2003.12.27

 朝、東京を発ち、11時に四条大宮駅を出て壬生から島原を抜け、「新選組誕生の地」を京都駅まで歩いた。
 今日の宿は平安神宮の前。とりあえず、「四条河原町」まで電車で行って、あとは歩いてみることとした。
 「阪急河原町駅」から地上へ出たのが午後4時30分。土曜の夕方で、凄い人出。河原町通りは歩道一杯の人。見えるのはアーケードの屋根と他人の背中だけ。

 四条河原町の交差点から、河原町通りを三条に向かって歩く。人混みの中を、人の流れに沿って歩くだけ。200mも歩いたろうか。左側の「京阪交通社」の旅行パンフレットに埋まるように古い石柱が立っている。
  「坂本龍馬 中岡慎太郎遭難之地」
近江屋跡 河原町通蛸薬師下ル

 慶応2年(1866)1月、坂本龍馬の斡旋により薩長同盟が成立。翌慶応3年(1867)10月、かねてより龍馬が提案していた「大政奉還」が決定。そして維新を目前にした11月15日「近江屋事件」が起こる。
 四条河原町の宿屋・近江屋の2階で、坂本龍馬が同志の中岡慎太郎とともに惨殺された。当初、新撰組の犯行と思われていたが、じつは「見廻組」の犯行であったことが、維新後に判明する。
 この3日後11月18日。ここから南西3kmほどの油小路で、新選組を抜け高台寺党を興した伊東甲子太郎が新選組の手で暗殺されている。

 近江屋跡をすぎて最初の信号で河原町通りを横断し、今度は四条通方向に数十mほど戻る。左側に「象<zou>」というあぶらとり紙のお店がある。坂本龍馬とともに活躍した中岡慎太郎が身を寄せた土佐藩御用達書林菊屋(鹿野安兵衛宅)の跡である。今は石碑が残るだけである。
中岡慎太郎寓居跡 河原町四条上ル米屋町382
 中岡慎太郎
 土佐藩大庄屋の家に生まれる。脱藩後、坂本龍馬に薩長同盟を提案し、反目し合う両藩の和解に奔走して達成させた。その後、海援隊の龍馬とともに、陸援隊の隊長として土佐藩の遊軍を率い、板垣退助を西郷隆盛に引き合わせるなど討幕の策を進めた。また岩倉具視ら公家方の信頼を受け、その折衝にも当たっていたが、1867年大政奉還の翌月、京都近江屋で龍馬と会談中を刺客に襲われ、3日後に30歳で絶命した。
もしも、慎太郎が薩長の同盟という構想を得ず、龍馬に提案していなかったら、今日の日本はまた違う姿になっていたかもしれない。
   =「象屋」前・案内パネルより=

 四条通の一本手前の路地を入る。BARのネオンなどが輝いており、両側にずらっと並ぶ飲み屋。とても、あの四条河原町という大繁華街の裏とは思えないような怪しげな通りである。
枡屋跡 下京区西木屋町通四条上る西
 
 丁度路地の中間あたりに、きれいな石畳と黒板塀の店がある。「汁」と書かれたのれんの掛かっているこの店は日本料理「志る幸」である。利休弁当・お味噌汁・だし巻き卵などが評判の志る幸であるが、幕末の頃、ここには「薪炭商・枡屋」の倉があった。
 元治元年(1864)6月5日、新選組は薪炭商・枡屋喜右衛門宅を襲撃した。喜右衛門こと長州の古高俊太郎は捕らえられ、壬生の前川邸の土蔵の2階で逆さ吊りにされ拷問を受ける。土方歳三が行った凄惨な拷問により長州の恐るべき計画が判明した。その計画とは御所に火を掛け、天皇を長州にお連れする・・・というものであった。これを阻止するために新選組は探索を始める。「池田屋事件」の幕開けである
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