荘子曰く 生も死も

我らは天によって人の形を得、生を授かったのだ。
ならば天によって死を授かり、人の形を失うも恐れることではない。
(私訳)
 鋳物師が銅を溶かして鐘を作っている時に、銅が「俺は名剣になりたい」といったらどうだろうか?
 鋳物師は起こるに違いない。

 我々はたまたま人の形を天より授かったのだけなのに、「俺はずっと人間でいたい」などと言う輩はこの銅と 同じである。人として生まれたことを良しとするならば、死して土に返ることもまた良しとすべきであると荘子は言う。
 銅にとっての鋳物師は人間にとって天(神)であり、鋳型はその意思ということになる。

 ちなみに原典を訳すると次のようになる。

我々は天から人間としての形を与えられ、生を負うて苦しみ、老いを迎えて安らぎ、死を得て憩いにつく。
生を自然の理法として肯定するならば、死もまた肯定しなければならない。

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