本日の御題:神は悪魔より多くの人を殺す |
◆神ゼウスは悪魔サタンより多くの人を殺したらしい 旧約聖書だかギリシャ神話だかに書かれている内容が正しければ、魔王サタンが殺した人間は僅か数人らしい。 さて、我ら人類が恐れるべきは、神か悪魔か? こんなコラムをつい書きたくなってしまったのは、他でもない超大国アメリカとビンラディンに象徴されるイスラム過激派の仁義なき戦いのニュースに、ため息がでてしまうからだ。 ビンラディンがアメリカに敵意を抱くようになったのは、イラクがクエートに侵攻した際、サウジアラビアにアメリカ軍が駐留したことが始まりだという。ビンラディンにとって、それは他宗教の軍(キリスト教徒)がイスラムの地に足を踏み入れたことを意味し、許し難いことだったのだ。 しかし、この感覚は多くの日本人にとって理解出来ないことではないだろうか? 私自身、全く理解出来ない。 少なくとも当時のアメリカ軍は、クエートを侵略しようとしたわけでも、サウジアラビアを攻撃しようとしたわけでもなく、サウジアラビアにあるイスラム教の聖地に軍を進めたわけでもない。サウジアラビアの一都市に駐留しただけだ。しかも、サウジアラビアからの要請によって。 しかも、アラブ諸国という意味では同胞であるはずのクエートを攻撃したイラクへの攻撃だったはずだ。私からすると、イラクは同胞を攻撃した裏切り者であり、それを撃退したアメリカの戦いには正当性がある。 ビン・ラディンはアメリカの力を借りなくてもサウジアラビアを守ることはできると主張したようだが、もしアメリカが参戦せずアラブ諸国のみでイラクをクェートから追い出そうとしたならば、数多の命が犠牲になったのではないだろうか?いや、それだけではない。当時100万人と言われたイラク軍を倒すには長い年月が必要であり、それはそのまま国民生活の疲弊を招く。 ちなみに、一度停戦した後、大量破壊兵器を隠し持っているという因縁をつけてイラクを攻撃したアメリカの行動を支持しないというのであれば十分理解できるし共感もできる。 そしてもうひとつの疑問。他国の軍が自国の領土に駐留するのは気持ちのいいことではないが、自国民を殺したわけでもないのに、なぜそこまで憎むことができるのかという点。それが「異教徒の軍」だからというならば、なぜ異教徒をそこまで憎まなければならないのか、理解ができない。 サウジアラビアは敬虔なイスラム教徒が多く、ビンラディンはその中でも熱心だったと言われているが、私に言わせれば、彼らは同胞の命(この世での)を軽視しすぎているように見えてならない。 自爆テロ然りだが、神を信じることが、その者の命の重さを軽くするというのは、まさに文頭の話を彷彿させないだろうか? 信じる神が違えば、正義も違う。神の名の下に行われる人殺しは、悪魔に取り憑かれたのような猟奇的殺人・犯罪よりも、多くの人間を殺してしまうのではないか?、と私は感じてならない。 ◆神は絶対 家が違えば日常の習慣は異なり、民族が違えば言葉が異なり、土地が違えば肌の色も髪も色も異なる。同じ地に住む1個の人間でさえも、年月が移れば価値観も変わる。 にも関わらず、宗教は信者に「絶対」と信じさせるものだ。正しさは一つであり、それ以外は間違いだという。時代が隔たっても、異なる日常を送っている者でも、全てにおいて、神の言葉、教えは変わることなく絶対な存在なのだ。 それは何もイスラム教に限ったことではない。断っておくが、私は特定の宗教に敵意を抱いているわけではない。全ての宗教に疑問を抱いているだけである。 物事は全て流転する。人類が得る知識も時代によって移り変わる。であるにも関わらず、価値観が数千年前と変わらずにいるというのは、私にとってはとても不自然なことなのだ。 そもそも、神の言葉は絶対ではない。 たとえば、キリスト教が天動説を唱えたように、神の代行者であるはずの人間の知識は、その時代の人知を超えることはできない。 「信じることで救われる」という人もいる。しかしそれは人間のエゴというものだ。 人でさえも、生まれたばかりの子供は、神の言葉を聞くことも、理解することもできないわけだから、彼らの理論に則れば、やはり天国には行けないことになる。 そもそも、神が自らの代理人として、特定の人をこの世に産み落としたというならば、その人が生まれる前に 生まれた者は皆地獄に落ちたということになる。神はそれほど無慈悲で身勝手な存在なのだろうか? もし万物を作った者を神というならば、この世に生まれ出た全てのものは、動物であれ植物であれ、 石ころに至るまで、知能を持ちうが持ちまいが、全て生まれながらにして存在自体が神の子と呼ぶに相応しいのではないのか? ◆絶対という存在は、思考を停止させる 「お祈りをしたいのならば、何も町中に出るのではなく、信者の人たちだけで手を握りあえばいいのではないですか?」 すると彼女はこう答えた。 「信者の人の手では効果がないのです」 そこで私はまた質問した。 「であるならば、あなた方の信仰は全世界に広まってはいけませんね」 不思議そうな顔の彼女に私続けた。 「その論理が正しいならば、もしあなたの信じる宗教を全世界の人が信じたとき、誰も幸せになれなくなる」 彼女はその後、言葉が出なかった。 彼女の教祖様が信者間ではお祈りの効果がないと言ったのは、それでは新しい信者を獲得出来ないからだ。しかし、そんな簡単なことも、彼女は疑問に持つことはなかった。それは、信じる気持ち故のことだろう。彼女がその後、どうなったか、もちろん私は知るよしもない。
もっと有名な話をしようか。キリスト教徒をとやかく言う気はないが、あくまでも一例として。 世界に騒乱が生まれたとき、とある教会のマリア像は血の涙を流すという。 これがもし名もなき日本人形の目から血が流れ出たら、彼らは悪魔の仕業だと言うだろう。私がいいたいのは、同じ事象についても、信じるか信じないかでこれほど正反対の受け止め方をすることだ。 残念ながら、宗教的教えに傾倒すればするほど、人は本来持っているべきある能力を失う。「疑う」「疑問に持つ」という能力だ。 偉い人からの言葉をただ信じることが信仰心だとするならば、思考が停止した奴隷のようなものではないだろうか? 自らの命を惜しむこともなく、組織のために働く。自らが正義や悪を考えるのではなく、すべての善悪の判断を他者に委ねる。 その結果、自らの生命、財産、あるいは自分だけではなく回りの人も巻き込んだ生命、財産を軽視するというのは、本末転倒に思えてならない。確かに、教祖にとって数多の信者は「見知らぬ誰か」であり、その命や財産は「見知る者」に比べて軽視されることになる。 自爆テロや無差別テロの全てが信仰によるものではないとしても、とある神を信じてしまったために、たったひとつしかない命、人生を、早々と投げ出してしまった方々がいると思うと、私は残念でならないのである。 「人はもっと、人(あるいは生命)を大切にするべきだ。神の存在や教えではなく」 信仰にまつわる悲惨な事件が起こる度に、私はそう言わずにはいられない。 ◆私にとっての神 しかし、その代理人が人の形をしたとき、それは神の名を語るペテン師になりさがる。自分を神の化身だとか、代理人だとかと言う人は、恐れ多いことをいうものだと思う。私にとって彼らは、傲慢以外の何ものでもない。 神とは、手が届かないから神なのだろう。空を見上げたときそこに神の姿がない以上、実態を知ることができない存在であるからだ。 その定義に則れば、宇宙にまで進出している現代の人類においての神は、宇宙の果てにでもいるのだろう。あるいは、見えない存在だが、すべてを生み、そしてすべてを破壊する「時」ことが、もしかしたら神の正体かもしれない。 まあ、いずれの神も信じていない私が、こうして毎日過ごしていることからも分かるとおり、とても慈悲深く、心が広いお方であることは確かである。 |
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