本日の御題:日本社会のモラル低下に嘆く
◆警察の組織的犯罪は重大問題
 一教師や警察官が不祥事を起こしたとしても、決して驚かない筆者であるが、最近明るみになった警察の不祥事には 正直驚きと失望を感じている。
 事の発端は内部告発であった。しかしそれが思わぬ波紋を広げることになった。北海道に端を発した捜査用報償費(道費)不正支出疑惑は どうやら全国規模で行われているらしいというのだ。
 私は政治家、官僚、教師や医者、あるいは自衛官、警察官、宗教家に至るまで決して善人ばかりとも悪人ばかりとも思っていない。だから一個人が 犯した罪について「まさか警察官が・・・!」あるいは「まさか教師が・・・!」などと週刊誌が書き立てることに対しては、大いなる疑問を 抱かずにはいられない。何千・何万もの人がいれば、たとえ聖職に仕える身といえども不届きな者は必ず混ざっているものだから。
 職業だけでその人を判断してしまうことはそれ故に危険だが、日本人は割と最近まで肩書きにとにかく弱かったなではないだろうか。

 さて、話を戻すが、今回の事件で私が驚きを感じたのは、ひとえに警察署にて不正会計が 恒常的、かつ組織的に行われていたという点だ。
 警察といえば、当然ではあるが治安の要であり、社会の不正を取り締まる立場にある。罪を犯した者を探し出し、捕らえ、 そして法廷に突き出して(正しくは告訴するのは検察であり、検察に送検するまでが警察の仕事である)法の裁きを受けさせるための組織である。
 その警察組織が不正会計を、しかも全国的に行っていたということはどういうことであろうか? 泥棒が泥棒を捕まえているようなものではないか!

 私は激しい憤りを感じた。同時に今回の事件で私の中の警察に対する信頼は大きく揺らいだと言えよう。そしておくらく多くの国民にとっても同じことが いえるはずだ。ただここでひとつ間違わないで頂きたいのは、何度も既に書いたことではあるが、組織的に不正を行っていた という点である。その点はこれまでの一警察官が罪を犯した場合と根本的に性質が異なる。
 警察の不正を自ら警察が暴けないのは自明の理であるため、国民の注意がこれほど求められる事件はないであろう。このままでは北海道県警の 一部の警察官の話で終わってしまう。
 全国的規模で不正を犯した警察官を明らかにするためには、国民が政治家を動かさなければならない。

◆肩書きで信じてはいけない
 前述したように、日本人はことさら肩書きに弱い。しかし、今日の日本はそんな日本人の性格をも変えてしまいそうである。
 全国規模で行われていた不正といえば、ごく最近では医療機関でも起こっている。医学生より名義を借りて、 不正な収入を得ていたというものだ。税金垂れ流しの体質とは恐ろしいもので誰も個人から騙し取ったものではないから罪悪感が希薄になる。
 また、政界に目を向ければ、政治家の秘書給与着服事件がごくごく最近問題になったばかりだ。国から支給された 給与が政治家の懐に入る・・・。政党助成金が少ない中小野党の場合、与党自民党よりも確かに政治献金も集まりにくく、選挙資金集めに大変なのは よく分かるが、自民党と二大政党制の一方の雄になろうとしている民主党議員でも行われていたことには大きな問題があると言えるだろう。
 まして、今回発覚した件については、別の政治家の秘書給与着服が発覚した後から始められたものである。つまり、全く懲りていないという訳だ。

 官僚の世界では、天下りが今でも公然と行われているし、道路族の政治家と道路公団が構想した第二東名高速道路についても、 時速140km道路にするだの、できないだのと基本的な合意なく6車線で作り始め(完成までには70〜80兆円が投入されるとの試算だが、これで収ま る保証はどこにもない。なぜなら作っている本人が、あと何年で作り終えることができるのか分からないのだから・・・。それほどずさんな計画で動いている 以上、予算についてもいい加減であることは間違いない...)、未着工の部分は4車線にするだの(そんなことをするから渋滞が起こるのだ!)、枚挙に 暇がない。

 しかも最近(ほんの数日前のことだ。まだ一週間とて経ってはいない)になって自衛隊でも政府専用機の運航を担う 航空自衛隊員の経費水増し請求をしたという疑惑が持ち上がっている。

 宗教界では、オウム真理教の教祖が逮捕時に現金(札束)を抱えていたことは有名だが、それ以外の宗教でも 最近報道されたとある宗教の教祖のプライベートでは、金銭問題について家族と絶縁状態になっていることも明らかになるなど、不正とまでは言えないに しても、本来人の心を救わねばならない立場にある者にしては、あまりにも世俗的な一面であった。
 バブル期に不動産に手を出して大損失を被った宗教法人も多いと聞く。やはり三途の川も金次第・・・ということなのであろうか?

 以上のことからも分かるように、我々は肩書き信頼主義を捨てるべきときに来ている。残念だが一度、まず疑うところから始める気持ちが必要なのである。 その上で信頼できる人、モノは信頼すればいい。

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