日本の教育を考える〜社会科編に対する投稿
珊瑚さんのご意見
 本コラムの「政治が三流」は使って欲しくないキーワードです。たてまえでも我が国は主権在民です。
 ということは、政治の最終決定権は国民にあることになってます。
 そこで、政治が三流ということは、国民が三流ということに他なりません。

 このキーワードが登場してきたとき、バカだといわれている本人達は、 拍手をする人すらいました。
 誰がバカといわれているのか気がつかないまま、政治家を非難するキーワード として使った悲しい現実がありました。

 こうした現実がある以上、誰が賢くならなければならないのかからの教育が必要なのでは?


管理人より
 度々貴重なご意見をお送りいただきありがとうございます。
 今後も忌憚のないご意見や反論をお聞かせください。

 さて、珊瑚さんの言われる通り日本の主権者は国民であり、「政治三流国」とはつまり国民を愚弄する言葉ではないか という意見に、私はハッとしました。同時に珊瑚さん自身が言われるように「たてまえでも」主権在民と言わねば ならない現実は、やはり一流とは言えないのではと改めて感じもしました。

 私は日本の政治三流国とは「政治システムが三流である」ことだと認識しています。その結果、国民の政治に対する 関心もまた低いところに抑えられていると。
 細川政権が樹立したとき、ある自民党の政治家がこんなことを漏らしたことを覚えています。
執行部の最大の失策は、国民に政治への関心を持たせてしまったことだ
 なんとも不謹慎な言葉ではありますが、なぜか軽く聞き流されてしまいました。
 ただ、為政者から見るかぎり、国民をできる限り政治から遠ざけておいた方が好き勝手な事ができるというのは満更嘘でも なさそうですし、そう考えると社会科で公民が重要視されていないことも納得できます(多少うがった意見ではあります が……)

 また、社会システムの違いもあるでしょう。
 例えば、キリスト教国の欧米では日曜日に教会へ行く習慣があります。そこでは同じ宗教を信じる者同士ある種の連帯感があり、 見ず知らずの人とでも社会情勢を話し合う社交の場になっています。
 これが、少なくとも市町村レベルの政治であれば動かす力を持っているし、市民もまた日常的に政治参加が出来る訳です。
 しかし、これが日本では存在しない。政治に対して不満をもっていても話を持っていく場所がないため、グチを言って終わっ てしまうわけです。

 実は筆者、どうにか日本版教会(もちろん宗教色はありませんよ)なるものを作れないかと以前より考えていますが(これは 住民自治・地方分権に関わる)、今のところよい案が思いつきません。何かありましたらご一報を。

 今回、珊瑚さんから指摘のあった「政治三流国」というキーワードについては、使う時に注意が必要だという 新たな発見がありました。
 是非、また感想をお聞かせください。お待ちしております。

戻る