ジャパベン合衆国とは

 1977年7月、ワコオド純粋教育システム ”日本勉強協会”として
榎本了壱が発足させた企画。誌上で公認されたもののみが、会員番
号をもらえるという、読者くすぐりシステムを早くも取り入れた。
高三コースならぬ降参コース、後にベストセラーになった『大語海』
の源で ある専門熟語講座、盗作の森林文学館”引コラッ”などのコ
マイコーナーがぎゅうぎゅう詰めだった。ここはBHの治外法権の場
なので、榎本さん以外は企画には口出しできなかった。そのくせに
校正はさせられた。
 榎本さんは途中で協会ではなく、ジャパベン合衆国としてBHから
独立すると宣言。会員番号制は国民番号制と改めた。また、榎本さん
は”余はアラン・ゴミン大統領になる”と言い出し、お題目は「ト
モノエ」だった。USJ大事典 が始まりハウサーから小野寺紳が出て
ゴミン賞を獲得した。その後彼は選挙でジャパベン合衆国の首相に
なり、厚生大臣にかわえひふみがなった。(下の写真参照)

 

 

 79年4月号で彼女はビジョビジョ相談室を開設。このネ−ミングは
ゴミン大統領がつけた。それがイヤだったのか、後にJ OY女医診談室
に 変わった。 どっちにしても、ロマンポルノ系だ。この他に私立ひふ
み絵画館を設置 。花編とは違う、色っぽいお姉さんキャラの彼女を崇
拝するハウサー達が描いた彼女の似顔絵を掲載した。この当時、単な
る一読者に2ページも与えるなんて!と、私はひがんでいた。美人に
コンプレックスあんのよねー。
 でも、面白い記事発見したの。↑の号の上段の左端に注目。埼玉県
上福岡市の本多未知鷹・17歳とある。診断されにハガキだしたよう
だ。未知鷹の方が憧れていたんだね。でもまさか、その後に結婚する
なんて、二人とも思いもかけなかっただろうから、不思議な縁だね。
診断記念に写真がもらえるとあるが、未知鷹はどの写真もらったの?

 

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