日本の教育を考える〜学力低下を促すものに対する投稿
陽圓喜さんのご意見
 極端に学力レベルの異なる生徒が同じ教室で同じ授業を受けることはまったくもって, 無理があります。偏差値の感覚はまだお持ちでしょうから偏差値でいいますと,上下差5程度に収め たいところです。10でギリギリ,15もあるとかなりの教師の技量が必要で,さらにそれ以上にな ると,一斉授業は成立しません。

 どうしても学力の低い生徒に授業を合わせがちになる、という件に関しては耐久力の 問題もあります。より上位レベルの生徒ほど自分のペースを調節でき,下位レベルの生徒は 途端にふてくされます。
 問題行動をとるのは,常に下位グループであるため,問題を避けるために致し方なく, 学力の低い生徒に授業を合わせがちになる。
 不適切な表現かもしれませんが,弱者救済のために弱者を強くする方法を採らずに, 周りを弱くしてしまう方法を採ってしまっている。その方が簡単ですからね。
 たしか「頭の体操」にこんなのがありました。「ある男が悪魔に,『自分の車を世界で一番速 くしてくれ』と頼みます。悪魔は了承したのですが,その男の車のスピードは以前のまま。 悪魔は約束を守らなかったのか」というものです。
 答えは,そう,他の車のスピードを下げてしまったのです。いままで 文部省が行ってきた制度改革は,この悪魔と同じ方法ばかりです。 何とかしなければならないから,何とかしただけなのです。

 学力による競争化社会に問題がある。だからその学力にメスを入れる。そうじゃない! 学力ばかりが競争になるのが,問題なのに。

 個人主義に走り過ぎているのも,要因のひとつと考えます。 「因数分解なんかできなくても生きていける」(なんか,よく 因数分解が引き合いに出されますね。)のセリフ。
 今生きている人の中で,これができるのはごく一部ですから,その点では嘘ではない。
 しかし,誰も因数分解ができなくなっては,それこそ,誰も生きていけなくなってしまいます。
 するとこう言う。ならば,できる人だけがやれば良いと。できるかできないかなど, やってみなくてはわからないことなのに。訓練を続ければ,できるようになることなのに。 訓練することを放棄している。また,その放棄を認めようとしている。
 社会にとって必要な知識だから,社会が与えているわけです。 個人にとって必要云々では,職人養成機関になってしまう恐れがある。 それこそ,時代に逆行です。

 学校は学問を修める場です。何でも教育する場ではない。学問を修める場なのだから, 「学科至上主義」でなくて,どうするんですか。「学科至上主義」大いに結構。
 学問以外を教育する必要が出てきたのならば,それ専門の教育機関を作ればいい。 学校の先生は,オールマイティではない。学問も教えられ,生活指導もでき,カウンセリングも でき,部活動もでき……。そこまで要求される先生。授業がいい加減なものになって当たり前です。
 学力低下を促したもの,それは,学校に何でも押し付けてしまったことです。それが最大の原因。


管理人より
 度重なるご意見、ありがとうございます。非常に鋭利な刃物で切り口を切ったような内容に 感服いたしました。
 今後も忌憚のないご意見や反論をお聞かせください。

 まず初めのほうで組織とは非常に難しいものであるということを陽圓喜さんは指摘されました。
 下位(便宜的に使用していますが、正しい表現であるかは議論の余地アリ)数パーセントは自分達の 存在意義を認められずに(また認めてもらえずに)ふてくされてしまいます。付け加えるならば上位 数パーセントはエリート風に吹かされて奢り高ぶり、時として超法的な行為に出るものだと私は 考えています。よく組織は頭から腐ると申しますしね。

 いずれにしても学力偏重で問題になるのは上位・下位という枠組みがいとも簡単に作られてしまう ことです。自分の価値が数値で評価されたら逃げ隠れができません。
 学力はその人間の一要素に過ぎない、というコンセンサスが社会的にもってあるべきだと私は 考えています。例えば、勉強は嫌いで駄目だけど、スポーツは得意だとか、性格は温和で人の世話を するのが好きだとか、数値化できない人間の価値を評価することで、偏差値による単純な上位・下位 という枠組みから学生は開放されると思うんですよ。

 ただ間違ってはいけないのは、陽圓喜さんもご指摘のとおり、性格などの学力以外の要素で 学科の成績を評価するようなやり方には大いに疑問があります。
 例えば性格がよくて偏差値50の人が内申書の加点によって偏差値60の学校に入学できてしまいます。 これが現在のシステムです
 でも、学科を教える学校(授業のカリキュラムを見てください!!)からすれば、これは明らかに間違い です。まさに陽圓喜さんが言った悪魔と同じことをしなくてはいけなくなる。 卒業するころにはみんなの学力が平均化されて、偏差値60で入った生徒は偏差値55位になって しまうかもしれない。
 これは間違った平等主義であり個性を伸ばす教育ではない。

 私はこう考えます。学力の高い生徒は学力が高くなくては入れない学校へ進めばいい。そこで しっかり勉強してもらって社会にその知識を還元していただきたい。
 スポーツが得意な生徒はスポーツの名門に進めばいい。そこでスポーツに磨きをかけ、時には プロになって社会の人々を楽しませるという社会への還元をしてほしい。
 性格が優しくて世話好きの人は、例えば看護関係に進んで弱者を手助けすることで社会に 貢献してほしい。

 当然のことと言えばそれまでなのですが、しかし今の受験システム・社会の意識はそうはなっていない。
 性格がいいから(内申書がいいから)よい高校・大学に行かせてあげよう、中卒・高卒ではハクが つかないからとりあえず大学(しかもできるだけ知名度のある)に行きなさい、というのである。
 これでは目的意識も希薄だから、受験戦争のゴールとも言える大学まで進むと、これみのがしに 学生達は遊び始め、高校までは世界でトップレベルだった学力は大学では二流国に成り下がってしまう。
 これが平等な教育だろうか?

 個性を全く無視して、偏差値の高い学校に行くことがよいこと、とされてしまう意識が最大の 問題だと私は思います。


 人間性を受験に持ち込んで内申書で下駄を履かせてあげるという、 一見すると学力偏重主義から脱却したような考え方も、結局はよい大学に行かせるための、 つまりよい学歴を得るための手段に過ぎない
という点では、なんら問題の解決になっていない。

 また学校に道徳や生徒のカウンセリングを求めるのは親のエゴ(または教育怠慢・拒否)だと 思います。一昔前はそれを家庭でやっていた。だから学生が凶悪な犯罪に手を染めることも 今と比べ物にならないほど少なかったし、学校の先生も責められることがなかった。 「お前の親はどういう教育をしてきたんだ!」と言われることはあっても「大学で何を学んで きたんだ!」とは言われなかった。
 しかし核家族化と共働き化で道徳などの教育まで「同じ教育」という言葉のもと、学校に 求められるようになった。
 いじめを見てみぬ振りする教師など確かに学校側が変わった一面もあるが、教育を考える場合、 家庭環境の変化が生み出した歪みも見過ごしてはいけないと強く感じております。

 陽圓喜さん、ご投稿ありがとうございました。


 蛇足ですが、筆者、理系で大学院まで出ている上、学生の時は家庭教師のアルバイトをしていたため、 今でも因数分解朝飯前です(^^)。社会人になってから全然使っていませんが、微分積分は 未だにいい気分で解けますしね。
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