. 2001.03.24
 ふや〜〜〜、疲れた疲れた。久々に魂を詰めたなあ。慣れないことはするもんじゃないって、そんなことほざいていられる立場じゃないし。それにもう一件、それなりに集中しないといけないことも控えているし。こんなときくらい、酒を呑んでもいいんじゃないかなあ。でも、やめとこう。ここでベルトを緩めると、貴ノ浪になってしまう。それでなくとも口さびしさに、ここんとこ餡こものばっかりパクついているし。ついこの間なんて、アンコたっぷりの大判焼きを3つもペロリとたいらげちゃったしなあ。連れ合いの分までいただいちゃった。まあ、ガキのときから意地汚ないほうではあったけど。貧乏けっこう、ダイワカンコウ、なんてね。もちろん、現代の日本でも極貧の人はいるんだろうし、そういう人からすれば甘チャンなんだろうけど。まあ、貧乏性であることには変わりないから、次に控える仕事も気になって気になって……昔から心にゆとりがないなだよなあ。こればっかりは、持って生まれたものか、あるいは生い立ちゆえのことなのか、どっちにしたってもう変えようがないんだ。かといって、素直に受け入れているわけでもなく、クヨクヨクヨクヨの連続。毎日書くはずだったこのページもとぎれちゃって、でも、また続けよう……根気を吐き出してしまったので、何のテーマも浮かばず、ダレた愚痴を記しました。今日はこれでおしまい。

2001.03.20
 世間はお彼岸、墓参りとか卒業式とかの人出はあるが、オフィス街は閑散としていた。仕事のからみで、広い意味での「ライフプラン系分野」のコンサルタントに話を聞きにいった。裏話もチラホラ。ここんとこ、いわゆる企業スポーツで廃部が相次いでいる。バレー、バスケット、陸上その他いろいろ。これは企業本体が業績不振でリストラ策として廃部になるのが主な理由だが、もうひとつ、若年層労働者をつなぎ止めるという、企業スポーツのかつての存在意義がもはや成り立たなくなったという理由もある。そのコンサルタント氏の指導先でも、以前は栄耀栄華をきわめたスポーツから撤退した。その一方で、(建前上は企業スポーツ部ではないが)Jリーグチームは存続させていることについて、社内では「赤字垂れ流しだからやめてしまえ」という声もあるのだそうだ。ウ〜ム……そんなことより仕事しよう。

2001.03.19
 今日の朝日の朝刊1面トップは「成果主義賃金 富士通見直し」「先駆導入から8年『弊害』」「失敗恐れ『挑戦』不足」なるものだった。そうなるだろうとは、ウスウス思っていたけど、あれだけ「先駆的」ともてはやされたのにねえ。ずいぶん昔のことだけど、一度だけ、富士通関係で仕事をしたことがある。教育用テキスト作成だったが、間に入った関連会社の人が「ラチがあかないので富士通本体の担当者と直接やってくれ」ってことになり、東京駅近くのでかいオフィスビルに赴いた。その担当者は、まあ、どちらかというと地味な方で、とてもじゃないけど「成果主義」とか「挑戦」とかいうタイプではなかった(勝手な印象だけど)。しかし、これはその人を批判しているわけではなくて、組織にはそういうタイプの人も必要だし、実際、担当している仕事自体が、「挑戦」とかよりも「着実」という言葉がふさわしいものであった。「挑戦」だって必要だろう。しかし、「着実」だって、それが欠如していたら、組織がどっちに突っ走ってしまうかわからない。「挑戦」と「着実」を同じ軸で計るモノサシが適切な部署や人材もいれば、「挑戦」や「着実」のどちらか片方だけについて、その先進性とか市場性とか巧拙とか過不足とかを計るモノサシが適切な部署や人材だっているだろう。ましてや富士通ほどの図体をもっていればなおさらである。そして、ひとつのモノサシが「やっぱりわが社には合わない」となったとき、そのままそのモノサシを押しとおしてしまうような愚は冒さず、キッパリと方針を転換する身軽さを見せたところも、さすがは富士通だ、と言えるかもしれない。ところで、同じ朝日の1面のトップ下の記事は、大和証券が一般職(の女性社員)のほとんどを、営業戦力として総合職なみの仕事を任せるようにしていくことを決めた、というものだった。これで、デキル人はその能力と実績で会社に貢献するだろうし、デキナイ人は、おそらく自主的に退社していくだろうから、リストラ効果ってことで会社に貢献するだろう。富士通にしても大和証券にしても、改革前の犠牲と改革時の犠牲と改革後の犠牲とを秤にかけたってことだろうが、どちらかというと大和証券のほうが、「話が違うよ」っていう声にならない声がいずこかへ消えていく頻度が高いであろうことは間違いあるまい。

2001.03.18
 サッカーくじの1等当選金が250万円で、3等にいたっては2千円あまり、これはちょっと溜飲が下がった……なんて、我ながら情けない……本の雑誌社から出ている「新・匿名座談会」を読む。本当はこんな読書に時間を割いている状況じゃないのだが、いかんせん、軽く読めるのと現実逃避も重なって読みとおしてしまった。時刻表編集者の座談会が、マニアのこととか誤植のこととか、おもしろかった。特急が1本増えるより、山の手線の時間が1分ずれるほうがはるかにタイヘン、なんてところはそうだろうなあ、とナットク。でも、あんなのを3人くらいでやってるなんて、校正を思うと人ごとながらゾッとする。他はまあ、こんなもんかなって感じ。

2001.03.17
 何に望みをつなげばよいのだろう、この人生は。テレビ埼玉でレッズvsセレッソ戦を視ていて、落ち込んでしまった。どっちが勝ってもおかしくない、前半はセレッソペース、後半から延長戦はレッズペース、ダブルで賭けていたので、どっちかが勝ってほしかったのに、引き分けとは……絶句。他の会場のゲーム結果も知らされ、早々と戦線離脱してしまった。2節連続で番狂わせテンコモリかあ……溜息……これからは予想するときには天候なんてのも考慮に入れないと……デーゲームには滅法弱いレイソルとか、そういうデータはアタマに蓄積していたはずなのに……適中率は半分にも満たない……壊滅状態であった……生きる気力を喪失……うつろな目をしてチャンネルを回す……相撲でも見るか……と、ここで一服の清涼剤になったのは、武蔵丸と琴光喜の一戦……土俵際に2度も詰め寄られるもかろうじて残し、押し返す琴光喜、いつのまにやら深いもろ差しで、武蔵丸は食い付かれて腰が伸び切っている……かつての琴風ほどではないがガブリ気味に精一杯の力で寄る琴光喜……こちらの血圧まで高くなりそうだ……っていうか、血圧は高くなるだけでなく、つられてこぶしに力が入ってしまう……武蔵丸はとうとう耐えきれずに土俵を割る……大歓声で湧く場内……誰しもが満面の笑みをたたえ、喜びにひたりながら勢いあまって座布団を投げる……武蔵丸のふがいなさに怒ってのことではなく、琴光喜の大健闘に火をつけられてのことで、飛んできた座布団に当たってしまった観客は、頭を両手でかばいながらも、やはりニコニコしている……相撲ってのは、こうじゃないとねえ、力士がほんの短時間に力と技とスピードの限りを尽くし、その結果、観客は興奮のあまり声を上げ、それも笑顔笑顔笑顔のオンパレードで、たとえ残念な勝敗になっても、どことなくにこやかに「あ〜〜〜」っと溜息まじりの声を漏らす……これが相撲の醍醐味だよなあ……八百長とか無気力相撲とか、そんなことより大切なことだ……しかし、貴乃花が万全の相撲で勝ったのを見届けてテレビを消し、フト我に返って見れば、無惨なサッカーくじのはずれ券が散らばっている……「もしレッズが0−2から追い付かずにあのまま負けていたら、レッズサポはどういう反応をしただろう? とてもじゃないが相撲の観客のようにはいくまい」などとくだらないことを考えつつ、来週こそ! と心に念ずるのであった……仕事もしなきゃ……。

2001.03.16
 私の場合、風邪はたいてい喉からくる。体力が低下し、タバコの吸いすぎで喉がいがらっぽくなり、やがて痛みだし、次第に寒気が襲ってきて、とうとう頭痛となる。これまでなら、ここにアルコールが触媒となって症状を悪化させるのだが、ここのところの断酒のおかげでダウンするまでには至らない。それでも頭はボンヤリ身体はグッタリ気分はゲンナリである。そんな体調のまま厚生労働省で雇用保険改正のパンフをもらい、日比谷図書館で探し物をするがそこにはないことを知り、そうしてS社へ「面接」に赴いた。恐れていたことが起こった。先方は、こちらを「正社員志望の面接者」と思ったらしい。社長室で、どちらも名乗ろうとはしなかったのでわからないが、たぶん社長と、その父上らしい会長のような方と話は始まった。元職の退職理由なんていうのを尋ねられるうちに、これはおかしいと気付き、「送付した案内にも書きましたが、フリーでお手伝いを希望しているのですが」と確認すると、「なあんだあ、そうかあ、(きちんとした)履歴書も写真もないからおかしいとは思ったんだよ」ということになり、「要するに営業かあ」ってことで、接点の見い出しようもなく退散するハメになってしまった。あ〜あ、無駄足だったなあ、と、スゴスゴ最寄りの駅に向かう。そのころには、皮肉なことに、バファリンがテキメンに効いて体調もよくなっていた。

2001.03.15
 ほぼ完徹(夜)のままK社へ。途中、東京都労働経済センターの資料室に行くも休館日。ハローワークも不発。飯田橋駅近くの蕎麦屋の店先で電線だか配電だかがらみのボヤがあったらしく、ウジャウジャと消防隊員がひしめいている。何人もが土嚢のようなものを運んでいたりして、ちょっとばかりモノモノシイ雰囲気もあった。蕎麦屋は営業を停止していたが、隣の店は開いており、シロウト目にはそんなに大したことなさそうに見えるのだが、消防署って、針小棒大気味なのかもしれない。まあ、これは別に悪意があっていうのではないのだが、延焼全焼といった大舞台はそんなに多くはないので、こういう小屋掛け芝居のようなときでも、いちおう晴れ舞台は晴れ舞台であるし、他に焦眉の急はないのだから、デモンストレーションも兼ねてワイワイと、賑々しくやろうじゃないかってことなんだろうなあ。今日は妙に暖かい。風も強い。体調不良。

2001.03.14
 例によって無為に過ごした夕刻、Jチャンを視ていると、おコメの話題。2つのテーマがあって、ひとつのテーマは偽ブランド米で、番組で調べた5銘柄のうち、遺伝子検査によってホンモノとされたのは、もっとも高額だった新潟産コシヒカリの1銘柄だけで、他はブランドならぬブレンド米であったり、明らかに違うブランド米だったり、ひどいものである。おコメの世界では、高額であればあるほど高品質ってのが、まだまだ通用するようだ。これは、精米から袋詰めの段階(卸売業者)でおこることらしい。番組では、ある業者に電話で直撃取材を敢行、業者は「おいしく食べるためにはブレンドするのが当たり前」と言っていたが、それではブランド100%表示とするのはどうなのかと攻められると、「そんな重箱のスミをつつくようなことをするな!」とほとんど逆ギレ状態になった。後ろ暗かったわけである。「重箱のスミをつつく」って、それこそコメのひと粒ふた粒のことなんだけど、おコメひと粒には7人の神様がいるとか、お百姓さんに感謝しようとか、とにかくひと粒残さずたいらげることが美徳のように言われることもあった時代をかろうじて体験してきた身としては、なんともやりきれない。業者の言い分としては、スーパーなどの小売業者の価格競争、ひいては消費者のニーズなのだから仕方がない面もあるということになろうが、今どき、安かろう悪かろうでもあるまい。実際、そんなことをやっていて、儲かるのだろうか? 味の良し悪しと、価格の高低と、ブランドの有無と、消費者の嗜好と、これらをゴッチャにして自己正当化するような業者は、実名で放映してもいいんじゃないかって、これは極論。それはともかく、今日の収穫はもうひとつのテーマで、コメの研ぎ方。一流料亭の板前サンによれば、コメをガシガシ研ぐのは、精米にヌカが残っていた時代の名残りであって、最近のコメはササッと2〜3回水ですすぐ程度でよいのだそうだ。そうなると、無洗米って何なのだろうか? まあ、それなら普通のコメでも手間はそれほどかからないわけで、良さそうなブランド米で試してみよう。

2001.03.13
 阪神大震災に関連してもう一席。知人に回してもらった仕事の資料を見ていて、ものすごい違和感をおぼえた。プレハブ住宅メーカーM社のパンフレットで、住宅の耐震性を誇るページ。同社のプレハブ住宅は、関東大震災はもとより、阪神大震災をも超える、1000gal(時速108kmで走る車が3秒間で急停車するときの凄まじい衝撃に相当するらしい)の揺れにも耐えることが、実物実験で証明されているという。事実、阪神大震災でも、同社の住宅は全壊も半壊もゼロだったそうだ。そして、リアルな写真がひとつ。無惨にも倒壊した家屋と、その隣に建つ同社の住宅……傾くことも、ヒビわれることもなく、堂々と屹立している。こういう写真、載せるかなあ、普通。もちろん、耐震性の高さを証明するのにこれほどみごとな写真はないだろうが、ちょっと神経を疑ってしまう。「地震って、恐いですよねえ、こんなにペチャンコに壊れてしまうんですよ。ところがどうでしょう。隣を見てください、わが社の住宅は何ごともなかったかのようです。しっかりしたものでしょう。わが社の住宅にしていないと、こんなハメになるんです。まあ、可哀相だけど、自業自得でもあるわけでございまして、だから、いかがでしょう、この際、思い切って、わが社の……」というエゲツないメッセージを、読みとろうと思えば読みとれてしまうのだ。品格……品性……持ち家なんて持てない(持ちたくない)者のつぶやきであった。

2001.03.12
 斎藤貴男「精神の瓦礫」に関連してもう一言。阪神大震災の罹災者の中には、住宅ローンを二重に抱えることになった人もいた。震災で壊れた元の住宅のローンと、再建した住宅のローンである。もちろん、住宅なんて持てない人もいるわけで、ローンを組める人はまだ恵まれたほうなのかもしれない。しかし、ことは天変地異によるもので、たとえばローンの減免とか、低利融資とか、何らかのかたちで公的な支援は必要なのではないか、という論理がある。これはこれで、ある程度は共感できる。ところで、今週号の「週刊ダイヤモンド」で、野口悠紀雄が、「私有財産と公的支援」と題して、この問題に対する見解を示している。要約すれば、「私有財産制のもとでは、住宅などの私有財産からもたらされる利益は、その私有財産を有する者が独占する。同時に、私有財産に関する損失も、その者に帰属するのが原則である。したがって、仮に天変地異のような不可抗力による損失であっても、その損失に対する公的な支援はするべきではない」ということだ。これは確かにそのとおりであろう。私有財産がもたらす利益だけは私的に独占しておいて、いざ損失発生となったら他人にその補填を求めるというのではスジがとおらない。心情的にどのように感じるかはさておいて、原則は原則である。しかし、野口氏は「以上のような主張に説得性がないことを、前から十分認識していたのである。なぜなら、農業分野においては、私有財産に対する予算措置が現実に行われているからだ。(中略)「農業で許されることが、なぜ住宅では許されないのか」という批判に答えることはできない」と慨嘆する。もはや公的部門においては原則などないかのごとし……外務省の機密費問題しかり、森首相のゴルフ会員券問題しかり。「原理原則が無視されれば、秩序は維持できない。無原則社会は、図々しさと強弁と居直りだけが幅をきかす世界である」……ここにおいて、斎藤と野口の議論は交差する。

2001.03.11
 今日の2試合の結果を待つまでもなく、昨日の時点であっけなく撃沈されてしまった……toto……福岡vsG大阪、大分vs大宮をシブくも当てた。けれども、東京ダービー、Fマリノスvs神戸、このあたりは迷ったんだよなあ、実際。これらは外しても仕方がないが、京都vs山形の引き分けなんて、当てられるわけないよ。サッカーくじは怪しからん。射幸心をあおるし、家庭内に闘争的気分とその後の虚脱感無気力感をもたらす。今からでも遅くない。廃止すべきであろう。それにしても、今節にくらべれば次節は予想しやすいかも? 捲土重来を期したいが、番狂わせ狙いをどこに持っていこうか、結局は、再び悩み、再び撃沈だろうなあ。
 さて、斎藤貴男「精神の瓦礫」を読む。「ニッポン・バブルの爪痕」とサブタイトルにあるように、バブルが何をもたらしたか、何を破壊し、今もなお破壊したままで放置しているかをルポしたもの。地上げ、ケータイを取り上げた最初の2編はあまりおもしろくなくて、途中で投げ出しそうだなあ、と思っていたのだが、読みすすめるうちにハマってきた。長野五輪と建設業界、湯沢のリゾートマンション、放慢財政の一端を担ったNTT株放出、小笠原空港建設をめぐる議員や住民の相互不信・対立、不況が企業メセナに与えた影響、同じく不況が一流の料理人たちに与えた影響、「課長 島耕作」の作者の作風の変転と回帰?、社会階層の固定化を物語る「二世」の蔓延、阪神大震災の罹災者の現実と馬鹿馬鹿しい「地域振興券」の背後に透けてみえる国民総背番号制、などなど、それぞれがバブルとその崩壊以降に何があったのか、その腐臭の発する元を生々しく曝け出すようにして描写する。なかでも興味深かったのは、それまで「好感」をもって話を聞いていた元長銀マンが、バブル期の狂乱について、バブルの渦中にいれば誰でもそうなってしまうだろうと、悪びれるふうもなく(?)語ったとき、長銀マンの「プライド」と、著者が考える「プライド」との落差を感じてしまった、という1編。我が身を冷静に振り返ってみれば、著者のいう「プライド」を保てるかというとはなはだ疑問で、元長銀マンの言葉に「そうだよなあ」と頷いてしまいそうだ。そうしたテーマはさておいて、ちょっと目をひいたのは、「目標管理制度」のこと。長銀では、80年代前半の第5次長計で、「量」より「質」、つまりは「融資」より「投資」を志向することを打ち出し、その一環として労働についても「質」を問うべく、ヘイ・システムによる目標管理制度を日本で最初に導入した。ところが、バブルが到来し、第5次長計は期半ばにして打ち切られた。代わる第6次長計は「中堅企業の新規開拓・融資の拡大」を最大の狙いとするもので、目標管理制度は、成果主義=目標の達成度を評価する、という点で、イケイケ路線の推進の一翼を担ったのではないか、と著者は考える。目標管理制度導入の中心的な役割を果たした元長銀マンは、著者のインタビューに、「ヘイ・システムそのものには今でも自信があります。(中略)問題があったとすれば、融資額の拡大ばかりを重んじた目標設定のやり方、つまり運用の仕方だったのではないでしょうか」と答えている。これには考えさせられた。「問題は、制度ではなく、運用」、これは人事系コンサルタントの弁解そのものではないか。運用を担保できない制度を導入するってことは、塩田にタネをまくようなものではないか。土壌を改良しないままにタネをまくこと、あるいは、そのタネが土壌を改良しきれないかもしれないのにタネをまくこと、これが人事系コンサルタントの大きな仕事のひとつではないのか。

2001.03.10
 今日は夜のサッカー観戦。寒かった。

2001.03.09
 「噂の眞相」4月号をパラパラと読む。この雑誌のスキャンダリズムはおもしろくてほぼ毎号読んでいるけど、これまで島田雅彦についてはさんざんオチョクっていたのを、島田雅彦がその最新作で雅子妃をモデルにしたりと天皇制に切り込んでいるということだけで見直しちゃったりして、こんなのは評論でも何でもなく、つまらない。天皇制に対する態度が肯定的か否定的かということと、その作家なり作品なりの評価とはまったく別の問題ではないか。たとえば、作家の誰それが在日朝鮮人だからその作品を高く評価するとか、林◯理子がブ◯だからその作品を低く評価するとか、それと同じことで、単に党派的な好き嫌いのレベルであろう。もっとも、林◯理子については、ブ◯だからその作品を低く評価してもかまわないかもしれないが、ほとんど読んだことがないので詳細は不明。とはいっても、天皇制への態度を旗幟鮮明にするってことは、それが特に否定的批判的なものである場合には、当然のことながら相当の覚悟がいることは間違いないので、その点にかぎってみれば、島田雅彦の冒険(まさしく、危険を冒す)は一定の評価はできるだろうし、応援してみてもいいかもしれない。でも、その小説がいいか悪いか、おもしろいかつまらないかは別であろう。なんて、読んでもいないのに書いてしまった……。「日経NetBrain」の最新号もパラパラ。なんか、スカスカだなあ。経済時事的コラムも玉石混交、どういう来歴の人がどういう立場で書いてるのかが分からないものもある。オンライン・ブックストア「bk1」で田口ランディと山形浩生のブックガイドを見る。田口はともかく、山形のほうはフムフムであった。電車の中で化粧しているギャルを見て、「恥を知らない」すなわち「脳が未発達?」とする本を、そうしたギャルが化粧するのは、彼女の世界での「恥」をわきまえているからに他ならず、その本が言ってることは、誰かの「恥」と別の誰かの「恥」は違うということをわきまえていないための愚論だと批判する。確かにそうだよなあ。電車の中で化粧することはどうかと思うけど、それをとらえて「躾がなっていないために脳がきちんと成長していないせいだ」なんてレッテル貼りする、その単純さというか愚直さだって「恥ずかしい」ことかもしれないよなあ。まあ、これだけでは山形サンの主張の是非は分からないので、その近作「山形道場」でも読んでみよう。もちろん、リアルな書店で買うけど。

2001.03.08
 いつだったか、週刊誌の書評欄で、某小説家が他の小説家の本を書評する際に、オビ文の解説から書き起こしていて、これって書評としてはどうなのかなあ? と思ったことがあるが、オビ文にそそのかされてついつい買ってしまうということは実際よくあることでもあり、今日も「確定申告で損しない! 節税対策のバイブル!!」というオビの惹起文を見て、「税の世界の裏のウラ」(学研M文庫)を購入、早速、読んでみた。ところが、確定申告とか節税対策とかいうよりも、むしろ、税理士の生態、税理士の実態、税理士の主張、税理士の提言、といった内容で、ちょっと拍子抜けした。かといって、決して羊頭狗肉ではなく、いわば羊頭豚肉みたいな感じで、税理士といってもいろいろな人がいるよ、とか、こんな相談を持ちかけられても困るよ、とか、税務調査が入ったらこういうふうに対応しよう、とか、それなりに興味深いものであった。最後のほうに書かれていることで、課税基準が「通達」一本でガラリと変わってしまうことに対する苦言なんかは共感できるものであった。なかなか知りえない世界のことでもあり、スイスイ読了。

2001.03.07
 1963年生まれ、重松清、ほぼ同世代の作家なので、どんなもんだろうと手にとってみた「ナイフ」(だったかな?)、石神井池のワニ騒動をからめてイジメとしての「シカト」を題材にした冒頭の短編で、まるっきり没入できず、その短編すら読みとおせずに投げ出してしまった。それならば、と、「直木賞受賞後第1作」であり「著者初のノン・フィクション」でもある「隣人」を図書館で借りてきた。これも「読み物作家」の「寄り道」や「無駄足」になかなかついていけず、呻吟しながらようやっと読破した。これ、面白いのだろうか? ともあれ、ノン・フィクションあるいはルポルタージュとしてならば、Iターンして椎茸栽培に乗り出すものの自殺してしまった話とか、日産村山工場閉鎖の話とか、和歌山ヒ素カレー事件のその後の話など、現場を歩くだけでなく、現地の人の肉声を紹介しているものについては抵抗なく読めた。しかし、現場を歩くとはいうものの、事件を読み解くのに中上健二や坂口安吾を引いてくるだけの、池袋通り魔事件や柏崎監禁事件などは、非常に読みにくかった。事件を報道する雑誌のタイトルを引っ張ってきたり、新聞記事のデータベースを利用したり、そしていろいろな小説を引用してみたり、それはそれで「読み物」を構築する際のテクニックとしては「あり」だろうが、そうした素材をあれこれ関連づけて思考を展開させ、そうして「読み物」にしていく、その肝心の“流れ”に関しては、どうもリズム感というか、波長が合わなかった。もっとも、こちらの読み手としての才能がスカスカなせいもあるだろうが……というよりも、単純に忍耐力がなくなったせいか。ただ、いささかながらもワクワク感が訪れたのは「nowhere man」。ラストのオチは秀逸で、アイロニーというか、ブラックユーモアというか、そんなスパイスが利いていた。

2001.03.06
 クルマについては、ほぼ完璧な門外漢である。年に1〜2回ハンドルを握るだけのペーパードライバーで、メーカーだろうが車種だろうが何も分からないし、何も知らないといってよい。それでも、メーカーには、それなりのイメージを持っていた。というか、門外漢だからこその偏見を持っていた。エンジン、スピード、デザイン、乗り心地、これらは、日産やホンダ、マツダといったメーカーのクルマにかぎる、そんな偏見だ。そして、今や我が国トップ企業、世界に太刀打ちできる数少ない企業としてのトヨタについては、エンジン、スピード、デザイン、乗り心地などのクルマ自体の魅力よりも、地縁血縁クサレ縁を総動員した販売力とか、例の「カンバン方式」とか、そういう企業の「仕組み」の面で強烈なイメージを抱いていた。それが、日産やマツダなどが外資の軍門に下り、もはやトヨタに対抗するべくもなくなって、販売力や「カンバン方式」に負けちゃったのかなあ、なんて嘆息していたところ、いつのまにやら、トヨタこそがエンジン、スピード、デザイン、乗り心地などのクルマ自体の魅力だけでなく、環境技術や未来型車種の開発など、ほとんどすべての面でリーディングカンパニーになりおおせた、そんな気がする、門外漢として……。クルマのことはさておいて、今週の週刊現代の巻頭に、日経連会長でもある奥田トヨタ自動車会長の「直言」が載っている。「部下に聞いたところ、共産党の志位委員長が光っているそうだ」などとオチャラケつつ、日本経済の再生のためには政治家のリーダーシップが問われている、などなど、いろいろと「直言」をするのだが、最も共感できるのは、「私は経営者はあらゆる努力を払って、会社の財産をはたいてでも雇用の確保に全力を注ぐべきだと思う。それが経営者の責任。リストラを大義名分に従業員のクビを切るようなことをするなら、その前に経営者が責任をとって辞めるべきです」と断言するところである。温情主義・家族主義といってしまえばそれまでだが、能力主義やら実力主義やらもっともらしい御旗を立てて、従業員を裏切るあるいは従業員を使い捨てる経営者がのさばる中で、これは「見識」と言えよう。まあ、温情主義でも実力主義でも、雇用確保でも使い捨てでも、要は経営者の考え方ひとつであり、どっちを選ぼうとそれは経営者の自由なのだが、その自由な選択にともなうはずの責任の果たし方の面で「ハテナ?」と思わせる経営者があまりにも多いのではないだろうか。その意味で、奥田会長の「直言」はしごく「真っ当」であろう。ただ、その発言の背後には、超一流企業のトップとしての余裕と経営者団体のトップとしての立場があることは忘れてはならない。意地悪くいえば、トヨタ本体はともかく、関連会社や取引会社までそうした考えを貫けるわけではないだろうし、10年後20年後のトヨタの会長が同じ「直言」をすることができるかどうかもわからない。あくまで、「今だから」こそ言える「直言」なのだ。でも、そうしたことを割り引いたとしても、やはり、奥田会長のように、「真っ当」なセンスで言うべきことを言う、そんな経営者が増えてほしいものである。ところで、「奥田・志位」対談なんて、やってみれば面白いだろうに。「立場を超えて直言する」みたいな……まあ無理か……それに、あまり面白くないかも……。

2001.03.05
 つい先日、書店の雑誌コーナーで、宣伝会議が出してる「編集会議」の創刊号をパラパラとめくってみた。冒頭でいきなり「林真理子と担当編集者たち」みたいな特集があって、これにはのけぞってしまった。林真理子を中心にした集合写真を見せられて、買うのを止めた。だって、「花に集う蜜蜂たち」というより、「◯◯にたかる◯◯ども」って感じですもんねえ。見出しを見るかぎりでは他の記事もつまらなさそうだったし。それにひきかえ(まあ、ひきかえるようなものでもないが)、「Title」(文藝春秋)の雑誌特集はおもしろかった。何日か前に「SPA!」と「週刊宝島」と「週刊プレイボーイ」の関係についてここで書いたけど、それとそっくり同じようなことを信長サンとかいうライターが書いていた。もちろん信長サンはもっと広い目線を持っていて、いろいろな分野の雑誌の消長とか、専門誌の紹介とかをやっており、なかなか参考に(?)なった。団鬼六&中村うさぎの対談や、山崎浩一の回想モノ、「裏原系雑誌」の裏事情ものなど、そして、さすがにモデルさんをきれいに写すグラビアとか、あれこれ満載されていて、コストパフォーマンスの高い一冊であった。

2001.03.04
 田中康夫が長野県知事に当選したことを知ったとき、連れ合いが「いいなあ、長野県に住みたいなあ」とつぶやいた。幼少のころ、小諸市に住んだことがあるので、それなりに思うところがあったのかもしれない。しかし、長野とは縁もゆかりもない私も、きわめて同感であった。いや、石原慎太郎が最悪とは言わないし、何も変えないヤツよりは見てて楽しいとはいえ、要はマッチョでしょ、あの人は……「三国人」なんて発言をみてもお里が知れるわけだし……というわけで、遅ればせながら、田中康夫&浅田彰の対談集「新・憂国呆談」を読んだ。いやあ、面白い。面白すぎる。文壇から政治から経済からガングロまで、世にはびこる健忘症、無恥、居直り開き直り、思い上がり、傲慢、萎縮、夜郎自大、カン違いなどなどを片っ端からバッサバッサと切り捨てる……もっとも、ガングロに関しては逆説的に一定の評価をしてるけど……でも、これじゃ確かに敵は多くなるよなあ。ああいうのこそ「社会の木鐸」だと思うけど、きわめて「真っ当」すぎるってのは、論敵、というより感情的な敵を大量生産するだろうことは容易に想像できる。そういう意味では、あっちこっちで言われていることだけど、八十二銀行の頭取とか平安堂の社長とか商工会議所副会頭とかの英断は、称えても称えすぎということはないだろう。もっとも、週刊朝日の猪瀬直樹&林真理子の対談で、猪瀬が「オレのところにも知事選出馬の話はきた」と暴露していた。猪瀬は、いささか自己解説臭さが鼻につくとはいえ、週刊文春の連載を読むかぎりではそこそこ「真っ当」かもしれない。しかし、猪瀬では、どうしても陰鬱たるイメージが先行するだろうし、田中康夫ほどの「明るさ」のカケラもないから、当選したかどうかははなはだ疑問で、結果的に長野経済界の重鎮の方々は良い選択をしたことになるだろう。さて、いくら世論調査で90%の支持率があったとしても、田中知事の今後は決して平坦ではあるまい。守旧派が一掃されたわけではないし、田中を支持する人たちだって一枚岩ではないからだ。田中知事の打ち出す政策が、ことごとく潰されることはないまでも、制限されたり、妥協を強いられたりはするだろう。でも、「長野県議会の最長老」なんてオジイサンはともかくとして、守旧派の中にだって利に敏い人もいれば知に聡い人もいるだろう。変に意固地になったら道化になってしまう、ここは冷静にきちんと実利を得ようと判断する人だっているだろう。そうした人の中には、決して田中知事の人気にあやかるなんてことではなく、いわゆる「是々非々」で、「田中康夫がそう来るならこっちはこう出てやろう」っていう知恵者もいるだろう。そして、そこに生じる政治的対立を政治的アウフヘーベンに変えるために、長野県民が、参画し、監視し、行動すれば、長野は確実に変わっていくだろう。少なくとも、田中知事の出現は、誰でも何でも発言できる風通しのよさ、ガラス張りの見通しのよさを打ち出しただけでも価値がある。将来、田中に替わって知事になる人物は、そうした土壌の上に立つことを必然的に求められるだろうからだ。そして、長野以外でも、そういう空気が無視できないものになっていけばいい。でもホント、長野県に住みたいなあ……。

2001.03.03
 昨日はまず、葛飾税務署に確定申告に赴く。午前中ということもあってかガラガラで、ほとんど待つこともなく提出。税務署員もイチャモンつけるそぶりも見せず、であった。まあ、無職だし、脱税するだけの余地もまるでないからね。そのまま飯田橋ハローワークへ。途中、都営地下鉄大江戸線を利用したのだが、蔵前駅で乗り換えようとすると、都営地下鉄から都営地下鉄なのに、これがつながってないんですねえ。なんと、地上に出て300メートルほども歩き、大通りを渡らないと乗り換えられない。何だか騙されたような気がする。ハローワークでしばらく求人票を検索する。何件かプリントアウトして水道橋旭屋書店へ。この書店はいい。基本的には大型書店だが、広すぎず狭すぎず、それでいてキチンと品ぞろえをしている。三省堂本店とか池袋旭屋とか八重洲BCとかだと、通いつめて店(フロア)に馴染まないとどこがどうやら分からない。水道橋旭屋くらいの店鋪で、なおかつひととおり揃えている、これがちょうどいいのではないか。
 中村靖彦「農林族」(文春新書)を読んだ。これは面白かった。農業政策系のジャーナリストとして、かつまた農産物価格審議会の委員として、取材や体験をもとに農業政策といわゆる農林族との関わりを描写したものだが、これまで何が問題で、今現在とこれから何が問題なのかがスンナリと腑に落ちてくる。最も興味深かったのは、著者がタバコの価格を審議する審議会の委員として体験したことに関するエピソードだ。その審議会は、他の農産物価格に関する審議会がことごとく骨抜きにされていく中で、最後まで価格決定に主体性を持っていたのだが、農林族からあれやこれやの圧力があり、いつのまにか政府と農林族が事前に協議して決めた価格を追認するだけの場に堕してしまったという。とある議員が審議委員に対し、「あなた方の経歴を調べさせていただいたよ」などと圧力をかけてきたそうで、「何でもあり」を如実に示している。さて、去年の総選挙の大きな特徴のひとつは、都市と農村の色分けが鮮明になったことだった。自民党が農村部では圧倒的な強さを見せたが、都市部ではほとんど壊滅状態に近かった。しかし、さらにつぶさに見れば、現職の農水相が落選し、元職も2人ほど、また農水省出身官僚新人候補も多く落選したことが、地核変動とまではいかなくとも、緩やかながらも何かが変わりつつあることを示している。端的にいえば、農協を始めとした農業団体の底力が低下してきているのである。そうしたことを著者は、農林系の政治家と農家(農業団体)との関係をもとに、米価、公共事業、補助金、構造改革などのキーワードに沿って浮きぼりにしていく。農産物価格について見れば、ついこの間までは農業団体の意向にそった形で価格が決められていたのだが、現在では市場でほぼ自由に価格が形成されるようになっている。そうなると、直接的に農産物価格の面で農林族が力を見せつけるわけにはいかない。そこでどうするかというと、農家への所得補償とか補助金とかになってくるわけだ。しかし、公共事業の見直しや財政の危機、あるいは都市と農村の利害の乖離など、環境は大きく変化しているし、また、農家自体が減少傾向にあり、従来の「票と金」の相関関係が成立しづらくなってきている。こういうことをふまえた上で、たとえば有明海のノリの不作問題なんかを考えると、単純に諌早湾干拓事業だけの問題ではないことが理解できるのだ。ニュースステーションでやっていたが、九州選出の松岡某議員は、諌早湾干拓事業推進派の急先鋒だった。ところが、有明海のノリ問題が持ち上がると、手のひらを返したように、ヌケヌケと水門開放に言及する。まあ、松岡某議員なんて、農林族の最悪の例のひとつなのだろうが、著者は、こういうことが農家にとって、また都市部を中心とした消費者にとって、要するに日本の「農政」にとって、本当にいいことなのだろうか?……そんな問題提起をするのである。

2001.03.02
 午前1時、こんな時間にキムチと鰺フライ、エノキと豆腐の味噌汁で御飯を食べているのもオツなものだ。ヘアヌード&あなたのオッパイ見せてください路線から水着グラビアのみに転換してから1年ほど経って、週刊宝島は、最近さらに変化しつつあり、タイアップ記事&物欲の雑誌になってしまっている。以前は読み物もそこそこ充実していたのだが、今やVOW(そして杉作J太郎)くらいしか見るべきところがなくなってしまった。そのVOWも、何やら「独立?」するとかしないとかで、どうなってしまうのだろう、週刊宝島は? かつて、週刊宝島がリニューアルする際に、週刊プレイボーイが「エール」を送っていたが、元気があるかどうかはともかく、地道に一貫した誌面づくりをしている週プレのほうが生きながらえるのだろうか。両誌とライバル関係にはないにしても、たまたまここんとこ2週続けて読んでいる週刊SPA!、特集記事の切り口もそうだし、四方田犬彦や田中康夫や福田和也なんて連載陣もそうだし、その読みごたえたるや(こちらの嗜好もあるにせよ)さすがであり、そういうのに比べてみると、週刊宝島は、どうも破綻しつつあるのではないのか? どうでもいいことであるが。ライバル誌といえば、週刊文春が週刊新潮の見出しを揶揄?していたのが面白い。確かに、週刊新潮は、その見出しの付け方にもあるとおり、何というか、いやしくさもしい感じがして、それも記事自体がそう思える。実際、週刊文春のほうがはるかに読みごたえがある。こういう格差はどうしてできてしまうのだろうか? さて、その週刊文春の猪瀬直樹の連載で、建設業関連の資格が取り上げられていた。施工監理技士とかいう「スキルもの」の資格で、猪瀬氏の論点は、わけのわからない公益法人をつくり、そこがその資格試験を取り仕切り、受験料なんかを徴収する、その金額がけっこうな額で、しかもどういうふうに使われているのか不明朗、こんなもの、本当に必要なのか? ということだった。思い当たることがあって、以前にいた会社は「建設業経理事務士検定試験問題集」なるものを発行していたが、これもやはり建設業関連の公益法人が取り仕切るものだった。特殊な勘定科目があるとはいえ、建設業の経理だって原理は通常の経理と同じであり、資格があろうがなかろうが、経理事務に習熟している人材がいればいいはずである。ところが、抜け目のないことには、この試験の1級や2級に合格した「建設業経理事務士」がいると、それが経営事項審査の評点に加算される。要するに、「従業員に試験を受けさせるといいよ、だって合格すると経営事項審査にプラスになって、公共事業の入札参加に有利になるよ、従業員の能力開発と会社のランクアップで一石二鳥なんだからこんなにいい話はないよ、ドシドシ受けさせなよ」ってことなのだ。うまいもんである。余談だが、そういう公益法人にすり寄って、問題集の発行や通信教育の開講、講師派遣なんぞを商売にする民間業者も現れる。そういう商売をするための公式のライセンスがあるわけではないが、かといってどの民間業者でも参入できるわけではない、そんな閉じた世界があるのである。そこにも官民癒着の芽が出ることになる。

2001.03.01
 とうとう2月はノン・アルコールで通した。キツクはなかった。アルコールなしの日々はかなり味気ないものだったが、そんなのはこのクソ頭の中だけの話で、そこだけで完結しているわけだから大したことではない。ここまでくると、逆に、いつ飲もうかな? どういうときに解禁しようかな? なんて、おぞましくも微笑ましい楽しみが生まれる。ホント、いつにしようかな……飲むのはやはりビール、というか発泡酒、ASAHI本生かな?
 ようやく「猫のエイズ」を読了。最初のころはカッタルイ感じだったけど、そもそも免疫不全ウィルスとは? ってあたりから面白くなってきて、たちまち最終章へ。そこで2つ3つの「FIVに感染したネコと飼い主」のイイ話にしんみりほんのり面映くも感動しさえした。さて、同書の論点はいろいろあるが、参考になったのは、猫にFIV(猫免疫不全ウィルス)が感染するルートには、やはり人為的なものが関わっているということで、分かりやすいのがイリオモテヤマネコとツシマヤマネコの感染率の差である。どちらも絶滅危惧種で、基本的には人里離れた山中で野生のまま生活しているのだが、FIVに感染したイリオモテヤマネコの報告例はないのに対し、ツシマヤマネコは、野生種としては相当な感染率であるという。これは、そのテリトリー内でイエネコ(ノラネコ)と取っ組み合いをした結果だと考えられる(FIVは感染力が弱く、血が出るような諍いをしないかぎり感染しない)。イリオモテヤマネコは人間にもイエネコにも遭遇しないようなところに生息しているので、FIVに感染する可能性がきわめて少ない。ところが、対馬では、一方で、イエネコ(ノラネコ)が増加しており、それがFIVに感染している率が高い、他方で、開発によってツシマヤマネコの生息地が減少し、餌を求めてしばしば人里におりてくると考えられ、そこでイエネコ(ノラネコ)と縄張り争いをしてFIVに感染してしまう……要するに「生態系の破壊」によって、FIVがその感染範囲を広げていることになるわけだ。ところで、FIVも、HIVと同じように、感染直後は風邪のような症状を1〜2カ月ひき起こすが、その後はひっそりとなりを潜めたようになる。猫の個体によって、あるいは、生活状況によって異なるが、その「安定期?」はおよそ4〜5年とされる。通常、外ネコの命は4年程度なので、猫エイズになる前に天寿を全うすることも少なくないという。ただし、飼いネコの場合、感染が判明したら、できるだけ室内だけで飼うようにするほうがいい。それは、他のネコに感染させないためでもあり、また、そのネコが他の病原にさらされないようにするためである。ただ、それまで自由に外を徘徊していたネコは、己のテリトリーを作っており、そこを見回ることが日課となっている。だから、急に出歩くことを禁じられると大きなストレスに見舞われる。このストレスも、免疫力の低下、日和見感染や二次感染による発病、あるいは悪性腫瘍の発生の大きな要因となる。そこで、どうしたらいいか? ひとつの解決方法は、いっそのこと、ネコも連れて引っ越してしまうことだという。そうすれば、見知らぬ場所にネコは怖じ気付き、出歩かなくてもすむようになる。まあ、ネコを愛しているなら、そこまでやることも時には必要だ、ということである。FIVに感染しようがしまいが、また、猫エイズになろうがなるまいが、愛するネコは愛する、というか、その猫のQOLを最後まで維持してあげる、そういう飼い主の姿勢が望まれると著者は言う。それは、人間でも同じこと、なのかな、だと思うんだけど……。


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