奧の細道二人旅・酒田象潟

象潟2

翌朝 は空がよく晴れて、朝日が美しく射しだた頃、象潟に船を浮かべた。まづ 能因島に舟を寄せて、三年間も閑静に住まいしたいう跡をたづね、向こうの岸に舟をつけて陸に上がると、西行法師の歌に「花の上うごくあまのつり舟」とよまれた桜の老木があって、西行法師の記念を残して いる。水上に御陵があって、神功皇宮の御墓だという。ここの寺を神功皇宮にゆかりのある干満珠寺という。しかし、ここに皇宮がおいでになったということ をきいたことがない。どうしたことなのだろうか。この寺の座敷に座って簾をまきあげてながめると、風景が一眼の中に見つくされて、南方には鳥海山が天をささえるようにそびえ、その影が水上にうつっている。西方はむやむやの關で道がきわまって見え、東には堤を作って秋田に通ずる道が遥 かに続き、日本海が北方にどっしりとひかえており、その波が入って来るところを汐越という。潟の広さは縦横一里ほどで、その様 子は松島に似てはいるが、またちがっている。松島は美人が笑っている様な感じ だが、象潟は恨んでいるような感じである。寂しい感じに悲しみが添うて、この土地の様子は、美人が心を悩ましているもののような感じである。
   象潟や雨に西施がねぶの花
   汐越や鶴はぎぬれて海涼し
      祭 礼
   象潟や料理何くふ神祭        曾良
   蜑(あま)の家や戸板を敷て夕涼
                   みのゝ國の商人低耳
        岩上に雎鳩(みさご)の巣をみる
   こえぬ契ありてやみさごの巣     曾良

象潟 JR羽越本線・象潟駅

象潟は。当時は東西2.2キロ、南北3.3キロの入江に九十九の小島を浮かべ、芭蕉の時代は松島と並び称された景勝の地で、象潟はこの入り江の名前で、村の名は塩越でした。しかし、文化元年(1804年)6月4日、大地震によって地面が2.4mも隆起し、水が涸れてしまった為、一面田んぼとなりその中に点在する緑の小丘に昔の面影を漂わせるのみとなってしまいました。

 駅前の句碑 (真蹟懐紙の写し)
  きさかたの雨や西施がねぶの花
  ゆふ晴や桜に凉む波の花
  腰長や脛ぬれて海凉し

奥の細道記念切手碑
十六日象潟に着いた芭蕉は「能登屋」に泊まるつもりでわらじを脱いだのですが、熊野権現の祭で女客があって、やむなく向屋に宿泊しました。
能登屋跡 向屋跡
芭蕉滞留中、当地の名主今野又左衛門は実弟嘉兵衛をつかわして丁重にもてなした。
嘉兵衛宅跡 名主「今野又左衛門」宅跡
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