オーディオ日記 第37章 夢の旅路は続く(その16)2016年4月26日


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徒然なる日記など、、、

かねてより計画していた九州一周旅行。4月8日に自宅を発ち神戸よりフェリーにて門司へ。福岡、長崎、島原、天草などを順次めぐり、4月14日は熊本城、阿蘇山、阿蘇神社等を訪れた。その晩、熊本嘉島にあるホテルで地震にあう。従来経験していたゆらゆらするような揺れとは全く違う衝撃と轟音。あっという間の停電。幸いにも廊下の非常灯が点いたので、大急ぎで荷物をまとめ建物外へ。車中で夜を明かす。翌朝、良く状況が判らない中、人吉、霧島経由にて鹿児島へ移動。15日は鹿児島のホテル泊。深夜またもや地震。翌朝のニュースで本震による熊本周辺の惨状ならびに訪れた先の被害を知る。戦慄。一日も早い復興を祈願。

熊本城:


阿蘇神社(楼門):


4月22日:
Ubuntuの新しいバージョンがリリースされたので、早速Ubuntu Studio 16.04LTSをインストール。各種試験用の環境のため、USB HDDにクリーンインストール。mpdによる音楽再生環境を作っておく。従来の14.04LTSとあまり差は感じないが、インスール手順や環境構築を忘れないための復習として。

4月23日:
我が家の4wayスピーカーのエンクロージャを全て製作いただいているWoody&AllenさんとBug Head開発者であるOryaaaaaさん来訪。Oryaaaaaさんとはネットを介してのやり取りはあったがお会いするのは初めて。おそるおそるではあるが我が家の音を聴いていただく。夜は居酒屋で情報交換。音楽プレーヤーソフトの開発者のお話を伺うのは未経験のことであったのでついつい踏み込んで質問してしまう。

4月24日:
Intona USBアイソレータの接続方法やシールドをつらつらと考え、しょうもない「イントナの衣」を製作。また、金属ブロックでの挟み込みと制振もしたいのであるが、なかなか対応が難しく有り合わせの真鍮でお茶を濁す。USBケーブルは入力側、出力側とも電源フィルターを挿入するスタイル。またUSB DDC側はなるべく短いケーブル長とする。音は? まっ、気分ということで。

安直な銅箔シールドと真鍮の重し(見えているUSBケーブルは入力側):


4月25日:
audio funさん宅にてオフ会。Woody&Allenさん、Oryaaaaaさん、ケンさん、takeさんと重鎮揃い踏み。Bug HeadならびにFoobar2000、Macの再生ソフト等の聴き較べ。またIntona USBアイソレータの有無による変化比較。Omni MicのWavelet Spectrogramによるタイムアライメント調整に関してケンさんの実技指導。前日作成したイントナの衣については全面カバーがベターとアドバイス(ダメ出し)を受ける。早速対応してみよう。

閑話休題:

深夜、Radio Mozartをヘッドフォンで聴きながらこの駄文を書いている。モーツアルトの音楽は何故にかくも優しいのだろうか。優しさ故に聴きながらふと涙が滲む。その不思議さに囚われながらも心はつらつらとオーディオのことを考えている。 オーディオとは摩訶不思議なものだと思うことが多い。 メディア化された音楽を聴く術として必要不可欠な電気仕掛けであるが、何故かそれ自体が固有の世界と価値観を持つに至る。本来的にはこの電気仕掛けは無色透明たるべきものであって、このメディア化された音源、音楽のみが存在としての価値を持つ。どのような神耳を持つオーディオファイルであってもオーディオ機器だけで音楽を聴くことはできない。

だが、本当に不思議なことにこの機械自体があたかも魂を持っているかの様に時に詠うのだ。オーディオ機器は単なる機械であるはずなのだが、多くのオーディオファイルにとっては実はそれ以上の存在意義を持つ、云わば相棒、パートナーのような役回りでもあるのだ。そして時に(当方の場合は極稀に、なのだが)、そこにミューズの神が何の前触れもなしにそっと舞い降りるが如く、詠う瞬間がある。そこでは音楽とオーディオ機器の甘美な融合が起こる。この稀有な僥倖を何年も何年も待ち続けて、やっと出会えることもあれば、長く会えないこともある。そしてその邂逅は短く、決して我が胸中に長く留まっていてはくれない。邂逅の喜びも音楽に浸る安寧も殆どは一夜の限り。

何故なのか、その理由は判らない。考え続けても答えは出ない。オーディオ信者たる我が身にミューズの使徒は天上世界であるところのパライソを垣間見せ、それでいて決して堪能させることはせず、僅かな希望だけを示す。もっと精進せよ、この先に天上天国があるのだと指し示す。恐れずに進め、と言うことなのかもしれない。

その一瞬を待ち続け、どうすれば再び巡り会えるのか、あれやこれや日々考えながらオーディオ機器を愛でつつ臥薪嘗胆する。だがしかし、こんな一瞬が無ければオーディオなんぞとっくに辞めている、と思うこともある。だが、辞めることはできない。それは何故なのか、これも判らない。余命幾許、と考えればもっと安穏に音楽だけを楽しみたいような気もしてくるのだが、最早「普通」に音楽を聴き流すようなことでは深い感動は得られないのではないかとも思う。

これはオーディオ中毒?なのかもしれない。痺れるような音で音楽を聴くことができなければ喜びが半減するのだ。脳内麻薬たるドーパミンが放出されるような響きがそこになければ心が飢えてしまう。これは一体何なのだろう。求める「究極の音」は近いように思えて果てしなく遠い。この道の果てはどこにあるのかさえ未だ定かではない。

それでもミューズの神が舞い降りたその一瞬に遥か彼方にいるはずのモーツアルトの姿が垣間見える。そっとこちらを向いて微笑んでくれる気がする。それが喩え淡い夢の一齣であっても。しかし、いつ、そしてこの先何回出会えるのだろうか。それも判らない。ただひたすらに巡礼の如く、細道を訪ねる遍路を続けるのみ。願わくばこの身と魂が旅立つ時はミューズの神の奏でるandante catabileの調べでそっと送って欲しい。そう思うのは、この見果てぬ夢を現ながら追い続ける自らの心の乾きからかもしれない。


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