◆議論することの必要性
北朝鮮が核実験をしたことにより、政府与党でも日本の核武装について議論すべきであるという気運が高まっている。
野党はそれに対し大臣の罷免も含めた要求を出しているが、私は議論はしっかりすべきであると考えている。
確かに日本には非核三原則がある。しかし、それは北朝鮮が核実験を行うはるか昔にできたものだ。どんなことでも、時間が経てば
見直しは必要なのだ。憲法9条然り、どうも日本という国は臭いものに蓋をしたがるところがある。和を重んじるという国民性だろうか、
議論が苦手ということもある。なぜなら議論するということは、意見の違いを明確にすることでもあるからだ。
「言わなくても分かるだろ」に象徴されるような日本文化からすれば、議論しづらいことを議論するのは、とても苦痛に満ちたことなのである。
それでも、私は議論すべきだと思う。
なぜなら、議論しなければ、国民全体としてのコンセンサスが得られないからだ。集団的自衛権ひとつとってみても、議論されないままであるからこそ、
あやふやになっている。何が合憲で何が違憲であるかなどという議論ではなく、何が必要で何が不必要であるかを議論すべきではないだろうか?
日本が核を持つかどうかという議論は、国民レベルでしっかりされるべきだ。この議論の結果は既に見えていて、米国の核の傘に守られている現状で、
核をもとうという結論に達することはまずないだろう。
私は、十分に議論し、その結果、「米国の核の傘がある限り」あるいは「日本を核攻撃するということを政治的脅迫している国がない限り」という核を
もたない明確な条件を自ら設定することを期待している。それは米国に「日本を核攻撃から守りない」というメッセージになるし、北朝鮮に対しても
「日本を核攻撃するぞ」というような脅迫をした場合、すぐさまそれは北朝鮮に対しても核弾頭が向くことになるという明確なメッセージになる。
もちろん、その条件が守られている限り、無能な政治家が核を持とうなどと考えることも防止できる。
これらを議論しないで有事法制などできるだろうか?
また、日本の国会で、あるいは国民レベルで核開発の必要性を議論することは、お隣中国をよい意味で刺激することになる。北朝鮮問題をお座なりにすれば、
日本の核武装と言う中国にとって最悪のシナリオもでてくるとなれば、彼らも本腰を入れるようになるだろう。
私は日本が核武装することには現状では反対である。しかし、一向に進まない六カ国会議を見るにつけ、これを議論することで各国に政治的プレッシャーを
与えることは非常に重要だと考えている。
◆議論する際は本質を突くべき
私は、このような議題が出るたびに社会党や共産党に失望する。彼らはつい最近まで自衛隊を違憲扱いしていたが、彼らの理屈は机上の空論であり、
実を伴っていない。
かつてナチスの侵攻を止めたのはペンであっただろうか? 演説であっただろうか? いや違う。軍事的パワーである。
情報のボーダレス化が進む現在、軍事力だけでは国を治めることはできない。しかし、他国の侵攻に対抗しようと考えた場合、軍事力は必要不可欠である。
特に、情報統制がされている一部の国を相手にする場合は。
力の伴わない正義など、意味がない。なぜならば自分達の考える正義と、相手の考える正義は必ずしも一致しないからだ。
どんなに崇高な理想を掲げてみても、いざ国家レベルでの対立ともなれば、軍事力は必ずなければならない。無力であるということは、交渉のテーブルにも
つけないということを意味する。
決して、そこを履き違えてはならない。