◆成人式は大同窓会
更新の時期を逃してしまったが、毎年正月の風物詩といえば荒れる成人式ではないだろうか。
成人式中に壇上に土足で登る成人たち。決して皆が皆ではないといいつつも、では席についている人はマナーを
守っているのかと言えば、携帯電話で通話やメールをしている始末・・・。その光景はもはや式典をなしていない。
彼らは自分達不在で大人によって作られた式典に反抗し、自らの意思・存在を主張しているのであろうか?
主体性・あるいは独立心という精神的欲求が爆発し、大人主導の式典に反抗しているのであろうか?
なんでもそうだと思うのだが、人間が社会性を持つ以上、そこには必ず派閥というものが生じる。
「大人」と「子供」という分け方をすれば、必ず「最近の子供達は...」と一方では言い、またもう一方では
「大人たちは信用できない...」とも言う。
「男」と「女」という分け方をすれば、必ず「女達はわがままで...」と一方では言い、またもう一方では
「男達こそ身勝手だ...」とも言う。
国や宗教が違えばその意見の相違は戦争になり、報復テロへと姿を変えるだろうし、国会の場では与党と野党の足の踏みつけあい、引っ張り合いになり、
官僚の世界では省庁同士の縄張り争いにもなる。
私は、ある意味、この身内意識、派閥意識というものは仕方がないものだと思う。それは昔からもあったし、これからもあり続けることであろう。
問題点も多いが人間らしい部分でもある。自分が所属する領域がなければ人は不安を感じるは本能なのだから。
しかし、成人式が荒れるのは、単に「大人」と「子供」の意識の違いではない。なぜなら彼らには主体性がないからだ。成人式をこう進めたいとか、
あるいはこうあるべきだという意見をどれほどもっているだろうか? 携帯電話一つにしても、自分と式典の間の大きな隙間がある証拠ではないか。
彼らに自ら成人式を取りまとめたいという欲求があるわけではない。当然参加しているわけでもない。ただそこにいるだけである。
しいて言えば豪華で壮大な同窓会の場であり、お見合い写真にも使えそうな綺麗な着物を着れる場である。だから市長の話を聞くよりも、携帯電話で友達が
今どこにいるのかのほうが大切なのだ。
◆道徳・モラルの低下を反映したもの
今から約10年前、私も成人をしている。実はそのとき、私は式には参加していない。親の車で会場に向かい、記念品だけ受付で貰いそのまま帰って
しまったのだ。そのことについて当時の知人に「成人式は参加しなければならないものだ」と言われたが私は今でも自分の判断に自信をもっている。
私は成人式に意味を感じていなかった。同窓会としてならば親しい友人とは卒業後も連絡をとっていたし、市長の言葉など全国どこも一緒で、
まるで暗記問題か答案用紙の回し読みか、あるいは三流舞台の台詞程度にしか聞こえないからだ。そして何より人ごみが嫌いだ。
しかし、そこには自分なりのポリシーがあった。市長の言葉よりを聞くよりも身になり、式に参加するよりも有意義な時間を過ごす、という。式典に参加して
あくびをするような時間の過ごし方をしたくなかったのである。だからあえて、誰にも迷惑がかからないような方法を選択したわけである。
そのため、今の成人が成人式に参加しなくなっても、私は決して嘆かない。必要性がないのであればそこに強制的に人を集める努力すること自体が、
ある意味税金の無駄遣いにさえ思えてしまうからだ。
しかし、一度参加を決めた以上は、携帯電話の電源を切らないことや壇上に上って暴れること、あるいは徒党を組んで酒を飲み大声を張り上げて回りを
威嚇することは許してはならない。それは多大な迷惑をかけるからだ。
しかし他人に迷惑をかけるからしてはいけない、という思考が最近の若者には薄れている気がしてならない。
たとえば、最近の調査では「万引き」を決してしてはいけないと思っている高校生は半数に満たなく、「個人の自由(捕まれば自己責任というやや
突き放した意見)」や「別にたいした問題ではない」と答えた人が6割程度いたという。同様の傾向はクスリにも言えて、友人がやっていても
それを止めることはしない人の割合は想像以上にに高い。つまりそれは「その人に選択の自由がある」ということなのだ。
しかし、これは果たして許される行為なのだろうか? 悪ではないのだろうか? 荒れる成人式は低下したモラルを顕著に反映したものであると
私は考えている。
◆行き着く先は教育
「長」の名前がつく人の話は昔から詰まらないものと相場が決まっているが、それでも話している最中に携帯で電話をしたり、
歩き回って友達と騒いだりはしてはいけないことだった。しかし最近の成人式を見る限り、それは決して特別なことでも珍しいことでもなく、
当然少数派でもなく行われていることに驚かされる。
その様は殆ど小学校の学級崩壊状態で、市長の度重なる叱責にも、市長がまじめになればなるほど嘲笑う声が上がるばかりだ。
しかしそんな彼らでも就職活動の面接では背広をただし慣れない敬語を使おうと努力するはずだ。それはなぜか? 就職をし仕事を得たいと
思うからである。
つまり、彼らが口で「自分達は人に迷惑をかけていない」とどんなに弁明したところで、「自分達の行為が悪いことである」ことは
十分に認識していることは明らかなのだ。分かっている上でやっていることだから確信犯であり、それ故に市長の注意など初めから折込済みなので
馬鹿にして取り合わない。あるいは市長の怒る顔を楽しむ愉快犯という一面も一部の人にはあるだろうから、むしろ歪む市長の顔は彼らの素行の
悪さをさらにエスカレートさせるかもしれない。
では確信犯・愉快犯を抑えるためにはどうしたらよいか? 古典的な方法ながらそれは意外と簡単なことだ。市長の背後に
ボブサップのようなごいつ肉体をもった警備員を複数立てることである。もはや壇上に登る者は現れないであろう。
なぜか? ふざけたことをすれば手痛い目に遭う事がわかっているからである。主義主張のない者は、力、あるいは刑罰によって容易く
抑えることができる。
しかし残念ながら、20歳になってしまえばその効果はその場限りだろう。おそらく式典が終わって会場を出たところで騒ぎは始るだろうし、
会場付近までくまなく警備すれば場所を代えてやはり同等の事が起こるだろう。つまり根本的な解決には繋がらない。
ではどうすればいいのか? 私はひとえに小学生・中学生ぐらいまでの教育だと思う。なぜなら成人式の様子はそのまま学級崩壊の現場にも
当てはまるからだ。
親ですら叩けない子供を先生が叩けるはずがない。PTAが黙っていないし、週刊誌も事実を誇張して書きたてるであろう。
しかし、口で分からぬ者に対して叩くというのは、やむを得ない行為だ。もちろん、行き過ぎた体罰はもってのほかである。
しかし授業を受ける権利はあっても、それを妨害する権利がないのであれば、その権利を侵害するものに対してはたとえ子供であろうと
ペナルティを科すべきである。なぜなら学校という場が、社会へ出る前の訓練の場であるからだ。
ここで社会のルールを教えず何を教えるのであろう。
小学校低学年でさえ、自分がしていないことで叱られれば猛反発してくるが、
自分が悪いことであれば、その時は叩かれてむっとしていても、悔しくても、仕方がないと納得するものである。
私自身、中学時代、先生に何度か叩かれたことがあったが(往復平手打ちなんてこともあった)、決して今その先生を恨んではいない。
むしろ親近感さえ覚えている。今再開したら、「あの時はお手数をおかけしました」と笑いながら挨拶するだろう。
その一方で、口先だけの正論をかざしていた教師に対しては今でも昔と代わらず軽蔑の視線を向けてしまう。たとえば、正論を口にしながら
苛めを見てみぬ振りする先生。言葉だけで注意をするものだから、後でさらにいじめっ子によって苛められてしまう子を私は
何人も見ている。(うちの中学は同時、暴力事件が多数発生するなどかなり荒れてました...。護身のために竹刀もって授業に
出る先生もいたぐらいで...)。
確固とした態度で臨まねばならないことがあっても、優しい言葉を投げかけるだけというのでは、殺人者の人権を保護して
亡くなった被害者の人権を保護しないのとなんら変わりない。
もちろん、やみくもに教師である立場を利用して体罰を推奨するわけでは決してない。ないにこしたことはない、のだから。
最後に、NewsWeekの記事よりひとつ面白い記事を見つけたので紹介しておこう。最近、アメリカの学校の治安は一時期に比べて格段に改善されたという。
80年代〜90年代には学校で発砲事件があったりと社会問題に発展したが、自由一辺倒ではなく日本の教育を手本とすることで
教育荒廃が落ち着いてきたというのだ。
その一方で、日本はアメリカをお手本としてきた。つまり、日本がアメリカの自由な教育を手本とする一方、実はアメリカはこっそり教育日本の
教育を研究してきたというわけだ。
そしてアメリカの教育荒廃はだいぶ落ち着いてきた。今、30年前と全く逆のことが両国でおこっている。