)
 川の対岸に遠ざかる奴の姿を見送りながら、筆者はさらに淀川を遡上した。
 しかし、完全に燃料切れとなった。
 無駄な活動が命取りであった。
 新幹線と阪急が川端にまで近接し、淀川が木津川・宇治川・桂川に分かれる大山崎で筆者の進攻は止まった。
 無念の撤退。
 淀川端のコースはあまりに迂回が多く帰路はこの道を走りたくないほど疲労していた。171号線から14号に入り千里丘陵を目指す。
 しかしながら、どの地点で右折すれば筆者の地元への最短コースとなるのか、地図を見ながら走るも、さっぱり要領を得ない。同じ所に戻ってしまったり、何度もアップダウンを繰り返したりと、迷走を続けること1時間。やうやう地元に帰ってきた。
 チャリでこんなに疲弊したことはない。

 4日後、筆者は帯状疱疹を罹患した。
 山崎は京都の地下にある巨大な地底湖の唯一の放出路らしい。サントリーがこの地にディスティラリーを建設したのは理に適った話なのだ。
 淀川の河川敷にも湧き水がそこかしこから滲み出ている。
 関西の河川は名前をリレーしてゆく。
 淀川は上流で、木津川・宇治川・桂川となる。桂川を遡上すれば、嵐山だ。
 嵐山を基点に木津川経由で田辺まで、総延長45キロの八幡木津自転車道が走っている。
 大山崎で新幹線は淀川端を疾駆する。
 新幹線に並走するのは阪急と171号線。
 
→→back      戻る
木津川行
 淀川河畔の戦いから半年の歳月が流れた。
 種々の要因が重なったとは言え、チャリが帯状疱疹発症の引き金となったことは疑いも無い。かつ、千里丘陵越えの迷走がトラウマとなり、この半年、上洛の意欲が失せていた。
 サドルにまたがることもない日々が半年。そろそろ動かねばならない。
 あの日撤退した大山崎の淀川対岸は八幡市(やわたし)である。
 八幡市には、京阪が乗り入れている。
 淀屋橋から京阪に乗り「八幡市駅」へ約30分。
 駅前の山には石清水八幡宮があるが、これは今日の作戦の主眼ではない。
 八幡市駅前のレンタサイクル店に向かう。
 ママチャリしかなかった。しかも変速機はついていない。
 借りた。
 八幡市駅は、木津川河畔にある。
 木津川沿いにはサイクリングコースがある。その名も「府道京都八幡木津自転車道」
 ゴツい名称だ。
 起点は桂川嵐山渡月橋右岸、終点は木津川泉大橋左岸。全長45キロの一大サイクリングコースである。
 起点の嵐山も魅力的だが、今日の目的は木津川にかかる上津屋橋である。
 通称「流れ橋」
 時代劇ロケのメッカである。
 長大な板橋は、あまりにも有名だ。名前を知らずとも時代劇を何本か見たことのある人ならば画像を見れば見覚えがあるだろう。
 橋は、レンタサイクル店から約5キロの地点にある。ゆるゆると流しても指呼の距離だ。
 残念ながら川が干上がっている。
 枯れ川の上に、全長356.5mの日本で最も長い木造橋がかかっていた。
 チャリを橋の袂に止めて、徒歩で橋を渡る。
 橋を往復し、少し先まで進むことにした。
「京田辺」駅の先、山城大橋を越えて引き返すことにした。付近には同志社女子大や同志社大のキャンパスがある。
「八幡市駅」に戻る。往復で30キロほど。
 変速機のないママチャリは結構辛い。
 リハビリとしては良しとしよう(とほほほほ)。


→→back      戻る
摂津本山行
 在阪6年。京都への進攻はいまだ為しえない。
 丘陵越えに辟易し始めた。
 こーなったら西へ。西には神戸がある。
 しかし、走り始めて気がついた。
 この走路上には河川が多い。
(丘陵の次は川か)
 そして豊中と大阪北部の河川や鉄道跨線には、歩道が併設されていないことが多いのだ。あっても橋上へは階段を使うことになっていたりする。
 高速で車が疾駆する専用道を走るには勇気がいるから、天竺川、猪名川、藻川、武庫川などの河川や阪急宝塚線の跨線時いちいち自転車を降り、かつぎ上げと下ろしをしたり、渡河できる橋を探し回らねばならなくなった。
 何事も計画が大切と言うことだ。
 江坂まで南下し、西進。猪名川渡河の橋を探して迷走し、いつの間にか尼崎市に入っていた。兵庫県領である。
 阪急神戸線ぞいに「塚口駅」そばをパスし、どこを走っているかもわからんうちに武庫川を渡り、JR神戸線「甲子園口駅」をかすめ、いつの間にか阪急神戸線「夙川駅」前に出た。
 夙川沿いに南下すれば国道2号線に出られる。
 出た。
 あとは直進あるのみ。
 JR神戸線「芦屋駅」前を通過。芦屋川を渡る。いい眺めだ。神戸っ子の地元愛の強さはこの景色によるところも多かろう。
 JR神戸線「摂津本山駅」で進行停止。
 駅前のスパイスレストラン「ぶはら」でランチ。この店のサモサが旨いのだ。
 帰路、国道2号線を東上する。
 走りやすい。
 さすがに街道としての歴史が古いだけのことはある。
 新しい世代の道路や鉄道は国2を跨ぐか潜って逃げてゆく。地上をまっすぐ走行できるっていい。
 調子に乗って国2を激走。佐門殿川・神崎川を越えるときに気がついた。
 南下しすぎだ。
 神崎川沿いのサイクリングコースを遡上する。かなり無駄な走行。
 新御堂を北上し、やっと帰宅。
 だいたい50キロ。
 消耗した。
 どこをどう走ったか、細部の記憶はまったく残っていない。無駄なライン取りをしていたはずで、再攻には充分な事前調査が必要だと深く認識。
→→back      戻る
しまなみ海道行
 たまには新鮮なコースでサドルにまたがり気分転換を図ることにした。
 瀬戸内海をチャリで渡れるらしい。
「しまなみ海道」と呼ばれる本四連絡橋は広島県尾道から愛媛県今治まで、間の六島を橋で結び、総延長80キロの「瀬戸内海横断自転車道」を擁している。
「福山」まで「レールスターひかり」に乗って、そこから尾道まで在来線で向かった筆者。
 輪行ではない。チャリは尾道駅前のレンタサイクルでMTBを借りる予定だ。
 シーズンならば、出払ってしまうこともあるだろうが、師走のこの時期に海風にあたりながら走ろうなどという物好きもそうそういないだろう。
 案の定、チャリは電動アシストからママチャリ、MTB、選り取りみどりだ。 
 チャリは、1500円(保証金込み)で借りられる。借りた場所に返せば、保証金の1000円が返還される。要するに1日500円だ。
 今回は、完走を企図していない。しまなみ海道の慣らし走行が目的である。
 尾道から対岸の向島までは渡船を使う。そこから先は、四国の今治まで80キロ。瀬戸内海の6つの島を橋が結び、海峡を横断する。
 向島から因島へ懸かるのは「因島大橋」。
 さっそく一つ目の橋だ。
 海峡を渡る橋々が鬼門だとは、その場にならなければ想像もしなかった。
 海を越えるということは海抜もそれなりに高い位置に道路があるということで、エレベーターがついているわけもない海抜50メートルの高さまで蛇行する登坂路をこぎのぼらねばならない。MTBでないとちょっと無理だ。
 しかし、海峡を渡るときはその眺望の豊かさ、吹き渡る風のすがすがしさ、なかなかに気持ちがいいものだ。
 因島は「はっさく」発祥の地。さらに因島水軍城や白滝山展望台など寄り道どころにことかかない。
 渡されたMAPに「サイクリングロードの案内板に注意」とわざわざ書かれていたポイントであろうことか道を失った。
 広い島でもあるまいとたかをくくると危険だ。それなりにアップダウウンもあるし距離もある。感覚的にはひとつの島にひとつの峠越えというイメージだ。
 因島と生口島(いくちじま)の間に懸かるのは「生口橋」
 橋ごとにフォルムが異なり、その点でも楽しめる。
 ただし、橋のトップまで登らねばならないのはここでも同じ。
 生口島に渡ってタイムアップ。心積もりの持ち時間がゼロになった。
 尾道→向島→因島→生口島まで来て帰路につく。
 往復48キロ。
 生口島の先は、大三島→伯方島→大島と続いて四国上陸となる。
 今度は、マイサドルを持参して泊りがけで走ることにしよう。
(借り物チャリのサドルは、真中に溝と穴のないタイプだった。これで長距離を走ると前立腺が圧迫されて、小用時に激痛が走る。気をつけよう)


 スタートは尾道駅前

 因島大橋が見えてきた・・・高い

 なんとか海抜50mへ

 因島大橋は、上部が自動車道、下部が自転車道の二重構造。橋は長い

 そしてやはり高い。眺望がいい(ちょっと怖いとも言う)

 平地からの瀬戸内の眺めもいい

 橋への登坂再び

 生口橋がみかん畑のむこうに

 生口島へ渡る。この橋は上部が開放され、気分がいい。
→→back      戻る
万博公園行
 2万5千分の一では駄目だったのだ。
 何がって?地図の縮尺が、である。
 今までは、昭文社の「県別マップル」を携行してチャリを転がしていた。
 住宅地に入ったり、幹線道を少しでも外れるととたんにオリエンテーションを失ってしまうのは何故だろうといぶかしんでいたのだが、ただ単に「地図に載っていない」からであった。いやあ、実に単純な理由だったなあ。
(もしかして筆者は大馬鹿野郎?)
 地元、緑地公園から北摂の丘陵地帯を抜け、京都を目指すルートの確保には、もっと細かい地図が必要だったのだ。
 今さらながらにして悟った。
 昭文社の「市別地図」を買った。
 でかい「A全」版の一枚地図だ。(正確にはA全よりやや大きい)
 縮尺は、「豊中市」版12000分の1、「吹田市」版12000分の1。
 ついでに河川敷への執着を捨てた。
 どーせサイクリングコースはないのだ。
 今さらながらの方針転換であった。
 新御堂筋沿いに北上をしながら、こまめに地図を広げる。気分は探検家。
(ふむふむ、なるほど、早めに新御堂を捨てねばならなかったのか)
 溜池のような(あるいは溜池?)砂小谷新池ぞいに東進すれば吹田箕面線にでくわす。
(吹田箕面線も「南千里」駅で捨てればいいのか)
 千里南公園を北東方向に進めば南千里茨木停車場線に遭遇する。
(ふ〜ん。この道も「山田」駅で捨てるのね)
 モノレール沿いに東進する。
(ありゃりゃ、あっと言う間に「万博公園」だわ)
 この間、40分弱。
 地図をひきひき、何度も停車しながらの走行だったから、ルートを確保してしまえば30分だ。
 万博公園まで来れば、茨木方面への進出は容易だ。
 この日、筆者は北上ルートの橋頭堡を確保した。
 万博公園までは約6キロ。
 往復12キロ、散歩のような短距離走だったが、記念すべき1日となったことに違いない。



 北摂の住宅街の街並みは絵に描いたような郊外のニュータウン

「太陽の塔」だ!
 ついでに万博公園内を散策



→→back      戻る
茨木行
 先般、とうとう万博公園までのルートを確保した。
 走り慣れてしまえば、所要時間は30分。
 アップダウンの数と高低差が比較的少ない、現在望み得る最短かつ快適なコースだ。
 いよいよ、京都攻略への足がかりをつかんだ。
 信長が稲葉山城を落としたようなものだ。
 今日は、その先のルートを確保することにした。
 茨木までとした。
 高所登山の高度順応のように京都までの距離順応を高めるのだ。 
 万博公園前を通過し、モノレールに沿って中央環状線下を走れば、「マイカル」のあたりで14号線にぶつかることは以前、北摂周遊の走行で経験している。しかし、なにがなし裏寂れたルートなので敬遠したかった。
 モノレールには彩都方面にむかう支線がある。これに沿ってサイクリングコース(ランニングコース)が走っている。
 モノレール「公園東口」駅を越え、日本庭園の前で万博公園に来る途中で乗り捨てた「南千里茨木停車場線」と再会する。この界隈では「エキスポロード」などと洒落た名前になっているのも気分を明るくさせていい。
 緩い坂道を下れば、あっという間に茨木駅の「西駅前」だ。
 14号線を北上すれば高槻方面になる。
 今日は、茨木駅周辺を散策することに。
 駅前をすぎ、JRを潜って反対側に出る。
「駅前通り」の先に市役所がある。
 その前に見晴らしのいい通りともともとは小川でも流れていたような緑地帯が寄り添っていた。その緑地帯にかけられた橋の名は「高橋」。
「たかはし」ではない。
「たかばし」。
 濁るのだ。
 車道には「川端通り」の標識がかけられている。
 緑地帯沿いにしばらく走ると「川端康成記念文学館」があらわれた。
 日本人初のノーベル賞受賞者、作家の川端康成氏の記念館だ。
 幼くして両親を亡くした氏は、3歳から15歳まで祖父母に育てられ、15歳で祖父母も失うと天涯孤独の孤児となった。伯父にひきとられ、旧制中学を卒業する18歳までの15年間を茨木で過ごしたらしい。
 さきほどの「川端通り」は川端康成の川端をとったらしい。
 戦国時代、茨木は、隣の高槻とともに、荒木村重の支配地となっていた。その与力大名が高槻の高山右近と茨木の中川瀬兵衛だ。
 高山も中川も荒木の信長への謀反時には同調せず、秀吉の配下となる。
 摂津の「古豪」というイメージの強い中川家の支配地だった茨木は、今でも周囲に古い造りの門構えの民家が多く、歴史散歩などにいい味を出しそうな街だ。
 途中、「茨木市」版13000分の1の地図を購入。
 万博公園まで6.1キロ。そこから茨木駅前まで3.4キロ、川端康成文学館まで1.8キロ
 片道約12キロ。往復で24キロ。
 隣町に行ったような気楽な道行だ。


 川端康成文学館
 高橋の欄干には「茨木童子(いばらきどうじ)」が。
 平安時代、源頼光に退治された大江山の鬼、酒呑童子の舎弟だったらしい。
→→back      戻る
高槻行
 高槻へ。
 茨木までのルートを確保した今、次の目標地点は高槻だ。
 中川瀬兵衛(茨木)の次は高山右近(高槻)を陥とす。
 大阪から京都への進撃ルートはここを拠点とする。
 淀川の沖積によって形成された河内平野の北東方向に京都はある。
 この沖積平野は河口で広がり、途中ひょうたんのくびれのように狭隘となる地がある。
 そこが山崎である。
 山崎で、桂川、宇治川、木津川の三川が合流し、淀川となる。
 水流が収束せざるを得ないほど、この地は細い。
 地形状、京都の攻防はここに収斂する。
 京都への上洛ルートは、淀川西岸の西国街道(171号線)か、東岸の大阪街道(13号線→国1)、さらに東寄りの竹田街道の3本があるが、いずれのルートを選ぼうとも、山崎で、その狭隘な地形により部隊の展開が不可能になる。
 大阪方面からの上洛軍を迎え撃つならこの地をおいてない。
 光秀もここで秀吉と雌雄を決した。
 幕軍が鳥羽伏見で官軍と干戈を交えている最中、後方支援陣地となるこの地を守る藤堂藩が官軍に寝返った。これにより再攻の機会が潰えた幕軍は、撤退の憂き目を見る。
 高槻はその山崎の表玄関になる。
 ここを攻める。
 茨木から利用した14号線から171号線に乗り換える。
 街道はほぼ直線で構成されている。
 若干のアップダウンはあるが、走りやすいルートだ。
 高槻駅の手前で171号線は大きな鍵辻を描く。
 並行していた、JR京都線、阪急京都線を潜り抜け、その後再び北東方向に向きを変える。
 そのすぐ先が、高槻市役所前だ。
 緑地公園から高槻市役所まで16キロ。今日は往復で32キロの走行。
 京都までは、あと22キロである。 

→→back      戻る
大山崎行2
 171号線(西国街道)は、高槻を過ぎると阪急京都線に寄り添いはじめる。
 東を走っていた新幹線が、阪急と交錯するように近づき、171号線を跨ぎ、西側で並走を始める。
 この場所で、新幹線の車窓に映る銀色の巨大な玉が吊り下げられた妙に目立つ構造物は、171号線沿いのパチンコ屋であることが判明。
 筆者が来阪した2002年、JR京都線は高槻、山崎駅間の一駅間が異様に長かった。
 JRでも長すぎると思ったのだろう。沿線人口が増えたからかもしれない。2008年、島本駅がこの区間に新設された。
 島本駅は、阪急京都線の水無瀬駅に対抗することになる。
 今、その界隈を走っている。
「サントリー山崎蒸留所」へのアクセス看板が現れた。
 京都の地下には巨大な水瓶がある。
 それを地底湖と呼んでいいものかどうかは知らないが、その水瓶から水が溢れ出る地点が山崎である。
 スコッチ造りに必要な清涼な水を求めて寿屋(現サントリー)がこの地にディスティラリーを建造したのも故なきことではなかった。
「山崎蒸留所」はサントリーの顔でもある。
 JR京都線(在来線)からでも、新幹線からでも、天王山の麓にその姿を見ることができる。
 高架を走ることが多い新幹線が、車道、在来線などと並び地上を走る珍しい区間が始まっている。
 JR京都線、阪急京都線、新幹線、171号線だけでなく、河川もこの地に集まってくる。
 171号線上からでは確認できないが、手前の桂川のむこうに宇治川、そのむこうに木津川が流れ、ひとつに合し、淀川となっている。
 阪急「大山崎駅」の手前で大阪府から京都府に越境する。
 国土交通省の河川表示が大阪府側で「淀川」京都府側で「桂川」となっている。
 1年前の4月、不毛な戦いの末、ここまで来た。
 記録を更新するべく、あと少し歩を、否、車輪を進めることにした。
 西側を走っていた新幹線が再び171号線を跨ぎ、東側に位置を変える。
 真っ赤なガルウイングの扉を開けたスポーツカーが屋上に据えられているのは、自動車整備工場だろうか。妙に目立つ。
 やがて、青い高架のループが幾重にも巻きつき、ほぐれ、大阪、京都、奈良の三方面に車列を吐き出す巨大な蝶の口のような姿が現れる。
 大山崎ジャンクションだ。
 その傍らに大山崎町体育館がある。
 自転車が走れる歩道橋の上で、目の前を新幹線が轟音とともに通過してゆく。
 この先は、「長岡京」「向日町」「西大路」そして「京都」である。
 今日はここまでにして帰陣。
 片道28キロ、往復56キロ。
 筆者にとっては疲労を感じる距離だ。
 京都まで、あと17キロ程度。 


 因縁の地「山崎」に筆者は帰ってきた

 山崎から京都まで19キロ。171号線、新幹線、阪急京都線が桂川沿いに収束する

 天王山。名神高速最大の難工事の地。山崎の合戦でいち早く秀吉がおさえた戦術上の要地

 大山崎町体育館前の歩道橋から。右の画像は、島本・高槻間にあるパチンコ屋
→→back      戻る
摂津本山行2
 2週前に大山崎まで行ったが、京都までの片道45キロ、往復90キロを走破する自信は、まだない。
 筆者は「走り屋」ではないのだ。
 ビスタチオの殻のようなヘルメットも、全身蛍光ペンのようなパッツンパッツンのウエアも持っていない。もちろん車道を「シャー」という小気味良い音を立てながら前傾姿勢で時速30キロ、1分間に90回転のペダリングなんかしていない(できない)。
 あくまでも駅前にタバコを買いに行く親爺のかっこうでゆるゆるとペダルを回すだけ。
 けっして「バイシクル」などと呼ばわらず「チャリ」と呼ぶ。
 筆者がマニア体質でないことは、よくお分かりいただけていると思う。

 摂津本山までは10ヶ月前に走っている。
 しかし、途中経路がまったく明確ではない。
 どこを、どう走ったのやら。やみくもに走りつづけた前回の経験は「役立たない体験」そのもの。読書は、その本に書かれていることの6割をすでに理解していなければ、知識のインプットには役立たないという。ルート確保も同じようなものだ。
 今日は、明確な目標と計画をもって西へ行く。
 強力な武器を用意した。
 昭文社の「スーパーマップル」関西版。
 マップ数240枚強、大阪・神戸・京都・奈良・大津など多くのエリアを1万5千分の1、その他地域を3万分の1で納めてある分厚い本だ(3800円+税)。
 チャリの前カゴに放り込み、11:00にスタート。
 スタートからして前回とは進行方向が違う。
 基本はとにかくまっすぐに西進。
 北摂は、大阪に寄らず京と西国を結ぶ回廊だったはずなのだ。
 緑地公園内を突っ切り、137号(曽根停車場線)で阪急宝塚線曽根駅そばを通過。
 勝部寺内線で11号(池田線)を潜り、伊丹空港の滑走路前をよぎる。
 空港そばの猪名川ぞいに出ると「田能遺跡」があった。縄文の遺跡らしい。
 11:30 「田能遺跡」
 興味をそそられ、しばし見学。
 猪名川を越えると、田能3丁目界隈の街並みを抜けることになる。
、大きなケヤキが目印のこの界隈は、恐らく昔のままの古い街並みが残っているのだろう。鍵辻が多く、迷いやすい。
 田能を抜けて41号に乗り、JR福知山線(伊丹駅、伊那寺駅間)、阪急伊丹線(新伊丹駅、伊那野駅間)を越える。
 41号から336号に乗り換えるが、直線路であることはかわらない。
「御願塚古墳」があった。
 やっぱ、西国は古墳が多い。
 興味をそそられ、しばし見学。
 12:00 野間交番前を通過し、武庫之庄に入る。
 武庫之庄の街並みも古い。ここでも幹線をいったん外れ、私道と見まがうばかりの迷いやすい道を走る。
 12:15 武庫川に出る。甲武橋を渡るのは171号線。
 京に行くにも171号、神戸に向かうにも171号。さすがは西国街道である。
 171号線はやや北に偏り西進を続けたルートを南よりに修正すべく海側に向かって斜行している。
 12:40 171号線が国道2号線にぶつかる。
 JR神戸線西宮駅、さくら夙川駅間である。
 ここで国2にスイッチ。
 前回も走行した国2は実に走りやすい。
 12:45 JR神戸線さくら夙川駅前を通過。
「ふーりん」という屋号のラーメン・餃子屋の前がすごい行列だ。有名店なのか?
 13:00 芦屋川を通過。
 13:15 摂津本山の兜を模した小さなアーケードで進行を終え、帰陣。
 往復46キロ。
 西進のルートを完全に把握した。
 神戸への進攻作戦は、近日中に実行されることになるだろう。


 田能遺跡 と 御願塚古墳掲示

 田能町 と 武庫之庄 界隈

 171(いないち)の武庫川甲武橋 と 国道2号線

 夙川 楠木正成戦跡 摂津本山アーケード
→→back      戻る