オーディオ日記 第60章 音楽に抱かれて眠りたい(その1)2025年9月10日


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浄土へ至る道:

聞きかじりのような知識なので正しいものなのか定かではないのだが、仏教界ではこの現世の穢土から転生し蓮の花の中から浄土へ生まれ変わるという。釈迦のような苦行をしなくても念仏を唱えることにより浄土に行けるとする宗派もあるが、諸説あるので何が正しい理屈なのか理解はできていない。

率直に云えば宗教的なことには全く疎いのだが天上世界あるいは天国だとか、はたまた極楽浄土やら地獄やら、、、これらは皆人間の想像力が生み出した産物とだけ言い切ってしまえないし、その存在はある種の説得力も持つ。本当に魂を救うものなのか、あるいは浄財を集金するための仕掛け、更には人の行動を縛るような政治的要素までも含んだ仕組みでもあろうか。

この歳ともなると、何らかの仏法の存在も絵空事としてあながち否定することはできない。「浄土」とはおそらく多くの人々の願いもそこに込められたある種の桃源郷なんだろうとも思う。人に限らず全ての生き物は生まれ、そして死ぬ。自然の営みそのものである命の連鎖は輪廻も転生もなく続いていく。人の生死や魂の有り様などは地球規模的に考えれば取るに足らないレベルのものであるけれど、それでも「自分」という一人称となった時は笑い飛ばせるようなものでは無くなる。

自分の生という旅の終わりが近づいてくるにつれ、何らかの自分流の整理、納得をしておく必要があるのかもしれない、、、そのような単純な理由付けをして浄土を廻る旅をしてみた。浄土ヶ浜だとか浄土平だとか、こんなネーミングに惹かれるのはやはり年齢のなせる技なんだろうと思う。もちろんそこで何らかの解を見つけることなど思いも及ばないけれど浄土たる一片は垣間見れるかもしれないと、、、

(左)浄土ヶ浜遠景 (右)火口越しに浄土平を臨む:
Jyoudogahama Jyoudodaira

オーディオという視点に立つとき、自分なりに想像する「オーディオの浄土」へは何としても辿り着きたいと思ってしまうし、それが出来ぬものなら浄土の一片にでも触れてみたいというのは、どのような理由によるものなのか。生に執着しているつもりはない。けれどオーディオにおける音楽再生の理想郷というものを夢見ざるを得ないのだ。具体的な形は天国や極楽浄土と同じで今の自分には全くイメージすらできないけれど、きっとあるんじゃないか、あるんだとすればそこに行かなければならない、と。

ここに書き連ねたいろいろな駄文の主題はオーディオの道の探求である。この道を尋ね歩き続けている理由はただひとつ、辿り着くべきオーディオの浄土へはどのようにして至れるのか、そしてそれはどんな音の世界なのか、果たして自分が行き着けるのか。辿り着くことは叶わぬ夢としてもせめて道の果てが垣間見えるところまでは行きたいのだ。天上の音楽あるいは浄土の調べを遥か遠くからでも、一度でも良いので耳にしてみたい。

オーディオにおける音楽の「音」は現実のコンサートの音楽、音とは少し違うようにも思う。自然界にあるごく普通に聴いている何気ない音とも違う。その差が何に依存するものか判らないし的確に指摘もできないのだけれど違う。人工的なもの? 聴覚の及ぼす幻影? 具体的な違いがあるけれども因果関係が掴めない。正体が判らないのだけれど、ここに何らかの秘密の解がある、、、

一度空間に解き放たれた音、音楽を機械によってキャプチャし、保存加工した上で、それを最終的には機械的振動によって再生する。このプロセスを鑑みれば、自然の音とは異なることも極当たり前のようにも思える。だから、本当は同じ次元で捉えようとすることは間違ったアプローチなのかもしれない。どこまで似せるか、その類似度が高いほど「良い音」として評価することになるのだろうか。自分としても自然音よりも更に純粋な音を求めてしまっている部分があるような気もする。

この疑問はずっと考え続けてきたことなのだが、未だ解には至らない。元々解の無い話だとも思う。けれど、コンサートホールにおけるオーケストラの音楽体験をそのままそっくり再現できたとすれば、それがここで頭を悩ませているオーディオの理想形なんだろうか。確かにこれが実現できれば探し続けてきたオーディオの浄土と考えて良いのかもしれない。もちろんこのことは古くからひとつのオーディオの理想として捉えられてきたことでもある。

オーディオの評価にはいろいろな尺度があって、加工プロセスを経た音が良く聴こえるようになることもひとつのポイントかもしれない。けれど、自分としては(過剰な)人工的リバーブを評価軸とするような聴き方ではなく、コンサートホールにおけるオーケストラの演奏を(これも言い古された表現だが)自分のオーディオルームで不足なく再現できること、これがやはり自分にとって絶対的な基準となる。

このような音を求めること自体はオーディオファイルにとってはある種当然、当たり前のことのようにも思うが、実のところそれに至るには超絶的なハードルがあるとも認識している。広大なダイナミックレンジを余裕でカバーできるような装置や部屋という要素もあるし、多彩な音を的確に描写出来る機器の資質を持っていなければならない。また、オーケストラの録音にはやはり難しいものがあるので音源そのものもこの命題をクリアーできるような所謂超優秀録音?であることが前提ともなる。

「浄土」と呼ばれる場所を旅をしてみても結局浄土そのものを実感することはないのだが旅の楽しさや思い出はしっかりと残る。オーディオもいろいろと要求を付ければ際限が無くなってしまいいつまでも理想へ至ることはできないのだが、完璧ではなくともやはり好きな音楽を心地良く楽しめること、単純に考えればそれがひとつの浄土なのかもしれない、、、

湾内は穏やかだが先端部の方が海としては楽しい:(三途の川を渡る練習)
Jyoudogahama Jyoudogahama