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Home > 旅の足跡 > NIFTY-Serve > 妖魔夜行
アップした時期やタイトルなど意味深なのですが、内容は単純に土部の設定を補完するような個人的なものでした。
※改行位置や誤字など当時のままになっています。
長崎和夫は、ゆっくりと目を開いた。
白い天井が見える。窓からは暖かい日差しと優しい風が彼を包む。昨日まで付けら
れていた、ごたごたとした機械類は取り払われていた。その気になれば話すことも
できそうだ。
「……父さん? ねぇさん! 父さんが目を覚ましたよ」
その声の主は和夫の次男、久司である。和夫は今、病院にいた。そして、この覚醒
が最後の覚醒になるかもしれない。彼は年老いてしまった。
部屋の中に彼の子供達、冴子、久司、勇気。そしてすでに結婚した長女と長男の
子供達、つまり和夫の孫が入ってきた。皆、深刻な顔をしている。最後に部屋に
入ってきたのは和夫の妹、タエ子だ。彼女も深いしわを刻んでしまったが、その目
には昔と変わらない優しい光をたたえていた。
和夫の子供たちとタエ子は、和夫がもう数日以内に他界すると告げられていた。
その事は、もちろん本人にもわかっていた。
自分を囲む家族を見ながら、和夫は再び、意識が混濁し始めたのを感じた……
ぼんやりと、何かが見えてきた。和夫はもう1度、自分が目覚めるのを感じてい
た。まだ、やりのこした事があるというのだろうか…?
目を開いた彼は、病室に自分と、もう1人しかいない事に気づいた。家族はどこ
に行ってしまったのか。
「すみません……少しだけ、2人で……」
男がそう言った。なつかしい声。なつかしい目。何も変わっていない。あの頃と
同じ様に、やさしく自分を見つめている。
「…と…とうさん……」
和夫はつぶやいた。それは声になっただろうか。彼の意識は遠く、遠く、時間を
遡っていった……
「待てッ! この餓鬼!」
俺は走った。いつものように、手に1つの芋を握り締めて。これで何度目だろう
か。でも自分は子供で、こうするしか…人の物をかっぱらうしか、生きていく方法
はないように思っていた。とにかく安全な場所まで逃げて、そして手の中の芋にか
ぶりつきたい。
周囲にはたくさんの軍服を着た大人がいたが、皆、つかれたような顔で他人に
かまっている余裕はなさそうだ。俺は土手にあがる道を駆け上がる。今日の男は
いやにしつこい。まだ追ってくる。前方に1人の中年男が立っていた。いまどき
珍しく丸顔のぽってりした男だ。身なりはそうでもないが、きっと金持ちに違い
ない。そういう時代だった。戦争が終わってすぐの頃。
丸顔の男は自分を見ていた。それも珍しい。他人を気にかける余裕がある。気に
なった。そしてその男の脇を通りぬけた時、突然、足元がふらついた。体力の限界
だ。俺は地面に頭から倒れこんでしまった。
「はぁ、はぁ、この……」
追ってきた男は乱暴に俺の腕をつかむと、転げ落ちた芋もそのままに、握り締めた
拳を振り上げた。目の前に火花が散った。口の中に鉄の味が広がる。倒れた俺に男
は蹴りまで見舞った。ずしんという衝撃が体に走る。殺されると思った。芋1つの
ために、自分は今、殺されようとしている。
「あのー……」
間の抜けた声、さっきの丸顔の男だ。
「ああ!? ……あ、なんだい、あんた? こいつの知り合いか?」
男はまだ俺の手をつかんだまま、丸顔に振り向いた。
「いえ、違いますけど……あの芋、あなたのでしょう? 良いんですか?」
丸顔が指差す、その先には1匹の犬がいた。口には芋をくわえている。
「あ、このっ、くそ犬! ちょっとあんた、この小僧を捕まえててくれ」
男は乱暴に、俺を丸顔に押し付けた。そして犬を追って行く。執念深い男だ。
「だいじょうぶですか?」
丸顔は俺を覗き込むと、にこりと微笑んだ。俺はなんだかなつかしかった。その
微笑みが。
「さ、ここにいるとあの人が戻ってきますから、行きましょうか」
と、俺を担ぎ上げて土手を降りて行く。
「なんだよ、お前。降ろせよ……」
とは言ってみた俺だが、自分では歩けそうもない。丸顔はそれを見抜いているよう
だった。
丸顔は俺をぼろい掘建て小屋に連れてきた。この辺はおなじようなぼろ屋が何軒
も続いて、長屋のようになっている。
「いま何か食べ物をあげますから。お腹空いてるんでしょう」
ぼろ屋の扉を開く。
「お帰りなさい」
中には1人の女の子がいた。丸顔の娘だろうか。小屋の中には何もない。金持ちと
いうわけではないようだ。でも、家があるだけましだ。
それから傷をふいてもらい、かゆをもらった。俺はそんな事される義理はないし
理由もわからなかったが、そういう事をどうこうと考える余裕はなく、あっという
間にかゆを平らげて、そのまま横になって眠ってしまった。なぜだろう、知らない
やつの家で眠ってしまうなんて……
俺は結局、そのまま丸顔の家にやっかいになる事になってしまっていた。俺が
頼んだわけじゃない。丸顔のやつが頼んだんだ。だから、そのままいてやる事に
した。
丸顔の名前は土部とか言っていた。娘の名前はタエ子。丸顔は「タエさん」と
丁寧に呼ぶ。変な親子だ。丸顔は昼間は出かけていていない。だからその間、
家にはタエ子と俺の2人きり。丸顔は「いやぁ、和夫くんがいてくれて助かりま
すよ。ねぇ、タエさん」等とほざいた。タエ子は黙ってうなずく。俺が家の物を
かっさらって逃げる事を考えていないのだろうか。タエ子は俺より1つか2つ年下
だ。俺を止めたりはできないだろうに。丸顔は心配じゃないのか。
とにかく、変な親子だ。
そのまま、数週間が過ぎた。
丸顔はいつでもやさしく、怒ったりしない。俺の戦争で死んだ親父はすぐに俺を殴
る男だった。母親は…たぶん、死んだに違いない。あの空襲の日に炎の中ではぐれ
て、そのままだ。いままでは、そんな事を思い出す余裕もなかった。あの丸顔の
せいで、俺は悲しい事を思い出してしまうんだ。
タエ子は無口だが、仕事はまめにこなす。食事や掃除程度だけど。ある時、俺は
タエ子に言ってしまった。
「お前の親父は変なやつだ」
だが、タエ子は特に怒ったりもせず。
「あの人は…本当のお父さんじゃないよ。でも、本当のお父さんだったら良
かったって思うけど……あの人は絶対に帰ってくるから」
やがて、家には他の子供も居付くようになった。俺の時と同じ様に丸顔が拾って
くるから。そいつらはすぐに丸顔になついた。俺は「おにいちゃん」呼ばわりされ
て迷惑だ。でも食べ物は困らない。だから、それくらい我慢しよう。
変なやつと言えば、時々、家にやってくる婆さまも変だ。話によるとこの長屋の
大家らしいが、いつも決まった日に蒸かした芋とハチミツを固めたアメを持ってく
る。なのに家賃を取り立てていく所を見たことがない。
「おれぁ、子供が好きなんだ。それに土部さんにゃあ、恩もある」
ある時、婆さまはそう言った。
丸顔はいつもどんな仕事をしているんだ。まったく知らないし、話す気にもなれ
ない。とにかく、俺も働かなくてはいけない。丸顔のためじゃない。自分のためだ。
弟たち…いや、他のガキどもも増えたんだ。
それで俺は婆さまの口聞きで、タエと一緒に近くの食堂で働くことにした。賃金
なんてたかが知れてるが、自分で金を稼いで生きているという実感が感じられた。
そして1年近くが過ぎた。世の中は敗戦から立ち直ろうとやっきになりだした頃
だ。いつものように婆さまが来る日。来なかった。婆さまは死んだ。その事を俺と
タエだけに丸顔は話したが、ただ死んだ、では納得できない。俺は丸顔に詰よって
聞き出した。なぜ、そんなに必死になったのかはわからない。
婆さまは殺されていた。いつものようにここに来る途中の道で、血を流して死ん
でいたのだ。堅く握られた手の中には溶けたハチミツがべっとりとついていたそう
だ。そして一緒に持っていたはずの芋はなくなっていた。追いはぎだろうという話
だった。土部はいやにくわしく話を知っていた。婆さまは抵抗した様子があった
らしい。「抵抗しなければ殺されなかったかもしれません」丸顔は言った。
俺は、婆さまは馬鹿だと思った。たかが芋、それも見知らぬガキどもにやるための
芋だ。そして命をかけて守ったのが、溶けて食べられなくなったハチミツのアメ1
つだったんだ。
「おばあさんが守ろうとしたのは…とても大切なものだったんです。和夫くんは
おばあさんが来た時の子供たちの顔を覚えていますか?」
丸顔が言った。まるで俺の心を見透かしているように。そして俺は覚えている。
婆さまが来たとき、皆うれしそうだった。きっと俺も少しはうれしそうにしたに
違いない。でも、それがなんだっていうんだ? 結局、残ったのは溶けたハチミツ
のアメ1個じゃないか!
目の前が真っ赤になった。なんだかわからない物が自分の中でドクドクと脈うっ
た。深い闇の中に落ちて行くような気がした。が、突然、肩を捕まれてハッとした。
見ると目の前にいつもの丸顔があった。真剣な目。いままでじっと土部の目を見た
事ってなかったかもしれない。深い、深い目の奥を俺は見つめた。すぅーと落ち着
いてきた。
「おばあさんは幸せだったと思いますか?」
丸顔が問う。
「わからない…だって俺、婆さまの事は何も知らないんだ」
「知っていますよ、あなたは。あなた達と過ごした時間が彼女にとっては一番
幸せな時間だったんですから…」
なぜ、そんな事が言えるんだ。
「和夫くんも…幸せを見つけられると良いですね。皆のために」
皆? 皆って誰だ。
その夜、俺はいろんな事を考えながら眠った。涙を見られないように、壁のほう
を向きながら。
次の日。俺とタエはいつものように食堂に行った。今日は夜に土部が子供たち
を連れて食堂に来ると言っていた。俺とタエの稼ぎのおかげだ。少し誇らしく、
同時になにか責任感のようなものが芽生えるのを感じた。
「おい、坊主。これ、裏に運んでくれ!」
食堂のおやじは俺を坊主と呼ぶ。はっきり言っていやだが、仕方ない。俺はまだ
坊主なんだから。荷物をもって、裏口から出た。
ふと、話し声が聞こえた。裏路地に2人の人影が見える。
「おう、昨日の稼ぎはどうだった?」
なにかヤバイ話をしているのかもしれない。俺はそっと隠れた。自分になにか
あってはいけない。弟たちの為に……一応、土部のためにも。
「まったく、胸糞悪い。なにやら包みを抱えてるババアがいたからさ、頂こう
としたらつかみ掛かってきやがって。しつこいもんだから、やっちまった」
なんだって?
「それで、その包みってのは大層なもんが入ってたのかい」
「いや、芋だけだった。まぁ、量は結構あったんだがね」
なにかがはじけた。昨日の夜と同じだ。赤い、何かが、ドクドクと……
俺は店に戻った。おやじの包丁をつかむ。おやじは気がつかない。俺は裏口の
戸を開ける。男たちは俺を見て、1人は睨みつけ、1人はニヤリと笑った。
俺は後ろ手に持っていた包丁を男の足に突き立てた。男の薄ら笑いは消えた。
ぎゃっと声をあげる。俺はもう1度、包丁を振り上げ、しゃがみこんだ男の頭
をめがけて振り下ろし…
「こ、このガキ!」
邪魔が入った。もう1人の男のとっさの蹴りによろけて壁にぶつかった。
「い、痛てぇ……うう、足が、足から血が…こんなに……」
足を押さえて男が何か言っている。でも、俺は何も感じない。蹴りを食らわせた
男は刃物を取り出し、俺を斬りつけた。二の腕を切り裂かれ、血が出た。でも
俺もその男をつき返す。指が落ちた。馬鹿め、さっさと手を引っ込めないからだ。
「ぎゃああああ」
俺はニヤリとした。腕の痛みは感じない。何も感じない……
「おにいちゃん!!」
タエの声。え? 今、俺の事を呼んだのか。始めて、おにいちゃんと……
突然、目の前に何かが飛びこんできた。そして俺は包まれる。
目がさめた時、俺は家にいて、腕には包帯が巻いてあった。なにがあったんだ
ろう。良く思い出せない。隣にはタエがいた。土部もいた。
「父さんが助けてくれたの」
タエが言う。土部はタエに「少し外に行っててください。大事な話があります」
と言って外に出させる。
「俺…俺、どうしたんだろう。急に訳が分からなくなって……!!」
思い出した。思い出してしまった。俺は恐ろしい事を…人を殺すのに何のためらい
もなかった。それどころか、喜びさえ……
土部が俺を抱き上げた。そしてそのまま、抱きしめた。始めてだ。いや、2度目
だ。あの時、俺を止めたのは…土部だった。俺は手の包丁を突き出す所だった。
手には感触さえ、残ってる。じゃあ、最後に俺が刺したのは…?
「あ、う、あ」
言葉が出ない。俺は、俺はっ!
「だいじょうぶです。私は包丁くらいじゃ、かすり傷も負いませんよ…」
何を言っているんだ。あの男、婆さまを殺した男はあんなに血が出てた。
「あの2人組は捕まりましたよ。だいじょうぶ、人間の法が裁いてくれます」
何を言ってるんだ。訳が判らない。
「あなたは、平気です。あれはあなたがやったんじゃないんです」
俺だ…俺以外の誰がやったって言うんだ。
「あれはね、妖怪なんですよ。激怒っていう妖怪が人間の中には居まして…
あなたは1回、それに負けてしまっただけです。皆、その妖怪と戦って
いるんですよ。だいじょうぶ。今度も皆が助けてくれます。私も」
妖怪?
「誰でも、その妖怪がいる? あんたにも…?」
俺は恐ろしくなった。皆があんな妖怪を飼っている…
「私は違います。私は人間にはなれませんから。でもずっと見守って、助けて
あげられます。……ほら、だいじょうぶ。感じるでしょう?」
感じた。良くわからないけど、土部の…父さんの言う『皆』の意味も、感じた。
判ったんじゃない。感じたんだ。
今思えば、妖怪なんてのは父さんの作り話だ。俺の為に、作ったんだ。だけど
あれは始めて父さんに救われた、大切な思い出なんだ。
「父さん……俺、ずっと守ってもらってた……俺、幸せ、見つけたかな…」
高崎和夫は病室でつぶやく。にっこりと、土部は微笑んだ。
「ええ、ほら、今もそこに……」
病室には、和夫の息子たち、孫たち、タエがいた。家族が見守るなかで和夫は
ゆっくりと目を閉じて、そしてそのまま眠るように逝った。
息子たちは涙を流していた。タエ子は1人、病室の窓へと近づいた。そして窓
から外を見た。
「父さん。来てくれたんですね……私の時にも、来てくれますか……?」
静かにつぶやく。病院の庭を、出口に向かって歩く、なつかしい後姿に向かって。
土部将信は病院からの帰り道、ずっと考えていた。時は平等だと、哲学者が
言っていたが、それは人間だけなのだろうか。人外の自分には、時の流れはない
のだろうか。あの頃の子供たちを見取るたびに、深い悲しみに襲われる。
やはり、人の世に出てくるべきではなかった。自分には、耐えられない。人間
なら、こんな悲しみにも耐えられるのだろうか。
「おい、おーいっ! ツチノベ、またぼけーっとしとるな」
ポケットから、ドッチェが顔を出す。
「まったく、協力してやったんじゃからな。約束のクッキー、忘れるな。
いいか、3000円のやつじゃぞ!」
そしてドッチェはポケットから飛び降りて、消えた。土部は聞いてなかった。
土部は、あの時の子供たちが皆、いなくなったら、ツチグモの世界に帰ろうと
思っていた。後は1人、タエ子だけが残っている。彼女まで、いなくなってし
まったら、自分がここにいる意味はない……
四谷の駅を出て、月見荘に向かう途中。突然、開いた居酒屋の扉に、考え事
をしていた土部はぶつかってしまった。
「あっ! す、すすみません……あれ、土部先生」
見れば、同じアパートの得手公雄だ。一緒に出てきたのは同じく迅野武虎。
「おうっ、なんだ、またぼやっとしてたんだろ」
「おや、お2人さん。奇遇ですな」
「奇遇…ってなんだ? ま、いいや、これから2軒目なんだ。先生も一緒に
どうだい?」
と武虎は豪快に言い放つ。見れば武虎はまだまだこれからという感じだが、得手
はかなりふらふらだ。
「ええっ……たた武虎くん、本気!?」
「あったりまえだろ。お前が給料出たから一緒に行こうって行ったんじゃねェの」
「いや、あ、あれは、そ、その」
もじもじする得手。武虎はそういう間が嫌いだ。
「よしっ、決まり、先生も行くぞーー」
がしっと2人の肩を抱え込んで武虎に引きづられる2人。
「得手くん……せっかくの給料、なくなってしまいますよ」
「いや、ほほホントに違うんです。武虎くんがな、なんか誤解しちゃて…」
「おお! 今の店、いいオンナがいたぜ! よっしゃ2軒目決定!」
がくっと肩を落とす得手。武虎は楽しそうだ。そんな2人を見て、土部は思う。
「やっぱり、時は平等ですかね」
また、独り言を言ってしまった。